↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】悪役令嬢の役立たずスキルで、婚約破棄された王子様を拾いました  作者: ましろゆきな
第二部:名前で生きる季節 

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/49

第十一話 呼び名

 荷運びの仕事に通い始めて、十日ほどが経った。


 最初はことごとく怒鳴られていたアレクシスも、今では段取りを覚え、無駄のない動きで荷を運べるようになっていた。現場の空気も、最初の刺々しさから、少しずつ和らいでいる。


「兄ちゃん、そっち頼む!」


 年配の職人が、荷馬車の向こうから声を飛ばしてきた。


 アレクシスは、一瞬、反応が遅れた。誰に向けられた言葉か分からなかったわけではない。ただ、自分がそう呼ばれたのだと理解するまでに、わずかな間があった。


「――ああ、分かった」


 答えながら、荷を担ぎ直す。それだけの、何でもないやり取りだった。


 それなのに、アレクシスの中には、小さな戸惑いに似た感覚が残っていた。


 「殿下」には、常に敬意と距離があった。誰もが言葉を選び、態度を選んで、その名を口にした。「アレク」は、リリアーナだけが知る、二人だけの呼び名だった。それは、肩書きを伏せた者同士の、静かな約束のようなものだった。


 だが、「兄ちゃん」には、そのどちらもなかった。


 名前すら、必要としていない。ただ、そこで働いている一人として、雑に、気安く扱われているだけの呼び方だった。


 それが、思っていたよりずっと、心地よかった。


 同じ頃、薬屋でも、リリアーナは似たような変化に触れていた。


「リリアーナさん、この間の塗り薬、よく効いたよ」


 常連の女性客が、そう声をかけてくる。名字を尋ねられることもない。ただ「リリアーナさん」として、当たり前のように扱われる。


「リリアーナおねえちゃん!」


 店先で遊んでいた小さな子供が、駆け寄ってきて袖を引いた。転んで擦りむいた膝を、得意げに見せてくる。


「今度は、痛くないようにしてね」


「……ええ、任せて」


 リリアーナは、少しだけ声を詰まらせながら、そう答えた。


 「令嬢」でも、「役立たず」でもない。屋敷では、一度も得られなかった呼び方だった。誰かの妹でも、誰かの婚約者候補でもなく、ただ「リリアーナ」という一人の人間として、この町に迎え入れられている。


 その夜、狭い部屋での夕食の席で、二人は自然とその日の出来事を話し合っていた。


「今日、兄ちゃんって呼ばれた」


 アレクシスが、少し照れくさそうに言った。


「私も。姉ちゃんとか、リリアーナさんとか」


 リリアーナが、小さく笑いながら答える。


 他愛のない会話だった。だが、その裏で、二人は同じことを感じ取っていた。


 名前でもなく、身分でもなく、ただ「そこにいる人」として、受け入れられている。それは、これまでのどんな肩書きよりも、確かな居場所のように思えた。


「殿下、から。アレク、になって。今は、兄ちゃん、か」


 アレクシスは、自分の呼ばれ方の変遷を、ぽつりと口にした。


「呼ばれ方が変わるたびに、自分から遠くなっているようで、実は――」


「近くなっている?」


 リリアーナの言葉に、アレクシスは小さく頷いた。


「でも」


 リリアーナは、少し考えるように間を置いてから、続けた。


「私は、アレクって呼ぶわ。これからも」


「――なぜ」


「兄ちゃんは、町のみんなが呼ぶ名前でしょう。あなたがここに居場所を持てた証。それは、それで良いものだと思う」


 リリアーナは、まっすぐにアレクシスを見た。


「でも、アレクは違う。私だけが知っている、あなた自身の名前だもの」


 その言葉に、アレクシスは息を止めた。


 肩書きが剥がれ落ちるたびに、代わりに何か別のものが、少しずつ積み重なっていく。それが何なのか、まだ名前をつけられずにいたが、失っていく感覚だけではないことは、確かだった。


 窓の外では、町の明かりが、ぽつぽつと灯り始めていた。


 この町に、少しずつ、自分の居場所ができ始めている。その実感が、静かに、しかし確かに、アレクシスの中に根を下ろそうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。