第十一話 呼び名
荷運びの仕事に通い始めて、十日ほどが経った。
最初はことごとく怒鳴られていたアレクシスも、今では段取りを覚え、無駄のない動きで荷を運べるようになっていた。現場の空気も、最初の刺々しさから、少しずつ和らいでいる。
「兄ちゃん、そっち頼む!」
年配の職人が、荷馬車の向こうから声を飛ばしてきた。
アレクシスは、一瞬、反応が遅れた。誰に向けられた言葉か分からなかったわけではない。ただ、自分がそう呼ばれたのだと理解するまでに、わずかな間があった。
「――ああ、分かった」
答えながら、荷を担ぎ直す。それだけの、何でもないやり取りだった。
それなのに、アレクシスの中には、小さな戸惑いに似た感覚が残っていた。
「殿下」には、常に敬意と距離があった。誰もが言葉を選び、態度を選んで、その名を口にした。「アレク」は、リリアーナだけが知る、二人だけの呼び名だった。それは、肩書きを伏せた者同士の、静かな約束のようなものだった。
だが、「兄ちゃん」には、そのどちらもなかった。
名前すら、必要としていない。ただ、そこで働いている一人として、雑に、気安く扱われているだけの呼び方だった。
それが、思っていたよりずっと、心地よかった。
同じ頃、薬屋でも、リリアーナは似たような変化に触れていた。
「リリアーナさん、この間の塗り薬、よく効いたよ」
常連の女性客が、そう声をかけてくる。名字を尋ねられることもない。ただ「リリアーナさん」として、当たり前のように扱われる。
「リリアーナおねえちゃん!」
店先で遊んでいた小さな子供が、駆け寄ってきて袖を引いた。転んで擦りむいた膝を、得意げに見せてくる。
「今度は、痛くないようにしてね」
「……ええ、任せて」
リリアーナは、少しだけ声を詰まらせながら、そう答えた。
「令嬢」でも、「役立たず」でもない。屋敷では、一度も得られなかった呼び方だった。誰かの妹でも、誰かの婚約者候補でもなく、ただ「リリアーナ」という一人の人間として、この町に迎え入れられている。
その夜、狭い部屋での夕食の席で、二人は自然とその日の出来事を話し合っていた。
「今日、兄ちゃんって呼ばれた」
アレクシスが、少し照れくさそうに言った。
「私も。姉ちゃんとか、リリアーナさんとか」
リリアーナが、小さく笑いながら答える。
他愛のない会話だった。だが、その裏で、二人は同じことを感じ取っていた。
名前でもなく、身分でもなく、ただ「そこにいる人」として、受け入れられている。それは、これまでのどんな肩書きよりも、確かな居場所のように思えた。
「殿下、から。アレク、になって。今は、兄ちゃん、か」
アレクシスは、自分の呼ばれ方の変遷を、ぽつりと口にした。
「呼ばれ方が変わるたびに、自分から遠くなっているようで、実は――」
「近くなっている?」
リリアーナの言葉に、アレクシスは小さく頷いた。
「でも」
リリアーナは、少し考えるように間を置いてから、続けた。
「私は、アレクって呼ぶわ。これからも」
「――なぜ」
「兄ちゃんは、町のみんなが呼ぶ名前でしょう。あなたがここに居場所を持てた証。それは、それで良いものだと思う」
リリアーナは、まっすぐにアレクシスを見た。
「でも、アレクは違う。私だけが知っている、あなた自身の名前だもの」
その言葉に、アレクシスは息を止めた。
肩書きが剥がれ落ちるたびに、代わりに何か別のものが、少しずつ積み重なっていく。それが何なのか、まだ名前をつけられずにいたが、失っていく感覚だけではないことは、確かだった。
窓の外では、町の明かりが、ぽつぽつと灯り始めていた。
この町に、少しずつ、自分の居場所ができ始めている。その実感が、静かに、しかし確かに、アレクシスの中に根を下ろそうとしていた。




