貴方の名前はおツキ様
老猿が震えている。
高欄に皺だらけの手を乗せて空を見上げる老人の弱々しい背中に見てナギは胸中で揶揄する。
白蛇の城。
二人がいるのは白蛇の城の天守閣。
一片の汚れのない白色の城は白蛇の国の象徴として民から愛され、悠久の平和の象徴とされた。
しかし、今は誰も白蛇の城と呼ばない。
悠久の平和の象徴とも呼ばない。
そのどちらも失われてしまったから。
老人は、毎日、天守閣に登っては空を、その果てにあるここからは決して見えない物を見ようとする。
老人とは言ったが実際のところ彼はまだ四十半ばを過ぎたばかりだった。
しかし、派手な朱色の豪奢な着物の下にある小さく痩せ細った身体、そして白髪の混じった汚らしい髪と皺だらけになった顔が彼を老人……いや老猿に至らしめた。
「まだか……」
老人は、苛立たしく空を睨みつける。
「アレはまだ奴を仕留めておらんのか?」
老人は、憎々しげに唇を噛み締める。
「そのようにございます」
ナギは、静かに口を開く。
礼儀正しく、堂々とした振る舞いだが、彼はまだ十五歳を迎えたばかりの少年だった。
人目を惹きつける金色の髪、幼くも精悍な顔立ち、背は低いがその身体は隆々に鍛え上げられ、白蛇が巻き付くように描かれた朱色の甲冑を纏ってもまるで遜色がない。腰にも同様の朱色の柄と鞘に収まった大太刀が下げられている。
朱色の大太刀と甲冑。
それは白蛇の国を守る武士達の最高峰、大将の位を示すもの。
"朱"のナギ。
それが彼の字名だ。
老人は、憎々しげに親指の爪を噛みしめる。
そのあまりに下品で浅ましい姿をナギは平然とした表情で見る。
「何をモタモタしてるのだ。あの馬鹿は……」
「恐らく……最も適した時を探っておられるのでしょう。アケ姫は聡明な御方で……」
「ジャノメだ!」
老人は、荒々しく叫ぶ。
ナギは、目を固く開く。
「それはワシの可愛い孫娘の名だ!あれはジャノメだ!ジャノメと呼べ!」
老人は、狂ったように叫び、爪を深々と噛む。
「あの馬鹿の……あの馬鹿のせいでこの国は……白蛇様が……それなのに何をモタモタと……このままでは……金色の黒狼がこの国を……ワシ達を殺しにくる……その前に……その前に……」
老人は、背を丸くし、目をこれでもかと言うほど剥いて空を見上げ、血が滲むほど爪をむしゃぶり噛んだ。
浅ましい……。
醜い……。
吐き気がする……。
こんな奴が国の政治の中枢を担う関白大政大臣だなんて……。
そして……。
ナギは、ぎゅっと拳を握りしめる。
「ナギよ……命を与える」
「……はっ」
ナギは、深々と頭を下げる。
「殺せ」
ふうふうっと指を笛のように咥えながら関白は言う。
赤い甲冑がカタッと震える。
「ジャノメを殺し、金色の黒狼をこの世から消せ」
「……」
ナギは、言葉を吐かない。
奥歯がギリッと音を立てる。
関白の目がギョロリッとナギに向く。
「返事はどうした?」
「……」
「返事はっ!?」
狂ってるとしか思えない強く、黒く、醜い声が天守閣に響き渡り、血と唾が飛び交う。
ナギは、薄く息を吐き、関白に目を向ける。
「……殿下の仰せのままに」
その言葉に関白は、溜飲を下げて穏やかに弱々しく微笑む。
「そうか。やってくれるか。流石は"朱"のナギだ」
関白は、満足気に頷き、空を見上げる。
「事を成した暁には褒美をやろう。そうだな。次男の長女を娶らせよう。愛らしい娘だ。まだ七つだが歳を重ねればお前とも釣り合おう」
「……恐悦至極にございます」
ナギは、深々と頭を下げる。
「大義を果たせ」
「はっ」
ナギは、踵を返し、天守閣の階段を降りる。
関白は、気づいていなかった。
自分の背に忠義の言葉を放つナギの顔が怒りに歪んでいることに。
「御大将」
階下を降りたナギの左の耳朶に熱い吐息と甘く蕩けるような声が流れてくる。
ナギは、不快げに左に視線を向けると女の顔がそこにあった。
顔……と言ってもその左半分は長く、波がかった黒髪に覆い被さられて見ることは叶わない。しかし、残された右半面だけでも女が十分に美しいことは見て取れる。細い輪郭、白すぎる肌、釣り上がった唇、朱色の瞳、そして肌けた朱色の着物から覗く艶かしく発達した妖艶な身体。
女は、ナギの左肩に細い顎を乗せ、吊り上がった唇に笑みを浮かべ、朱色の瞳でじっと彼を見つめる。
その身体は煙のようにふわりっと宙に浮き上がっていた。
「お猿さんとのお話しはいかがでした?」
熱い吐息と声が耳朶を舐める。
「どうせ聞いてたんだろう?」
「壁に耳あり障子に目あり、御大将の隣に私あり、ですよ」
そう言って女はほくそ笑む。
つまり、最初から聞いていたということだ。
ナギは、表情を変えず、視線だけを女に向ける。
「それで……どうなさるんです?」
「猫の額に飛ぶ」
ナギの言葉に女は特に驚いた様子を見せない。
「邪魔をする者は全て……全て殺す」
ナギの目から殺意が溢れる。
女は、細い首筋に刃を押し付けれるような心地よい殺意ににんまりと笑う。
「畏まりました。御大将」
女は、妖艶な笑みを浮かべて囁く。
「では、急がれた方がよろしいかと……」
女の身体が離れる。
風船のように天井までふわふわと昇っていく。
「あの場で聞いていたのは私だけではありませんよ」
「だろうな」
関白といた天守閣。
二人だけしかいないはずの空間に少なくとも複数の気配と視線を感じていた。
女以外の……。
「俺は人気がないからな。蹴落とそうと必死なのさ」
「強大な才能と地位、そして若さの前に嫉妬と劣等感を抱かぬ人はおりませんよ。特に武士のような古い階級社会なら尚更のこと」
女は、愉快げに喉を震わす。
「急がないと全て奪われますよ」
「いらん」
ナギは、吐き捨てるように言う。
地位、名誉、才能。
くだらない。
こんなもの……何も惜しくはない。
(俺が欲しかったのは……)
「私は、裏切りも蹴落としもしませんよ」
女は、小さく、切れるように微笑む。
「等価交換が成り立つ間は……ね」
「十分だ」
ナギは、視線を前に向ける。
「期待している」
ナギは、そう言って振り返らずに歩き出す。
女の身体が風船のように弾け、消え去る。
(遅くなってごめん)
ナギは、胸中で刻むように呟く。
(もうすぐ終わるよ)
ナギは、ぎっと視線を向ける。
そこにいない誰かに向けて。
ゆっくりコトコト、じっくりコトコト。
心の中で歌うように呟きながらアケは緩やかに燃え上がるアズキの背中に置いた土鍋を木ベラでゆっくりかき回す。
土鍋の中は真っ白だ。
正確には温められた乳の中でお米が静かに泳いでいる。
アズキは、自分の背中の炎が必要以上に熱くならないよう懸命に抑えてるのか、目をギンっと見開き、歯を食いしばっている。
「ありがとうね。アズキ」
アケは、蛇の目を優しく細めて声をかけるとアズキは「ぶぎい」と息を止めているかのように低く、小さく唸る。
アズキの為にも美味しく作らないと……と決意を固め土鍋に向き合うアケ。
その横で反物を身体に巻きつけた緑翼腕の少女……ウグイスがアケの頬に愛らしい顔をべったりとくっつけ、綺麗な形の唇から大量の涎を垂らしながら覗き込んでくる。
「ジャノメ〜まぁだあ?」
大きな緑色の目を綺羅星のように潤ませ、輝かせてウグイスはアケに強請るように抱きついてくる。
「ウグイス……ちょっと離れてください。涎が入っちゃう」
アケは、空いてる手でウグイスの顔をぐいぃと押して引き剥がそうとする。
「のめり込んでヤンデレ化した雌を邪険にして足蹴りを繰り返す雄のようなことしないで〜」
「ヤンデレってなに!?てか、そんな経験したことあるんですか?」
「ないよ〜素敵な殿方とお付き合いしたいよ〜」
「切実に泣かないで。あと涎が入っちゃうからぁ」
「大丈夫だよ〜乙女の涎は隠し味〜」
「どこの諺ですか!あっ!どさくさに紛れて胸触らないで!」
「げへげへ。ジャノメのお胸って意外と大きいんだね。半分ちょ〜だい」
「いやらしく笑わないで。着物の中に手を突っ込まないで!」
「よいではないか〜よいではないか〜」
そんな風にウザく絡みあいながらも楽しそうにしている二人を青いとんがり屋根の食堂の中で二人の人物が見ていた。
一人は、メイド服着た白髪の絶世の美女、座敷童子、もう一人はずんぐりと大きな体格の赤目の白兎、オモチだ。
「仲良しさんですね」
座敷童子は、二人の様子を見て楽しそうに笑い、クロモジ茶を啜る。
オモチは、鼻をヒクヒク動かしてアケ手作りの煎餅をパリンっと齧りながら猫の額特有の言葉でこう呟く。
「馬鹿ップル」
アケとウグイスの嫌らしくも明るい会話が猫の額を音楽のように響き渡った。
「出来ました」
そう告げるとアケは、土鍋の中で煮込まれた白色の汁物を小さな木のお椀に丁寧に注いでいく。
それも幾つも幾つも。
ウグイスとオモチは、木のお盆に載せると食堂から少し離れたところに設置された樹木と葉が絡み合って創られた大きなテーブルに運んでいく。
テーブルの周りには沢山の小さな生き物達がぎゅうぎゅうに座っていた。
一見すると人間の女児と変わらない。
しかし、おかっぱの髪は雪を被ったように真っ白で大きな目は蜻蛉のような大きな複眼になっている。服は着ておらず、未発達の上半身からは六つの細い腕が生えている、下半身は髪の毛と同じ白色の毛が猿のように全体を覆っている。そして全員が同じ作りの愛らしい顔をしている。
「ほらっ八尺達」
ウグイスが和かな笑みを浮かべて声を掛けると八尺達の複眼が一斉に向く。
「ご飯が出来たよ」
オモチが鼻をヒクヒクさせながらテーブルにお椀の乗ったお盆を置く。
「「ぽぽぽぽぽぼぽっ」」
八尺の子ども達が一斉に歓喜の声を上げて六つの手を伸ばしてお椀を取ろうとする。
「こらったくさんあるから慌てないの!」
ウグイスが注意するもお腹の空きすぎた子ども達の耳には入らない。お椀と木の匙を手にすると熱いのも厭わずに口に運び……。
「「ぽぽぽぽぽ〜!」」
それが美味〜い!という歓喜の叫びであることは言葉のわからないアケにも十分に伝わってきた。
アケは、思わず口元を綻ばせる。
背中に大きな鉄のお釜を乗っけたアズキも嬉しそうに「ふぎぃ」と鳴く。
アケとアズキの上に影が落ちる。
蛇の目を上に向けると、子ども達と同じ顔と姿をした、しかし、大きさのまるで違う女性が立っていた。
「八尺様」
アケが女性を見上げて言う。
「ワシは、八尺。八尺ではない」
八尺は、綺麗な顔からは想像できない低い声で不機嫌そうに言う。
アケは、無意識に出てしまった失言に慌てて口元を抑え、頭を下げる。
「申し訳ございません。つい故郷の言葉で……」
アケの育った白蛇の国の異形の名と猫の額の住民は共通点はあれど呼び方が違うのは三ヶ月暮らした中で承知していた。
小鬼がゴブリン、ぬりかべがスプリガン、姑獲鳥がハーピーと言ったように。
そして白蛇の国の伝承と違い、彼らが高い知性と優しい心を持っていることも……。
案の定、八尺も不機嫌な口元が緩み、小さく釣り上がる。
「ぽぽぽっ気にするな。次から気を付けてくれれば良い」
そう言って大きな手を伸ばしてアケの黒髪を優しく撫でる。
温かい。
アケは、頬が熱くなるのを感じる。
頭を撫でられたのなんていつ振りだろう?
「我が子達、喜んでいるな」
八尺は、複眼を細めて夢中に食べる我が子を見る。
「アレは……何という食べ物だ?」
「乳粥です」
アケは、頬を赤らめたまま言う。
「ウグイスが牛鬼さんから頂いてきたお乳を鳥のお出汁と一緒に温めて、お米を入れて炊いたものです。お乳の甘さと柔らかくなったお米が混ざって優しいお味になってます」
アケの説明を聞いてアズキの口から無意識に涎が溢れそうになる。
「そうか……」
八尺の手がアケの頭から離れる。
その表情は、少し寂しそうだった。
アケは、蛇の目を顰めて八尺を見上げる。
「どうされました?」
「いや……あの子達にすまないことをしたと思ってな」
そう言って八尺は、剥き出しの大きな胸に触れる。
「私の乳が出なくなってしまったばかりに」
八尺が子ども達を連れて食堂を訪ねてきたのはちょうど壺いっぱいにもらった牛鬼の乳の使い道を考えてる時だった。
「子ども達に食を恵んでほしい」
八尺は、切実に訴えた。
子ども達を見ると複眼は虚で元気がなく、六本の腕でお腹を摩っていた。
明らかにお腹が空いてる。
八尺の話しでは、三日前から唐突にお乳が出にくくなった。子ども達には木の実や魚の汁を代わりに与えたがまったく受け付けない。それに焦ってしまうと尚更乳が出なくなる。
どうしたら良いか分からなくなった時に同じ森で暮らす小鬼三兄妹に食堂の話しを聞いて藁にも縋る思いで訪ねてきたというのだ。
「君には本当に感謝している。ありがとう」
八尺は、アケに頭を下げる。
「いや、そんな頭を上げてください!」
感謝なれしてないアケはどうしたらよいか分からず慌てる。
「それにお乳が出なくなったのは貴方様のせいではありません。子育ての中でお乳が出なくなることは良くあることと読んだことがあります」
昔読んだ本の中に子育てに関する本があった。そこにはお乳のことも書かれており、母親の疲労や精神的な負担で出にくくなると書いてあった。
自分には生涯関係のないことと斜め読みしていたが、その後、どうしても子育ての知識を得なければいけない事態が起き、熟読したのを思い出す。
(子育て……か)
アケの脳裏に和かに微笑む可愛らしい男の子の顔が過ぎる。
アズキが心配そうにアケの顔を見る。
アケは、我に返り、小さく微笑んでアズキの頭を撫でる。
「八尺様」
今度は間違えずに八尺の名を呼ぶ。
八尺は、怪訝な顔でアケとアズキを見下ろす。
「なんじゃ?」
「八尺様に食べていただきたいものがあります」
アケは、はっきりと、力強い声で言う。
八尺は、首を傾げる。
アケは、アズキに目を向ける。
「アズキ」
「ブギい」
アズキは、小さく鳴く。
刹那。
燃えるアズキの背中を中心に赤く輝く円が現れ、複雑な文様が描かれていく。
火曜霊扉。
聞こえるはずのないアズキの声が脳裏に響く。
解放。
アズキの身体が赤く、熱く燃え上がる。
熱風にアケの黒髪が逆立ち、八尺の複眼が赤く光る。
ウグイスとオモチ、子ども達の目も一斉にアズキに向く。
火柱と化したアズキの背で大きな釜の蓋がガタガタ揺れ、白い泡が吹き上がる。それと同時に甘く濃厚な香りが広がっていく。
オモチの口から、子ども達の口から涎が垂れる。
ウグイスの目と口からあらゆるものが滝のように流れる。
アケは、燃え上がるアズキと、そしてガタガタ震える釜を蛇の目でじっと見る。
そして……。
「アズキ!」
アケは、叫ぶ。
火柱が消える。
黒く焼けた釜と蓋の隙間から湯気と一緒に食欲の唆る香りが漂う。
アケは、釜の蓋を退かそうとする。が、あまりの熱に触れることが出来ない。何か棒の様なものはないか、と探している、と。
「水曜霊扉」
可愛らしい声と共に水色に輝く円がウグイスの前に現れ、文様が描かれる。
「解放」
円の中から巨大な水の手が現れ、釜の前まで飛ぶと熱い蓋を掴んでそのままずれる様に外す。
香りが爆発する。
華やぐような香ばしさにお腹が鳴り響く。
ウグイスは、思わず崩れ落ちそうになる。
「出来ました!」
アケは、口元を綻ばせる。
釜の中で鶏肉ときのこ、トロトロに柔らかくなった乳白色の米が煌めいている。
鶏肉ときのこの乳煮込みご飯。
八尺の複眼が震え、口元から涎が一筋落ちる。
「医食同源」
アケは、背筋を伸ばし、蛇の目を八尺に向ける。
「医食同源?」
スキュラは、複眼を顰める。
「食事も薬もお身体の調子を整える為の源は同じと言う意味です。なのでお乳の調子が悪いならやはりお乳を食べるのが一番かと。それと鶏肉ときのこはお乳の出を良くすると書いてありました」
アケは、ゆっくりと頭を下げる。
「どうぞご賞味ください」
八尺の足元に種が撒かれる。
「木曜霊扉」
種の上に緑色の円が展開し、文様が描かれる。
「解放」
種子が割れ、幹と葉が編み込みあいながら大きな匙になって八尺の手に握られる。
「お箸じゃないの?」
匙を見てウグイスが不満そうに言う。
「素人には使えないでしょ。僕らみたいに」
オモチの鼻がヒクッと鳴る。
八尺は、初めて握った匙に戸惑う。
アケとウグイス、オモチ、子ども達が使い方をジェスチャーする。
八尺は、恐る恐る匙を握り、ジェスチャーの通りに動かして乳煮込みご飯を掬い、口に運ぶ。
八尺の複眼が震える。
白い頬が熱く染まる。
刹那。
八尺の五本の腕が釜を持ち上げ、顎が外れるほどに大きく開いて、匙を動かしかけ込んでいく。
そのあまりの食べっぷりにウグイスとオモチは、唖然とし、子ども達は大喜びで声を上げる。
アズキが嬉しそうに目を細めて鼻先をアケの身体に擦り付ける。
アケは、優しくアズキの鼻頭を撫でる。
「ぷはあっ」
八尺の口から大きな息が漏れる。
身体中から汗が滝のように溢れ、草むらを濡らし、表情が恍惚に蕩ける。
「美味しい……」
八尺の口から声が漏れる。
「これが……美味しい……」
八尺は、匙を握る手をぎゅっと握りしめる。
「力が……溢れてくるようだ」
八尺の複眼が驚きに震える。
「やはりお疲れだったんですね」
アケは、口元を柔らかく綻ばせる。
「育児とは想像以上にお疲れになるものと聞きます。私の料理がお疲れを取る一助になったのなら幸いです」
八尺の複眼がアケを見る。
「また、お子様達と食べにきてください。お乳とお力になるものご用意させていただきます」
「……ありがとう」
八尺は、優しく微笑む。
子供達もぽぽぽっと嬉しそうに笑う。
「是非、来させてくれ」
「またのお越しをお待ちしております」
アケは、ゆっくりと頭を下げた。
食堂は、今日も健やかに営業中。
「これがその料理か」
テーブルに置かれた乳煮込みご飯を見て男は金色の双眸を向ける。
吸い込まれるような長い黒髪に野生味のある整った顔立ち、細い長身の身体に金の刺繍で花の絵が描かれた黒い長衣を纏っている。そしてあまりにも美しい月のような金色の双眸、そして溢れ出る気品と威厳……。
アケは、男のあまりの美しさと所作に見惚れてしまいそうになりながらもダメダメ!と気持ちを奮い立たせて「はい」と柔らかな声で返事する。
「本当はもっと時間を掛けてじっくりと煮込んでいくんですがお子様達の乳粥を作るのに手一杯で……アズキには本当に助けられました」
アズキの火力があったから食材と調味料を仕込んだだけの釜にあれだけの旨味を引き出すことが出来たのだ。
アケは、食堂の外でうたた寝しているアズキに感謝する。
「お口に合いますかどうか。ご賞味下さい」
アケは、小さく頭を下げる。
男は、木の匙を取って乳煮込みご飯を小さく掬う。その仕草の一つ一つが美しい。
男は、毎日やってきては昨日の残り物を食べる。
そして決まってその時間は食堂には誰も来ず、アケと二人っきりとなる。
(座敷童子も何故か出てこないし)
人と接するのが上手な座敷童子は接客係と称して食事出しや客の相手をしてくれる。
しかし、男が食堂を訪ねて来た時だけは何故か出てこず、文字通り奥に引っ込んでいるのだ。
「美味い」
黄金の双眸が柔らかく細まる。
アケは、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じ、嬉しさが込み上げてくる。
男は、一口、また一口と口に運ぶ。
アケは、口元が緩みそうになるのを堪えながら湯呑みを男の前に置く。
「これは?」
男は、黄金の双眸を見開く。
湯呑みの中には澄んだ黒色の液体が入っている。
「黒茶です。甘い香りが特徴で、お身体の疲労を取る効果があります」
アケは、小さく口元を綻ばす。
「いつもクロモジでは変わり映えがないかと思いまして」
「ふむ」
男は、眉根を小さく潜めて黒茶を啜る。
「確かに良い香りだ。料理によく合う」
そう言って男は、湯呑みを置く。
その反応にアケは男があまり黒茶を気に入ってないのでは?と感じた。
ウグイスなんて初めて淹れた時に感動して急須まで飲み込んでしまうのではないか、と言うほどがぶ飲みしたのに。
乳煮込みご飯を食べ終える。
男は、優雅に木の匙をテーブルに置き、両手を合わせる。
「ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」
アケは、ゆっくりと頭を下げる。
そこで男の口の端が白く汚れていることに気付く。
男は、蛇の目が自分の口元に向いてることに気づく。
「どうした?」
「お口元が……」
アケは、着物の袖に手を入れ、白い手拭いを取り出す。
「これでお口元をお拭き下さい」
男は、ハンカチを見る。
何か気に障ったのだろうか?アケは不安になる。しかし、男がじいっと手拭いを睨んでいることを見て、そうではないと気付く。
「使い方が……分かりませんか?」
アケの言葉に男は頷く。
その反応に人のような見た目と慣れからすっかり忘れてしまっていたが彼もまた猫の額の住人であったことを思い出す。
アケは、手拭いと男の口元を見て、何かを決意するように小さく頷く。
「失礼します」
アケは、男に断りを入れてからそっと男の頬に手を当てる。
男は、金色の双眸を大きく見開く。
「動かないでください」
白い手拭いが男の口元に当たる。
アケは、手拭いを動かし男の口元を拭いていく。
男は、言われた通りにじっと動かない。
ただ、黄金の双眸だけがアケを捉え、その瞳に彼女の顔を映す。
アケの心臓激しく高鳴る。
(あれ?私、凄いことしてるんじゃ?)
などと今更になって思う。
口を拭こうとしたことに他意はない。
幼い頃のあの子にやったように、ウグイスがべったりと全身を食べ汚した時のように綺麗に拭いてあげようと思っただけだ。
それだけなのに……それだけなのに……。
(なんで、こんなにドキドキするの?)
指先に男の唇の熱さと柔らかさが伝わってくる。そして口の隙間から漏れる吐息も……。
「どうした?」
「ふえっ?」
アケは、間抜けな声を上げ、蛇の目を大きく見開く。
「手が震えてるぞ?具合が悪いのか?」
男は、金色の双眸でアケの顔を覗き込む。
アケは、茹で上がったように顔を真っ赤にして思わず顔を反らす。
「だ、だだだ、大丈夫です!」
アケは、動揺に声を震わせながらも手を動かす。
男は、怪訝な顔をしつつ視線をアケの腰帯、そこにぶら下がってる二つの小さな巾着袋を見る。
一つはぬりかべの遺した蛍石。
もう一つは……。
「き、ききき綺麗になりました」
アケは、震える声で告げる。
男から一歩離れ、心臓と呼吸を整える。
「ありがとう」
男は、口元に触れる。
「口を拭かれると言うのは初めての体験だった」
男は、そう言って綺麗になった口元を綻ばす。
「中々に気持ちの良いものだな」
「よ、よよよ喜んでもらえて幸いですぅ」
アケの心臓は限界寸前で千切れ落ちそうだった。
落ち着こう……何とか落ち着こう。
アケは、胸中で呻き、はしたないと思いながらも冷めた黒茶を自分の湯呑みに注いで勢いよく飲んだ。
「慣れたか?」
男は、唐突に言う。
アケは、肩をビクッと震わせる。
「ここでの暮らしにはもう慣れたか?」
男は、優しく口元を綻ばせて訊いてくる。
アケの心臓はゆっくりと落ち着いていく。
「はいっ」
アケは、姿勢を正して男に向き合う。
「皆様に大変良くしていただき、感謝しております」
それはアケの心からの言葉だった。
猫の額に来てもうすぐ三ヶ月が経とうとしている。
ここに来たばかりの頃はまだ肌寒い時もあったが、今ではすっかりと初夏の気候。料理をして汗ばむことも増えた。
猫の額での生活は……幸せの一言だ。
みんなが自分に優しくしてくれる。
みんなが自分のご飯を美味しいと言ってくれる。
みんなが……自分を受け入れた仲間として認めてくれている。
こんな幸せなことがあるだろうか?
刹那。
"お前はジャノメだ!"
老人の罵声が頭を掻きむしる。
"この化け物が!"
老人の嫌悪と侮蔑に満ちた目がアケを睨む。
幸せを感じる度に過ぎる痛すぎる記憶。
その度に思ってしまう。
この幸せは泡と同じ。
いつかは弾けて消えてしまうのではないか、と。
"金色の黒狼を殺せ!"
老人の檄が頭の中で弾ける。
"使命を果たせ!"
「私は……私は……」
アケは、消え入りそうな声を溢し、両手をぎゅっと握りしめる。
上に向いていた心が一気に下降し、闇の隙間に落ちて……。
パァンッ!
耳元で弾けた音にアケは蛇の目を大きく見開く。
両手を合わせた男の手が鼻先に見える。
いつの間にか目の前に立っていた男の黄金の双眸で射抜くようにアケを見る。
「堕ちるな」
男は、低く、強い声で言う。
「前を見ろ。我を見よ」
蛇の目が大きく震える。
「ここで其方が得たものなんだ?闇の淵に堕とすような軽いものか?」
男の言葉にアケは、唇がわなわなと震え、闇に押しやられた記憶が溢れてくる。
嬉しそうに収穫したものを見せてくれるふわふわに膨らんだオモチ。
アケの淹れたお茶を美味しそうに飲んで優雅に微笑み感謝する綺麗な家精。
自慢の背中の炎でたくさんアケを助けてくれる可愛らしいアズキ。
"ジャノメと出会って良かった!"そう言ってアケが作ったものを美味しい、美味しい!と言って食べてくれる天真爛漫なウグイス。
そしてアケが闇に堕ちそうになった時、救い上げてくれる気高く、美しく、そして優しい彼……。
そして……。
蛇の目に男の姿が映る。
凛々しい彼の顔が、黄金の双眸が何故か黒狼の姿と重なる。
「戻ってきたようだな」
男の口元を綻ばせる。
重なるように見えた黒狼の姿はいつの間にか消えていた。
「……はいっ」
アケは、溢れるように言葉を吐く。
「ご心配をおかけしました」
アケは、男に小さく頭を下げる。
「謝ることはない」
男は、黄金の双眸をきゅっと細める。
「其方の中にあるのはもう悪しき記憶だけではない。もしまた、堕ちそうになったら思い出すのだ。きっとまた其方を救ってくれる」
「……はいっ」
アケは、きゅっと両手を握りしめる。
「それでもダメな時は……」
クシャッ。
男の手がアケの頬に触れ、口元に寄った髪を除ける。
蛇の目が大きく見開かれる。
「いつでも我を呼ぶといい。堕ちる前に救ってやる」
どきんっ。
アケの心臓が再び高鳴る。
男の手が触れた頬が……身体が熱くなる。
「あ……っ」
震える唇から声が漏れる。
「あの……」
「なんだ?」
男は、首を傾げる。
「お名前を……付けてもよろしいですか?
アケの言葉の意味が分からず眉を顰める。
「貴方様を……お名前で呼びたい……です」
アケは、恥ずかしそうに俯く。
頬がさっき以上に赤い。
「……構わぬ」
男は、小さな声で言う。
アケは、弾かれるように顔わ上げる。
「好きに呼べ。其方だけの我の名を付けろ」
アケは、男を見る。
男の月のような黄金の双眸を見る。
「ツキ……」
アケは、恐る恐る言う。
「ツキは……いかがでしょうか?」
「ツキ……」
男は、小さく言葉を反芻する。
「ツキか……」
男は、もう一度小さく呟く。
「良い名だ」
ツキは、優しく口元を綻ばせる。
蛇の目が嬉しそうに煌めく。
「今日から我はツキだ。よいな?」
「はいっ」
アケは、嬉しそうに口元を緩める。
「して……其方の名は?」
「ジャノメです。ご存知なかったですか?」
言われてみれば名乗ったことがなかったかもしれない。
自分から提案しておいて……アケは反省する。
「そうではない」
ツキは、首を横にする。
「其方の本当の名だ」
アケに心臓が大きく音を上げる。
なんで……?
なんでそれを?
「今は無理に言わなくていい」
ツキは、優しい声で言う。
「お前の中にある痛みが無くなったら……教えてくれ」
「は……いっ」
アケは、弱々しく声を絞り出す。
それしか……出来なかった。
「話しを戻すが……」
ツキは、温くなった黒茶を飲もうとして……止める。
「ここでの生活は慣れたのか?」
アケは、気持ちを切り替えるため、ふうっと小さく息を吐く。
「はいっ」
アケは、口元を綻ばせる。
「先程も申しましたように皆様にとても良くしていただいてます」
「そうか」
ツキは、どこかほっとしたように言う。
「困っていることはないか?」
「いえ、特には。アズキも座敷童子もよく手伝って下さいますし、オモチは食材の調達がとても上手でお野菜も育ててくれてます」
三人がいなかったらツキが言う困ったことが本気で起きていたと思う。
感謝しかない。
「姑獲鳥は?」
「ウグイスは、私が料理してるとお腹をグウグウ鳴らしながら"ま〜だぁ?"と催促してきます」
アケは、当たり前のようにさらっと答える。
「それは邪魔をしてるというのではないか?」
ツキは、珍しく不安げに言う。
「はいっ邪魔で仕方がありません」
横から手を出してつまみ食いしようとしたり、ベタベタ身体を触ってきたり、これがウザいというものなのだと初めて知った。
「でも、それがいいんです」
アケの言葉にツキは、眉を顰める。
「ウグイスがいると……ぱあっと華やいで……楽しい気分になります。だから、これでいいんです」
そう言ったアケの表情はとても嬉しそうだった。
「そうか……」
ツキも安堵したように口元を綻ばせる。
「最近ではお客様もたくさん来てくれるようになりました」
今日、来てくれた八尺のような新規の客もいれば小鬼達のような常連もいる。この三ヶ月でたくさんの猫の額の住人達が顔を出してくれるようになり、美味しい、美味しいと言って食べて、また顔を出してくれる。
それがとても嬉しかった。
「夢は……出来そうか?」
「まだ、分かりませんが……きっと……」
「そうか」
ツキは、黄金の双眸を閉じる。
「それでは本当に困ってることはないんだな?」
「はいっ特には……」
言いかけて、はっと蛇の目を大きく見開く。
ツキは、怪訝な顔をする。
「おツキ様」
「なんだその言い方は?」
ツキは、露骨に顔を顰める。
「そっちの方が呼びやすいので……それより」
アケは、腰帯にかけた巾着の一つを取り、封を開く。
そこから出てきたのは……黒く固い豆だった。
ツキの黄金の双眸が震える。
「これが……なんなのかご存知ありませんか?」
アケは、手のひらに乗せて黒い豆をツキに見せる。
「これは……」
「主人が良くお食べになられている物なんです」
アケは、黒い豆に蛇の目を向ける。
無機質な顔で大量の黒い豆を食う主人を思い出す。
「主人……」
ツキは、消え入りそうな声で呟いた。
アケの耳には届いてない。
「主人はこれをまた飲みたいとおっしゃってました」
ツキの黄金の双眸が震える。
「でも、焼いても、煮込んでも、漬けても飲み物にはならないんです」
噛めもしない、出汁も取れない、粉にしてお湯に混ぜてもジャリジャリするだけ。
とても美味しいとは思えない。
「試したのか?」
ツキは、黄金の双眸を丸くして驚く。
「はいっ」
アケは、頷く。
「せめてこれが何なのか分かれば、調理法も見えてくると思うんです」
ツキは、黒い豆を手に取る。
「何故……そこまでする?」
「主人はおっしゃったなら……これをまた飲むのを夢だって……」
アケの脳裏に"夢は夢だ"と切なそうに呟く黒狼の姿が浮かぶ。
「だから……叶えて差し上げたいんです。主人の夢を……」
アケの言葉に黄金の双眸が大きく震える。
「森……」
「えっ?」
「森を抜けた先にある小高い山の上に赤い実を生やした植物がある。これはその種子と聞いた」
「そこは……近いのですか?」
「其方の足では朝に出て戻れるのは夜になろう。それに危険だ」
「ウグイスかオモチに一緒に来てもらえるか聞いてみます。主人のことなら二人もきっと……」
「我が行こう」
アケは、驚きに口を丸くする。
「赤い実を見たことがあるのは我だけだ。我が共に行こう」
「えっでも……」
よろしいのですか?とアケは口に出来なかった。
何故なら彼が一緒に来てくれると言ってくれた瞬間、飛び上がるほど嬉しかったから。
「だが、行ったからと言って何かが分かる訳でないぞ。それでも良いのか?」
「はいっ」
アケは、力強く返事する。
「調理法は必ず見つけます。それが……私の仕事ですから」
そう言ってアケは、胸をぱあんっと叩く。
初めて見る彼女の力強い決意にツキは驚き、口元を綻ばせる。
「明日の朝、迎えに来る」
ツキは、背中を向ける。
「準備をしておけ」
「はいっ」
アケは、頷く。
「あいつらには内緒にしろ。いろいろうるさいからな」
「……はいっ」
アケは、不思議に思いながらも頷く。
ツキは、音も立てずにそっと食堂を出る、
花のような香りと温かな気持だけがその場に残った。




