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雲を喰む

「雲は、食えねえのかい?」

 彼がそう言ったのはアケが用意した食事を舐めるように食べ終え、食後のクロモジ茶を一口啜った時だった。

「雲……ですか?」

 アケは、食器を片付ける手を止めて彼を凝視する。

 彼の向かい側のテーブルに座っていたウグイスも鹿肉の厚切り燻製(ベーコン)(かぶ)りついたまま視線を動かす。

 アケとウグイスがそれぞれの動きを思わず止めてしまったのは彼が放った言葉が印象的だったのもあるが、それ以上に彼がそんなふわっとしたことを言うように見えなかったからだ。

 彼は、岩だった。

 頭も、胴体も、腕も、足も全てが岩で出来ており、まるで子どもが形の良い石を並べて作った人形のようであった。

 唯一、頭を構成する岩に蛍のように光る二つの目と赤い舌の覗く大きな口が彼が意思のある生物であることを語っていた。

 ぬりかべ(スプリガン)

 それが彼の種としての名だ。

 恐らくウグイス達のように別の呼び名もあるのだろうがアケには発音することも聞き取ることも出来ないのだろう。

 彼が現れたのは三日前、食堂が開店してちょうど一ヶ月が経とうと言う時だった。

「邪魔するよぉ」

 彼は、暖簾を潜るような粋な口調で食堂にやってきた。

「ここは変わったもん食わしてくれるんだろ?」

 ぬりかべ(スプリガン)は、硬い顔からは想像もできないニヒルな笑みを浮かべる。

「とりあえずその変わった料理(もん)ってのを食わしてくれや」

 ぬりかべ(スプリガン)の話しによると彼に食堂のことを教えたのは小鬼(ゴブリン)三兄妹のようだ。

 彼ら的には自分達が感動し、救われた食堂の宣伝を大々的に行ってくれただけなようだが……。

「もう少し具体的に話して欲しかったなぁ」

 そう言ってアケは苦笑する。

 まあ、子どもに言っても仕方ない。

 アケは、諦めて料理をすることにした。

 アケは、オモチが調達してくれた食材の中から彼を見て最も好みそうなメニューを考え、手際よく作っていく。

 そして提供したのは……。

「……これは芋か?」

 ぬりかべは、蛍色の目で目の前に置かれた料理を見る。

 それは甘辛い匂いを漂わせる綺麗に皿に盛られた飴色の芋だった。

「里芋の煮転がしです」

 猫の額で芋は標準的(ポピュラー)な食材のようでオモチとアズキが毎日のように様々な芋を採取してきてくれる。

 じゃがいも、さつまいも、菊芋、コンニャク芋等々。

 里芋もその中の一つでアケは調理したことなかったがじゃがいもの要領で作ってみたら思いの外好評で特にオモチやアズキ、小鬼(ゴブリン)兄に好評だった。

(男の人って濃いめが好きなのよね?)

 そう思って提供したのだが……。

「ふうむ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、小さく唸って里芋の煮転がしを見詰める。

 そこから感じられたのは……軽い失望だった。

「芋はお嫌いですか?」

「いや、よく食べるぜ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、アケの提案を断ると里芋の煮転がしを指で摘んで口の中に放り投げる。

「……美味い」

 ぬりかべ(スプリガン)は、そう言って里芋をパクパク口に運び、全て平らげるとガタンっと音を立てて立ち上がる。

「また来るぜ」

 そう言って彼は去って行った。

 その後ろ姿を見てアケはもう来ないだろうと思い、小さく胸を痛めた。

 しかし、彼は翌日もやってきた。

「変わったものを食わせてくれい」と同じことを言って。

 その日はオモチが採ってきた青菜と小魚を炒めてご飯と混ぜたおにぎりだった。

 大きなおにぎりを三つ並べて彼に出すと蛍色の目で食い入るように見る。

 ああっこう言うのが食べたかったのか、とアケは思い、昨日はすいませんでしたと心の中で謝る。

 しかし……。

「……美味い」

 その声には明らかな失望が漏れ出ていた。

 彼は、おにぎりを三つ食べ終えると「また来る」と言って去っていった。

 アケは、また小さく胸を痛めた。

 そして今日……。

 岩魚の塩焼き(ロースト)を主菜とした御膳を全て食べ終えた時、彼はそう言ったのだ。


 雲は、食えねえのかい?、と。

 

 アケは、窓の外を見る。

 白蛇の国よりも間近にある猫の額の空はどこまでも澄み渡り、雲はとても大きく、手を伸ばせば届きそうだ。

 あの雲を食べたい……。

 彼は、そう言っているのか?

「おっちゃん、そりゃ無理だよ」

 大きな歯形のついた鹿肉の燻製(ベーコン)から口を離してウグイスは言う。その顔は姑獲鳥(ハーピー )と言うより猫のようだ。

「雲なんて食べれやしないよ。あれは単なる水の塊」

 ウグイスの言葉にアケは蛇の目を大きく見開く。

「そうなのですか?」

 食べれないのはなんとかく分かっていたが水の塊と言う事実は初めて知った。

 雨が雲から降るのもそういう理由からだったのか。

「そう、間違えて突っ込むと水浸しになるよ。それに味なんて全然しないし、煙みたいでつまんないよ」

 あっ食べたんだ、とアケは胸中で呟いたが敢えて口には出さなかった。

「そんなのよりジャノメのご飯の方が数倍美味しいって」

 しかし、ウグイスの言葉にぬりかべ(スプリガン)はまったく納得してなかった。むしろ硬い肩を竦め、呆れたように蛍の目でウグイスを見る。

「ロマンがねえなあ。羽っこ娘」

 ぬりかべ(スプリガン)の呆れ、馬鹿にするような口調にウグイスのむっと柳眉を逆立てる。

「ロマン?」

 アケは、言葉の意味が分からず首を傾げる。

「夢ってことだよ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、アケに分かりやすいよう言い換える。

「夢……ですか?」

 蛇の目が小さく震える。

「雲を食べるのはな。おいらの夢なんだよ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、窓の外に浮かぶ雲を見る。

「身体が重過ぎて飛び跳ねることも出来ないおいらにとっちゃ空は憧れなのさ。そして空に浮かぶ雲を見ていつか食いたい、ガキの頃からの夢さ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、冷めたクロモジ茶を飲み干す。アケが新しいのを淹れようとするが丁重に断る。

「変わった物を食べさせてくれるって言うから期待してたんだけどな」

 ぬりかべ(スプリガン)は、ゆっくり椅子から立ち上がる。

 その声には分かりやすいくらいの失望が乗っていた。

 アケの胸が大きく痛んだ。

「おいらの最後の願いは叶わずじまいだ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、ゆっくり歩いて扉を潜る。

「あばよ」

 そう言って粋に手を挙げると重い足を地面に沈ませながら去っていった。

「また来る」とは言わなかった。

 

「雲を()むか……」

 黒狼は、威厳のある重い言葉で呟き、月のような黄金の双眸で空を見上げる。

 三日月に欠けた月と散らばるような星々の浮かぶ黒い空に灰色に揺らめく雲が浮かんでいる。

「また、随分と高尚な夢だな」

 黒狼の顎が笑うように開く。

「ロマンだってさ」

 草原に胡座をかいたウグイスがむすっとした顔をして焼きおにぎりを齧る。

 月の浮かぶ草原で今宵も黒狼、ウグイス、オモチ、アズキ、そしてアケは円を囲むように団欒し、料理に舌鼓を打った。食堂の中から座敷童子(シルキー)も顔を覗かせて焼きおにぎりを品よく齧っている。

 今宵のメニューは岩魚の身を解して醤油で味付けした混ぜご飯を握った焼いたおにぎり、山菜の吸い物、そしてオモチが昼に獲ってきた鳩を醤油と酒で味付けした甘辛焼きだ。

 オモチは、見かけによらず狩りの(スキル)が高く、獣だろうが魚だろうが、山菜、根菜問わず食材として最適な物を獲ってきてくれる。

 それでも鳩を捕まえてきた時は思わずウグイスを意識したが本人はまるで気にした様子はなく、何が出来るのかと楽しみにしていた。

「でも、気持ちは分かるなあ僕も」

 吸い物を啜りながらオモチは言う。

「雲って美味しそうだもん」

「だからただの水!」

 ウグイスは、ほっぺたを可愛らしく膨らます。

「そりゃ君は飛べるから分かるだろうけど、僕らのように大地に縛られた者からしたら永遠の憧れだよ」

 憧れ……。

 アケは、そう呟くオモチをじっと見る。

 憧れ……ロマン……夢……。

「皆さんも……」

 アケは、躊躇いがちに口を開く。

「皆さんも……夢をお持ちなんですか?」

 アケの質問にウグイスはきょとんっとした顔をし、オモチは、ヒクヒクッと鼻を動かす。

「そりゃまあ……生きてれば……」

「夢の一つや二つは抱くものだと思うけど……」

 二人は、恥ずかしそうに口をもご付かせる。

「ほう」

 黒狼が興味深そうに唸る。

「どんな夢だ?」

 予想もしなかった王の問いかけにウグイスとオモチは動揺してお互いの顔を見やる。

 ウグイスは、困ったように顔を引き攣らせて頬を掻く。

「私は……大した夢じゃないんだけど……」

 ウグイスにしては珍しくいい澱み、両手の指を交差させる。

「素敵な殿方と添い遂げたい」

 殿方……そういえば初めて会った時もそんなことを言ってたような……。

「意外と乙女チックですものね、貴方」

 座敷童子(シルキー)が面白い読み物でも読んだように喉を鳴らして笑う。

「うるさいなあ!女の子なら誰でも夢見るでしょ!」

 ウグイスは、頬を真っ赤にして羞恥を誤魔化すように叫ぶ。

(そうなんだ……)

 アケは、ショックを受ける。

「僕は、もう一度海を見たいです」

 オモチは、鼻をヒクッと鳴らして言う。

 海?

 アケは、首を傾げる。

「幼い頃に王と一緒に見た海をまた見たいです」

 表情こそ変わらない、しかし、切実で重かった。

「そうか……」

 黒狼は、黄金の双眸をきつく細める。

「いつか……また行こう」

 黒狼が言うとオモチの赤い目小さく輝く。

「みな……良い夢を持っている」

 黒狼の言葉にウグイスもオモチも照れたように笑う。

 しかし……。

「ならばぬりかべ(スプリガン)の夢を馬鹿にしてはならぬ。分かるな?」

 黒狼は、黄金の双眸をきつく細めてウグイスとオモチを射抜く。

 ウグイスは、ともかくオモチは彼を馬鹿にするような事は言ってないが忠義心から右手を左肩に当てて「はっ」と首を垂れ、ウグイスは「はーいっ」と叱られた子どものように返事して視線を反らす。

 アズキは、素知らぬ顔で岩魚の焼きおにぎりをお代わりし、座敷童子(シルキー)は、口に手を当ててクスクス笑う。

 アケは、そんなやり取りを胸に小さな痛みを覚えながら見ている……。

「ジャノメの夢は?」

 唐突なウグイスの言葉にアケはビクッと肩を震わす。

「私……ですか?」

「そう。ジャノメにもあるでしょ……夢」

「わ……私は……」

 アケは、動揺して蛇の目をキョロキョロ動かす。

「私は……作った料理を美味しく食べていただくこと……ですかね?」

 そう言って取り繕うように笑う。

 ウグイスの緑色の目が大きく輝く。 

「すごーい!ジャノメの夢叶ってるじゃん!」

 ウグイスは、満面の笑みを浮かべてアケに抱きつく。

 羽毛と肌の柔らかさにアケは目を回しそうになる。

「ジャノメのご飯美味しいよ。ありがとね」

 ウグイスは、自分の頬でアケの頬をスリスリする。

 アケは、顔を真っ赤にして何とか引き剥がそうとするも細身からは考えられない力に抗うことが出来ない。

 オモチと座敷童子(シルキー)は二人のじゃれ合いに呆れて肩を竦める、

 アズキは、ウトウトしながらもおにぎりを齧る。

 黒狼は、黄金の双眸を閉じてゆっくりと立ち上がる。

「下がる。ゆるりと寛げ」

 黒狼が言うとウグイスは「はいはーい」と右翼腕を振り、オモチと座敷童子(シルキー)は右手を左肩に当てて一礼する。アズキは眠そうに目を上げながらも小さく頭を下げる。

「あの……」

 アケは、ウグイスに抱きつかれたまま声を上げる。

 唐突に声を上げたアケにウグイスだけでなく他のみんなの視線も集まる。

 黒狼は、歩みを止め、身体をアケに向ける。

「何用か?」

 黒狼は、黄金の双眸をアケに向ける。

 その威厳と気品ある声色にアケは身を萎縮する。

「えっと……その……」

 アケは、緊張に声を上擦らせる。

「主人にも……夢はありますか?」

 アケの質問に黒狼は黄金の双眸を固まらせる。

 初めて見る黒狼の反応。

 これは……。

(きょとんっしてる?)

 アケは、黒狼の反応を人間に置き換える。

「我の夢……か?」

 黒狼は、我に返ったように呟く。

 やはりきょとんっとしていたらしい。

「はいっ……主人のような偉大な方でも夢を抱かれるのでしょうか?」

「主人……」

 黒狼は、聞き取れないくらい小さな声で嫌そうに呟く。

「そうだな……我の夢は……」

 黄金の双眸が大量に詰まれた黒い豆を見る。

「アレを昔のように飲みたい……だな」

 飲む?

 アケは、困惑する。

 豆を……飲む?

 それが……夢……?

「ふうんっ変な夢」

 ウグイスは、唇を尖らせて言う。

「否定はせん」

 黒狼は、ふんっと鼻息を吐く。

「夢は夢だ」

 そう言って踵を返すと今度こそ森へと去っていった。

 アケは、去り行く黒狼の背中を見つめながら小さく呟く。

「夢……」

(私の本当の夢は……)

 アケは、顔を覆う白い布に触れる。

(主人を殺して幸せになること)

 アケの薄い爪が白い布を引っ掻いた。


 翌日。

 アケは、すっきりしない気持ちのまま食堂の準備を始める。

 準備といっても特に大仰なことはしない。

 食堂の中は常に座敷童子(シルキー)が綺麗にしてくれているので床にはチリひとつなく、テーブルは水で濡らしたように輝いている。透明に磨かれた窓ガラスからは柔らかな陽光が差し込み、空気の入れ替えにと開かれた扉からは心地よい風が吹いてくる。

 気持ちの良い空間だ。

 アケの手だけではとてもここまで綺麗に出来ない。

 だから、この空間に自分だけが出来る付加(オプション)を付けることにしている。

 アケは、草原に生えている色鮮やかな花々を摘んでくると水を入れた小さなガラス瓶に挿してテーブルの中央に置いた。

 これだけで世界の見方が変わる。

 落ち着いた気持ちの良い空間が華やかに変化し、心をときめかせる。

 しかし、そんな彩りのある空間を見てもアケの気持ち晴れなかった。

 頭の中を常にあの言葉が過ぎって離れない。


 夢……。


 私の夢……。


「貴方の夢はなあに?」

 アケは、自分の生けた白い花に語りかける。

「私の夢はね……」

 花は、風に揺られるだけで何も答えない。

 アケは、小さく肩を落とし、仕込みをするためにアズキの元に行こうと扉に向く、と。

「邪魔をする」

 気品のある声と共に男が入ってくる。

 広沢ある長い黒髪に痩身に花の刺繍の描かれた黒い長衣を纏った野生味のある顔立ちの男。

 男の黄金の双眸がアケを映す。

「早かったか?」

「いえ、そんなことは」

 アケは、居住まいを正し、小さく頭を下げる。

「いらっしゃいませ」

 男は、自分が迎えられたのを確認し、窓側のテーブルに座る。

「いつものでよろしいですか?」

「ああっ」

 アケは、注文を伺うと小さく頭を下げ、扉を出てアズキの所に向かう。

 数分後。

 アケは、御膳を持って戻ってくると男のテーブルに置く。

 御膳に乗ってるのは岩魚の焼きおにぎり、山菜の吸い物、鳩の甘辛焼き、クロモジ茶……昨夜の夕食の残りだ。

 男は、初めて来た日から毎日やってきてはアケがウグイス達に振る舞った夕食の残りを注文する。

 食堂を始めて一ヶ月経ち、食材も揃い、自家製だが調味料や香辛料も作れたので充実とは言えないまでもある程度の料理は出来るようになったと伝えるが男は一貫して残り物を注文してくる。

 その為、最近では夕食を作る時は男の分も多めに作るようにしている。

 男は、両手を合わせて頭を下げる。

「いただきます」

 箸を器用に使って鳥の甘辛焼きを口に運ぶ。

 その所作は、ため息が出るほどに美しく、毎日見てるはずなのに目を捉えて離さない。

「美味い」

 男の口元が綻ぶ。

 アケの胸が温かくなる。

「これはどう食べればいい?」

 男は、焼きおにぎりを見て言う。

「遠慮なく手で持ってお食べください」

「ふむ」

 男は、焼きおにぎりを手で掴むと大きく口を開けて齧り付く。

「……美味い」

 そう言って一口、また一口と美味しそうに焼きおにぎりを食べる男の顔を見てほっこりとしている自分にアケは気付いかぬまま一歩引いたところで見守っていた。


「ご馳走様でした」

 男は、手を合わせて頭を下げる。

 御膳は、欠片も残すことなく綺麗に平らげられていた。

「お茶は?」

「いただこう」

 アケは、予めアズキのお尻の炎で温めていたヤカンのお湯を急須に注ぎ、少し蒸らしてから新しい湯呑みに注ぐ。

「湯呑みならあるぞ?」

 男は、形の良い眉を顰めて自分が飲んだ湯呑みを掲げる。

「先程とは違うものなので……」

 そう言って湯呑みを男の前に出す。

 ウグイスの瞳に似た鮮やかな新緑のお茶。

「緑茶です」

 アケは、柔らかな口調で言う。

「オモチが採取してきてくれたお茶の葉を煎じてみました」

「ふむっ」

 男は、緑茶の入った湯呑みを持ち上げ、口を寄せる。

「……クロモジより甘みがあるな」

 男の黄金の双眸が揺れる。

「それとこのスウっとするような後味は?」

「清涼感と、白蛇の国では言います」

「清涼……」

 男は、もう一度緑茶に口を付ける。

 どうやら気に入ってくれたようだ。

 アケは、口を綻ばせてお茶を楽しむ男を見る。

 男は、お茶を飲み干し、テーブルの上に置くと黄金の双眸をアケに向ける。

「で……何があった?」

「えっ?」

 男が何を言ってるか分からずアケは戸惑う。

「我が入る前、何やから思い詰めて花に話しかけていたろう?」

 見られてたのか……とアケは恥ずかしくなる。

「花は答えぬが我は答えられる。無理にとは言わぬが話せるなら話してみよ」

 黄金の双眸がアケを映す。

 男に話す必要なんて何ひとつない。

 話したからと言って何かが変わる訳でもない。

 しかし、男の黄金の双眸が、柔らかくも威厳ある言葉が、そして気品の中に隠れた熱がアケの心を揺さぶり、いつの間にか口を開いていた。

「夢が……怖いです」

 アケの言葉に黄金の双眸を小さく震える。

「どういう意味だ」

 アケは、昨夜のことを男に話す。

 男は、黙ってアケの話しを聞く。

「ウグイスの夢……素敵だな、と思いました。女の子の夢って……こう言うものなんだと初めて知りました」

 恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに語るウグイスの顔。

 天真爛漫ないつものウグイスの姿にアケは羨ましいと感じた。

「それに比べて私の夢は……」

 私は、下唇を噛み締める。

(主人を殺して幸せになること……)

 そんなの……。

「あまりに……酷いです」

 アケは、泣きそうに蛇の目を歪める。

 男は、黄金の双眸をきつく細める。

「其方の夢とは……?」

「ごめんなさい。言いたくないです」

 自分から話しを振ったのにひどいな、と思う。でも、これ以上心を暴きたくない、醜く、汚い自分をこの人に晒したくない。

 アケは、固く口を閉じて蛇の目を反らす。

 男は、空になった湯呑みを覗く。

「茶をもらうぞ」

「私が……」

 アケは、慌てて反応するもいつの間にか男はアケの側に立って急須からお茶を注いでいた。

「申し訳ありません。お客様に」

 アケは、恐縮して頭を下げる。

「構わぬ」

 男は、立ったまま温くなったお茶を啜る。

「夢が辛いか?」

「……はいっ」

「胸が痛むか?」

「……はいっ」

 男は、湯呑みを置く。

「その夢の先に幸せな其方がいるか?」

 蛇の目が震える。

 唇が戦慄き、右手をきゅっと握りしめる、

「……いいえ」

 アケは、小さく首を横に振る。

「ちょっと前までは……この夢の先に幸せがあるって信じてました。でも……今は……」

 何も感じない。

 ただただ闇よりも深い闇が広がってるだけ。

 何も……何もない。

「私は……幸せな私を想像できません」

「そうか……」

 男は、黄金の双眸を閉じる。

「なら、それは夢ではない。悪夢だ」

 アケは、男が何を言ったか分からなかった。

「悪夢……ですか?」

「夢とは希望。幸福への架け橋。それに対し悪夢は絶望。不幸への断崖だ。其方は、悪夢を夢だと信じ込もうとしていただけだ」

 黄金の双眸がゆっくりと開く。

「辛かったのだな」

 男の言葉にアケの胸が締め付けられる。

「悪夢を夢と信じなければならぬ程……其方の歩んできた道は険しいものだったのだな」

 男の右手がアケに伸びる。

 背中に周り、引き寄せ、そっと抱きしめられる。

「え……あ……そ……」

 突然のことに何が起きたか分からず狼狽する。

「泣け」

「え……」

「泣きたい顔をしている。泣け。泣いて全て洗い流せ。我が受け止めよう。だから……泣け」

 身体が震える。

 息が上手く出来ない。

 感情がごちゃ混ぜになってもう何がなんだか分からない。

 気がついたらアケは泣いていた。

 大声を上げて泣いていた。

 男は、そっとアケを抱きしめた。

 アケは、泣いて泣いて泣き続けた。


「お召し物を汚してしまい、申し訳ありません」

 自分の涙や何やらでベトベトに汚れてしまった男の長衣を見て、アケは、頬を赤く染めて恐縮する。

「気に病むな」

 男は、さして気にした様子もなく言い、温くなったお茶を飲む。

 自分がどれだけ泣いたか覚えていない。少なくても熱かったお茶が冷め、長衣をずぶ濡れにするくらいの時は泣いていたのだろう。

 我ながら恥ずかしい。

 アケは、小さく身を縮こませる。

(ここ(猫の額)に来てから……泣いてばかりだな)

 でも……。

「すっきりしたか?」

 男の問いにアケは小さく頷く。

「……はいっ」

 悩みと痛みが無くなった訳ではない。

 それでも気持ちが幾分も楽になった。

「胸を貸してくださりありがとうございます」

 アケは、深々と頭を下げる。

「夢はどうする?」

「……分かりません」

 自分の夢が夢でなく悪夢だと分かってもアケはそれを捨てようと思えなかった。

 それを叶えた後の自分が想像できないように、それを捨て去った後の自分も想像できないから……。

「せっかく聞いてくださったのに……申し訳ありません」

 アケは、申し訳なくなり、頭を下げるしか出来なかった。せめて熱いお茶を淹れ直そうとヤカンに手を伸ばそうとした時だ。

「なら……作れ」

「えっ?」

 アケは、弾かれるように顔を上げる。

「悪夢を捨てられぬならもう一つ夢を作れ。其方の夢を」

 黄金の双眸がアケを見据える。

 アケは、男の言ってる意味が分からなかった。

 夢を……作る?

「そんなの……どうすれば?」

「足掻けばいい」

 男は、言う。

「自分の人生を、命をかけて足掻いてみよ。さすれば……きっと見えてくる。其方の本当の夢が」

 本当の……夢……。

 アケは、胸中で呟く。

(私の本当の……夢)

「其方なら出来る」

 男の顔がアケに近寄る。

 蛇の目に彼の美しい唇が迫る。

 刹那。

 男の唇が蛇の目の横に触れる。

 アケの思考が止まる。

 そして理解した瞬間、頭が茹だり、全身が沸騰する。

(まじな)いだ」

 男は、ゆっくりと離れ、口元を綻ばせる。

 アケの額に触れた唇を。

「また来る」

 そう言って男は、食堂を出て行った。

 アケは、ペタンっとその場に座り込んだ。


 ポオォォォ。

 ポオォォォ。

 アケは、頬を赤らめ、白い天井を見上げたまま調理場でお米を研いでいた。

 時折、蛇の目の横を触り、何かを思い出してはビクンッと身体を震わせて顔中を真っ赤に燃やして首をブンブン横に振って米を研ぎ、再び無意識に蛇の目の横を触っては顔を真っ赤にしてブンブン首を横に振る。

 それをずっと繰り返し座敷童子(シルキー)は、面白そうに、オモチは不思議そうに見ていた。

「どうしたの?アレ?」

 オモチは、鼻をヒクッと鳴らして座敷童子(シルキー)を見る。

「ただの思春期とアオハルにございます」

 座敷童子(シルキー)は、喉で笑いを押し殺して言う。

姑獲鳥(ハーピー )から一歩リードしたと言ったところでしょうか?まあ、あちらは出会いすらありませんが」

 オモチは、意味が分からず盛大に首を傾げる。

「声かけてもいい?僕のこと見えてるかな?」

「もう少し夢見心地にして差し上げても良いかと思いますが……よろしいかと」

 オモチは、鼻をヒクッと鳴らしてアケに近寄る。

 アケは、大きなオモチが近寄ってまったく気づかず上の空で米を研いでいた。米からはもう糠は出ておらず、透明な水の中を泳いでいるだけだ。

 オモチは、困ったように頬を掻き、息を大きく吸い込んでお腹を膨らませる。

「ジャノメー!」

 甲高い声が食堂の中を響き渡る。

 あまりの声に座敷童子(シルキー)の身体が蝋燭の火のように消え去る。

 アケは、米を研ぐ手を止め、蛇の目を広げ、顔を引き攣らせてオモチを見る。

 現実に戻ってきたアケを見てオモチは、ほっと胸を撫で下ろす。

「おはようジャノメ」

「お……おはようございます……オモチ」

 まるで寝起きドッキリを喰らったような顔でアケは反射的に言葉を返す。

「い……いつからここに?」

「ちょっと前」

 オモチは、鼻をヒクヒク鳴らして言う。

「なんか楽しそう七面相してたね?」

「そ……それはあの……その……」

 アケは、慌てて水に濡れた両手をパタパタ動かす。

「ちょっと様々な諸事情がございまして……理解が及ばないというか……心臓がうるさいと言うか……なんと言うか……」

 あまりにも珍しすぎるアケの支離死滅な行動にオモチは更に首を深く傾げる。

「お……お食事ですか?」

 アケは、話題を変えようと話しを振る。

「それはもちろん食べるけど……これ」

 オモチは、お腹の毛に指を突っ込んで茶色く長細い物を取り出す。

 治り草の種の時も思ったが一体どこにしまってるんだろう?と疑問を抱きながらアケはオモチが取り出した物を見る。

 それは一見すると草原のどこにでも生えている猫じゃらしのようだった。しかし、穂乃部分の粒は大きく、ヒゲが痛々しく生えている。葉も大きく、広く、茎も立派だ。

 アケは、頭の中にある本から植物を引っ張り頁を捲り……驚く。

「これは……!

 アケは、驚いてオモチを見る。

「やっぱりジャノメが前言ってたやつかな?見つけたら採取して欲しいって」

「覚えててくれたんですか?」

「そりゃジャノメの頼み事だもん。当然だよ」

 オモチは、鼻をヒクッと鳴らす。

 アケは、キュッと胸を締め付けられる。

「ありがとう。オモチ」

 アケが感謝を述べるとオモチは、照れるように鼻をヒクヒク鳴らした。

(よし、今日はオモチの好きな物をいっぱい作ろう)

 アケは、オモチに食べたい物を聞こうとして……天啓が降りる。

 頭の中、いっぱいに雲が浮かび上がる。

「ジャノメ?」

 オモチは赤い目でじっとアケを見る。

「オモチ……」

 アケは、オモチのモフモフの身体を掴む。

「私を今からそこなら連れていってください!」

 アケの蛇の目が力強く光った。


(綿毛に乗るってこう言う気持ちなのかな?)

 オモチの大きな背に乗りながらアケはそんなことを考えていた。

 一蹴で小さな家なら三件は軽く飛び越える跳躍をしてるのに衝撃がまるでない。

 むしろお湯の中に身体を沈めているかのように気持ちよく、力が抜けそうにかる。黒狼のような花の匂いはしないが独特の獣臭が逆に心を和ませる。

(猫の肉球って……こんな感じかな?)

 アケは、そんな感想を抱きながら心地よい温もりを堪能した。

「もうすぐ着くよ」

 頭の上から甲高い声が聞こえる。

 オモチが見つけたくれた植物は食堂から三里ほど離れた岩山を超えた先にあると言う。

 そんな遠くまで探しにいってくれたなんてとアケは恐縮するが「ジャノメが来る前は昼も寝てるだけだったから楽しいよ」とヒクッと鼻を鳴らした行った。

 岩山までは難所悪所の連続だった。

 平な場所のない岩場。

 切り立った崖。

 垂直にしか見えない坂道。

 空の近い猫の額で更に空に近づく為、日が強く、肌を痛めつける。オモチの毛に包まれてなかったら日焼けで火傷していたことだろう。

 オモチは、アケに衝撃と負担を与えないように持てる身体能力を駆使して岩山へと跳んでいく。

 そして……。

「着いたよー!」

 頭の上から声が聞こえ、アケは毛の中から顔を出す。

 光の絨毯が蛇の目に飛び込む。

 太陽の光をいっぱい食べて膨らんだ種子。

 山間から吹き荒れる風に揺れる太く、黄金色に輝く茎。

 隣と表面を擦り合わせながら音を立てる大きく、広い葉。

 それは本の挿絵で見た小麦畑そのものだった。

 アケは、目の前の美しい光景に心奪われ、声を発するのを忘れてしまう。

「ここでいいんだよね?」

 アケが何も言わないので少し不安そうにオモチは聞く。

「は……はいっ間違いないです」

 我に返ったアケは声を絞り出すとオモチの背中から滑るように降りる。

 心地よい背中に乗っていた為、地面に降り立った瞬間、重力が圧しかかるように重くなる。アケは、ぐっと身体を伸ばして全身に血を巡らせる。

 いい匂い。

 太陽を光をいっぱい食べた元気な植物の匂いだ。 

 アケは、小麦に近寄ると子どもの頭を撫でるようにパンパンに膨らんだ種子をそっと撫でる。

 大きい。

 太い。

 力強い。

 これなら……。

(彼の夢を叶えられる)

 アケは、大きく頷く。

(でも、どうやって持ち帰ろう?)

 今更に回収法を考えてなかったことに気づき、アケはオモチを見る。

 収穫の天才のオモチなら良い方法を……。

「オモチ?」

 アケは、首を傾げる。

 オモチは、赤目でずっと遠くを見ている。

 表情こそ変わらないが何かを警戒しているのが目の輝きで分かる。

「どおりで虫や鳥がいない訳だ」

 オモチは、ぼそっと独り言を言う。がっかりとしながらも何か納得したように見える。

「ジャノメごめん」

 オモチは、申し訳なさそうに謝る。

 しかし、アケは何を謝られているのか分からない。

「運が良ければ残ると思うから」

 刹那。

 オモチの大きな身体が背後からアケに覆い被さる。

「オモチ!?」

 アケは、オモチの行動の意味が分からず戸惑う。

 オモチは、アケを抱きしめたまま何かを地面に投げる。

 それはどんぐりのような大きな種子。

木曜霊扉(フィフス・ゲート)

 緑の円がどんぐりの上に現れ、複雑な紋様を描く。

開放(オープン)

 刹那。

 種子が音を上げて弾け、巨大な木の根が蔓のように伸び、アケとオモチの身体を球状に覆う。

 アケは、呆然と自分とオモチを囲んでいく木の根を見る。

 けたたましい声が聞こえる。

 あまりに不気味で不快な鳴き声にアケは思わず耳を塞ぎぎら、オモチも尖った耳を折りたたむ。

 空が暗くなる。

 巨大な銀色の生物達が翅を震わせて太陽の周りを旋回しながら音と声を張り上げる。

 その姿はまるで……。

(いなご)?」

 アケは、苦痛に歪んだ顔で木の根の隙間からそれを見る。

 それは本で見た蝗の姿に似ていたがその大きさなオモチと変わらずない。仮面のような貌は無機質でおどろしく、銀色に波打つ身体と折れ曲がった六本の足は見ているだけで吐き気がするほど気持ち悪く、恐ろしい。

ヒダル神(フェルトン・ガイスト)だ」

「フェルト……?」

 アケは、聞いた事のない言葉に蛇の目を顰める。

「今はあいつらの産卵期だった。すっかり忘れてた」

 オモチは、鼻をヒクヒク慣らしてヒダル神(フェルトン・ガイスト)を睨む、

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)の仮面のような貌が縦半分に割れ、凶悪な歯が出現する。彼らはガチガチと牙を擦り合わせながら、一斉に小麦を食い漁り始める。

 アケは、あまりの悍ましさと小麦を食われたことに絶句する。

「運が悪い……」

 オモチは、ヒクッと鼻を鳴らす。

「あいつら……あんな姿(なり)してるけど普段は温厚で大して食べないんだ。でも、産卵期は別」

 オモチは、ヒダル神(フェルトン・ガイスト)の腹部を見る。

 赤い筋が血管のように走り、大きく膨らんでいる。

「奴らは卵を育てる為に一心不乱に食物を食い漁る」

「食い漁るって……」

 アケの顔が青ざめる。

「どのくらい?」

「根こそぎ」

 硬い種子を砕き、喰む音が無造作に響き、翅を震わせる。

「産卵期のあいつらは気が立っている。食欲も無尽蔵。いつだったか森を一つ食い尽くしたこともある」

 アケは、青ざめた表情で小麦を見る。

 種子は食いちぎられ、茎は踏み潰され、葉が擦りちぎられる。

「なんとか……」

 アケは、声を震わせる。

「何とかならないのですか?」

 アケは、必死にオモチに訴える。

 オモチは、赤目でじっと見て首を振る。

「これは災害でなく摂理。命を育む為の行為だ。僕らは手を出すことは出来ない」

 オモチの言葉にアケの心臓は外れそうになる。

「でも……」

「それに傍若無人のようだけど種を滅したりはしない。こぼれた種が地面に落ち、また芽吹く」

 オモチは、鼻をヒクッと鳴らしてアケを見る。

「一つ年を重ねればまた小麦は成る。必要なら他所をまた探す。今回は諦めよう」

 オモチは、アケを慰めるように優しく言う。

 そしてなんとかヒダル神(フェルトン・ガイスト)に気づかれぬよう逃げる三段を考えてると……。

「ダメ!」

 アケが大きな声で叫ぶ。

 その声にヒダル神(フェルトン・ガイスト)達の動きが止まる。

 彼らの複眼が二人の隠れる木の根の囲いに向けられる。

「ジャ・・ジャノメ!?」

 オモチは、慌ててアケを黙らせようとする。

 しかし……。

「来年までなんて待てない!」

 アケは、オモチの身体から抜け出る。

「夢を……あの人に夢を無くしちゃいけない!」

 

 足掻け。

 

 男の声が心に響く。

 木の根に衝撃が走る。

 アケとオモチの存在に気づいたヒダル神(フェルトン・ガイスト)達が外敵を駆除しようと身体をぶつけ、根を齧り、一部が破壊される。

「まずい」

 オモチの右手に緑色の円を展開し、左手でアケを捕まえようとする……が。

 アケは、オモチの手を避けてヒダル神(フェルトン・ガイスト)の破壊した隙間から飛び出していった。

 

「ジャノメ!」

 オモチの叫び声がアケの背中を打つ。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)達が複眼を激らせ、食事の邪魔をしたオモチに一斉に襲いかかる。

「こいつら……!」

 オモチは、種子をばら撒き、緑色の円を展開する。

木曜霊扉(フィフス・ゲート)

 緑の円に複雑な紋様が描かれ、種子が破裂する。

解放(オープン)

 植物が爆発するように成長し、オモチとヒダル神(フェルトン・ガイスト)を壁のように覆い隠す。

「ごめんなさいオモチ」

 アケは、見えなくなったオモチに背を向け走る。

 小麦は、ほんの数分の間に殆どが食い荒らされていた。

 種子は散らばり、葉は千切れ、茎は踏み潰されている。

 アケは、蛇の目を凝らし、どこかに無事な小麦がないかを探す。

(無事にあって!)

 アケは、必死に願い小麦を探す。

 ここにもない……あそこにもない……どこにもない。

 アケの心を絶望が触れる。

 その時だ。

 視界の端が輝く。

 盛り上がった岩の頭から微かに稲穂の先が見える。

 アケは、岩に飛びつき、よじ登る。

 岩の出っ張りを掴む白い手はいとも簡単に皮膚が裂け、岩の表面を赤く染める。剥き出しの足の指も裂ける。

 それでもアケは懸命に岩を登り切ると……。

 岩の壁に囲まれた小さな空間、そこにたわわに実った小麦の群生が生えていた。

 アケは、蛇の目を輝かせ歓喜する。

 刹那。

 黒い影が空を覆い、アケの身体を黒く染める。

 背中に衝撃が走る。

 アケは、痛みと衝撃に岩から転げ落ち、小麦の群生に沈む。

「う……ぐ……」

 アケは、苦鳴を漏らす。

 小麦がクッションになって受け止めてくれたものの背中にとんでもない熱い痛みが走る。

(何が起きたの?)

 アケは、痛みを堪えながら身体を起こす。

「ギュアアアアッ!」

 複眼を赤黒く染めたヒダル神(フェルトン・ガイスト)が岩の上からアケを睨みつける。

 大切な食事を邪魔されたヒダル神(フェルトン・ガイスト)は怒り狂っていた。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)は、岩の上から跳躍し、アケの前に降り立つ。

 仮面のような貌が割れて醜い牙が露出する。

(殺される……!)

 身が竦み、歯がガチガチと音を立てる。

 本能がアケに逃げろと必死に訴える。

 逃げなきゃ……。

 アケは、踵を押して後退ろうとする、と。

 手が小麦の根に触れる。

 小麦の穂がゆっくりと揺れる。


 雲は食えねえのかい?


 寂しそうな声がアケの頭を過ぎる。


 足掻け。


 夢を作れ。


 月のような黄金の双眸がアケを見る。

「お……」

 アケは、震える声を絞り出す。

「お願い……」

 アケは、痛みの走る身体を起こし、ヒダル神(フェルトン・ガイスト)に向かって土下座する。

「……小麦を譲ってください」

 震えが止まらない。

 今すぐにも逃げ出したい。

「ちょっとでいいんです。この小麦があれば彼の夢を叶えてあげられるかもしれないんです。だから……」

 傷つけられたっていい。

 手足を奪われたっていい。

 それでも……。

「お願いします。どうか……どうか……」

  アケは、蛇の目を地面に擦り付けて土下座する。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)は、怒る複眼でアケを睨む。

 牙が不気味に動き、音を立てる。

 翅が蠢き、擦り合わさる。

「フシュウウウ」

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)の顎から息が漏れる。それは今までのような怒れるような不気味な音ではなく、冷えるような静かなものだった。

 複眼の色が消える。

 翅が大きく開き、音を立てると巨体が浮かび上がり、岩の上へと上がっていく。

 アケは、泥のついた顔を上げる。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)は、振り返ることもなく岩の向こうに去っていく。

「許して……くれたの?」

 アケは、全身から力が抜けていくのを感じる。恐怖が抜け、歓喜が湧き上がる。

 アケは、安堵の気持ちで小麦を見上げる。

 グシャッ。

 背後に何かが落ちる。

 振り返ると……腹の潰れたヒダル神(フェルトン・ガイスト)が倒れていた。

 銀色の腹が潰れ、茶色い汁が流れ、卵が流れ落ちる。

 アケの思考が停止する。

 腹の潰れたヒダル神(フェルトン・ガイスト)の上にヒダル神(フェルトン・ガイスト)が落ちてくる。

 仮面のような貌から牙を滾らせ、赤黒く沸る複眼でアケに殺意を剥き出す。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)は、アケを許したヒダル神(フェルトン・ガイスト)を許さなかった。

 そして仲間を誑かしたアケを許さなかった。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)は、牙を慣らし、地面を蹴り上げ、アケに襲いかかる。

 もうダメだ。

 一度抜けてしまった力はもう入らず、足どころか指一つ動かない。

(ごめんなさい……)

 アケは、黄金の双眸の男に謝る。

(やっぱり私……ダメなままでした)

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)の牙がアケを襲う。

 アケは、死を覚悟した。

 刹那。


 月曜霊扉(セカンド・ゲート)


 どこからか声が聞こえ、蛇の目の端に眩い黄金の光が輝く。


 開放(オープン)


 黄金の円に複雑な紋様が描かれ、無数の黒い鎖が飛び出す。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)の複眼に恐怖が走る。

 黒い鎖は荒れ狂って宙を走り、空気を叩き、渦を巻く。

(なに……?なんなの?)

 アケは、何が起きたか分からず混乱する。

 蛇の目の視界を黄金の光と黒い鎖が占領する。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)は、鎖から逃げよう翅を広げる。

 無駄だった。

 黒い鎖は、ヒダル神(フェルトン・ガイスト)が飛ぶことを許さず、四方から攻め、銀色な巨体を縛り上げる、

 仮面のような貌から気持ち悪い苦鳴か迸り。茶色い体液が吐き出させる。

 硬い殻がひび割れる。

 足が千切れる。

 腹が潰され、卵が見え……。

「やめて!」

 アケは、喉が裂けんばかりに叫ぶ。

「この人たちの守りたいのものを……奪わないで」

 黒い鎖の動きが止まる。

 緩んだ鎖からヒダル神(フェルトン・ガイスト)の身体が土くれのように落ちる。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)は、体液に汚れたひび割れた身体を起こスト、身体を大きく震わせ逃げていく。

 黒い鎖は、溶けるように消える。

 黄金の円も消える。

 音が食われたように静まる。

 アケは、呆然と蛇の目を回す。

 小麦は……無事だ。

 自分も……凄い痛いけど無事だ。

 でも……。

 蛇の目が倒れたヒダル神(フェルトン・ガイスト)に向く。

 アケは、痛みの走る身体を引きずりながらヒダル神(フェルトン・ガイスト)に近寄る。

 死んでる。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)も、おなか飛び出した卵も。

「ごめんなさい……」

 アケは、声を震わせ、ヒダル神(フェルトン・ガイスト)に謝る。

 自分がここに来なかったら。

 あんなお願いしなければ。

 彼女は、小麦を食べて元気な子どもを産んでいたのだ。

 でも、それはもう出来ない。

 自分のせいで。

「ごめんなさい……」

 アケは、小さく、力なく呟いた。

「彼女達は死んでないよ」

 甲高い子どものような声が落ちてくる。

 オモチがアケの横に降り立つ。

 オモチの白い毛が茶色の体液で汚れている。

 その姿だけであの後何が起きたか分かり、胸が痛くなる。

「オモチ……私……」

「彼女達は死んでない」

 オモチは、赤目でじっとアケを見る。

「死んで……ない?」

 アケは、オモチの言ってることが分からなかった。

 しかし、オモチは、小さく頷くとアケの横を通り過ぎ、ヒダル神(フェルトン・ガイスト)の死骸の上に何かを撒いた。

 それは小麦の頭から零れ落ちた種子だった。

「彼女達は死んでない」

 オモチは、もう一度呟く。

「命は……巡るから」

 オモチは、手のひらを下に向けてヒダル神(フェルトン・ガイスト)に翳す。

木曜霊扉(フィフス・ゲート)

 緑の円が展開し、複雑な紋様を描く。

開放(オープン)

 緑の円が大きく広がり、ゆっくりと下りてヒダル神(フェルトン・ガイスト)の死骸を包み込む。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)の死骸が淡く光り、腹の上に乗った種子が動く。

 種子の表面が割れ、白い根が伸び、潰れた腹に潜り込み、剣のような若葉が力強く伸びる。

 緑の円が消える。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)の身体が小麦の若芽に覆われ、小さな山となる。

「命は死して終わりじゃない」

 オモチは、ふうっと息を吐く。

「死してもその魂は自然の中に還り、残された身体は次の命を育てていく。命は新たな命に継がれていく。それが摂理」

 オモチは、ずんぐりとした人差し指でヒダル神(フェルトン・ガイスト)だったモノの腹を指差す。

 アケの蛇の目が大きく開く。

 腹からこぼれ落ちた卵が音もなく割れ、小指の先くらい小さな白いヒダル神(フェルトン・ガイスト)が現れる。

 小さなヒダル神(フェルトン・ガイスト)は、母だったものを一瞥するとそれぞれ別の方向に飛び跳ね、消えていく。

「命は……巡る」

 アケは、小さく呟く。

 蛇の目から一筋の涙が落ち、気がついたら両手を合わせて祈っていた。

 彼女の命が子ども達に、この大地に巡ることを心から祈った。

 オモチは、赤目でじっとアケを見る。

「さぁ、ジャノメ」

 オモチは、ずんぐりとした手を優しくアケの肩に置く。

「僕たちは僕たちのすべき事をしよう」

 その表情は変わっていないのに笑っているようだった。

 アケは、蛇の目を擦って涙を拭く。

「はいっ」

 アケは、力強く頷いた。


 アケとオモチが戻るとウグイスが大絶叫で大説教した。

 ヒダル神(フェルトン・ガイスト)に受けた背中の傷はアケが思っていた以上に酷いもので、着物はズタズタで茜色が濃赤に染まっていた。皮膚は痛々しく裂て肉が見え、一寸深ければ骨まで達していたかもしれない。

 アケ自身、痛いなとは思っていたが小麦を採ること、持ち帰ることに夢中だったので痛みなんて置き去りにしていた。

 オモチもまさかそこまでのひどいとは思ってなかったらしく、いたつも以上に鼻をヒクヒクさせ、ウグイスに罵倒され、アズキに頭突きされ、座敷童子(シルキー)に大量の埃を被せられた。

 すぐに傷に効く治り薬を育て、口で噛んで煎じるとアケの背中に塗りつけた。あまりの激痛にアケは泣き叫びそうになったが、ウグイスの水の膜を優しく貼り付け、座敷童子(シルキー)の作った包帯を巻き付けると不思議と痛みが和らいだ。

 アズキは、血が減って身体が冷たくなっているアケを温めようと炎を弱めて抱きついた。

 治療を受けている間もウグイスの大説教は続いて辟易としたがアケを心から心配してくれるのが分かるので少し擽ったく感じた。


 それから二週間後。

 アケは、日干しして黄金色に変わった小麦を脱穀しようと気合を入れていた時だ。

「良いものがありますよ。お嬢様」

 座敷童子(シルキー)が和かに微笑んで言う。

「ここから少し離れた小川に私の友人が建っております。話しは通しておりますので是非、足をお運びください」

 小川?

 アケとウグイスは顔を見合わせて首を傾げるもアズキとオモチに小麦を運んでもらい小川へと向かった。

 座敷童子(シルキー)の言ったものは直ぐに見つかった。

「水車小屋だ」

 アケは、思わず口を丸くする。

 それは大きな水車を小川に沿わせた水車小屋だった。

 水車小屋は色褪せ、屋根や壁が所々腐って朽ちているものの大きな水車だけは力強く回転している。

 水車小屋の建て付けの悪そうな扉が音もなく開く。

「来おったか」

 現れたのは麻色の職人着を来た恰幅の良い、無精髭を生やした男だった。その輪郭は座敷童子(シルキー)と一緒で蝋燭の火のようにボヤけている。

「とんがり屋根の小娘から話しは聞いてる」

 水車小屋の男は無精髭を摩りながら言う。

「粉を挽くんだろ?」

「はいっ」

 アケは、頷く。

「朽ちなくて良かったぜ」

 水車小屋の男はむすっとしながらも嬉しそうに言う。

「準備しな。やり方は教えてやる」

「はいっ」

 アケは、大きく頷く。

 ウグイス達は、意味が分からず首を傾げる。

 そこからは早かった。

 健全な小麦と不健全な小麦を選別する。

 水で小麦の外皮を柔らかくする。時間のかかる作業だが

ウグイスに協力してもらい短時間で柔らかくなった。

 水車小屋の臼で小麦の殻を砕く。

 あらく砕かれた外皮の破片と胚乳を分ける。

 別の臼で胚乳を細かく砕く。

 (ふるい)にかけて粉を分ける。

 その作業を何回も何回も繰り返す。

 そして……。

「出来たあ」

 目の前に積まれたたくさんの麻袋にアケは、蛇の目を輝かす。

「出来たなあ」

 水車小屋の男も満足そうに頷く。

 しかし、ウグイスは露骨に顔を顰め、オモチは鼻をピクピクさせ、アズキは不機嫌そうに鳴いた。

「ジャノメ……これって?」

 ウグイスが訝しげに訊く。

「小麦粉です」

 アケは、満足そうに小麦粉の入った麻袋を見て言う。

「小麦粉?」

「はいっ」

「美味しい……の?」

 ウグイスは、恐る恐る訊く。

 アケは、首を横に振る。

「とても食べれたもんじゃありません」

 しかし、アケの顔はとても輝いてる。

 ウグイスは、尚更分からなくなり、顔を歪める。

 しかし、次に放たれたアケの言葉にウグイスは度肝を抜かれる。

「これで雲を作ります!」


 小高い丘の上でぬりかべ(スプリガン)は、胡座をかいていた。

 微動だにしないその姿は本当に岩のよう。

 ただ、蛍の光のような二つの目が彼が生きていることを示していた。

 彼は、三日月の浮かぶ夜空に漂う雲を見た。

 月明かりに映され、朧のように現実味なく心をざわつかせる雲。その美しさで言ったら夜の雲の方が上かもしれない。

 しかし、ぬりかべ(スプリガン)は朝の雲の方が好きだった。

 朝の光に照らされ、力強く、溌剌とし、何よりと美味そうな白い雲が。

 しかし、もう見ることはない。

 ぬりかべ(スプリガン)は、自分の手を見る。

 ひび割れ、亀裂の走った自分の手を。

 恐らく今日だ。

 今日……自分は。

 ぬりかべ(スプリガン)は、身体よりも重いため息を吐いた。

「結局……夢は叶わずか」

 その時だ。

「いたあー!」

 空の向こうからけたたましい叫び声が聞こえた。

 三日月に重なるように緑色の影がこちらに向かって飛んでくる。

 目を凝らす必要もなく緑色の正体に気づいたぬりかべ(スプリガン)は、硬い顔を歪めて頬を掻く。

「探したよ!おっちゃん!」

 ウグイスは、綺麗な柳眉を釣り上げて叫ぶ。

 静かな夜に何とも騒がしい。

 他の夜ならいいが今は静かにして欲しい。

「なんでえ、羽っこ娘」

 ぬりかべ(スプリガン)は、ふんっと鼻息を漏らして言う。

「何、その迷惑そうな感じ」

 ウグイスは、形の良い唇を尖らす。

 この娘に近しい造形の種ならこの仕草を可愛いと感じてホドさせるのかもしれないがあいにくとぬりかべ(スプリガン)は何も感じない。

「迷惑そうじゃなくて迷惑なんだよ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、吐き捨てるように言う。

「今は一人でじっと空を見てたいんだ。邪魔すんねい」

「あーっはいはいっそーですか」

 ウグイスは、地面に降り立ち、興味なさそうに頭を掻く。

「おっちゃんがおセンチになってるのは分かったけどさ。ジャノメが呼んでるから来てよ」

「はあっ?」

「雲を食べさせてくれるって」

 ウグイスの言葉にぬりかべ(スプリガン)は、蛍色の目を瞬かせる。

 この娘は今なんと言った?

 雲を……食べさせてくれる?

 ぬりかべ(スプリガン)は、逡巡し、鼻で笑う。

「何を馬鹿なことを」

 ぬりかべ(スプリガン)の馬鹿にした態度にウグイスの柳眉が立つ。

「ジャノメは馬鹿じゃなければ嘘も付かないよ」

「雲が食えんと言ったのはお前だろう?」

 ぬりかべ(スプリガン)は、蛍のような目をきつく細める。

「とにかくおいらの邪魔するってなら……」

 ぬりかべ(スプリガン)の身体の周りに黄色の円が浮かぶ。

「二度と空を飛べなくなるぜ」

 ぬりかべ(スプリガン)から放たれる怒りと気迫がウグイスの身体を打つ。

 しかし、ウグイスはそれに怯えることなく、逆に緑色の髪を逆立て、目を滾らす。

「上等じゃない」

 ウグイスは、両手を翳す。

 水色の円が展開する。

「絶対にあんたをジャノメのとこに連れてくわ」

 緑色の双眸と蛍のような双眸がぶつかり合う。

 二つの円の中に複雑な紋様が描かれる。

 刹那、

 巨大な影が二人を覆う。

 二つの月が浮かび、二人を見下ろす。

 ぬりかべ(スプリガン)が顔を上げ、驚愕に歪む。

 次の瞬間、ぬりかべ(スプリガン)の大きな身体がばくんっと飲まれた。


 濃厚な香りが草原を駆け巡り、オモチの鼻と胃袋を刺激する。

 お湯の煮込む音が虫の囀りのように心地良く、香りと共に漂う熱が肌を優しく温める。

 アケは、アズキの背中に置いた大鍋をゆっくりゆっくりかき混ぜる。中のものが崩れないように火加減をお願いし、味をじっくりと染み込ませる。

 アズキは、自分の背中から降りてくる香りに酔いしれ、蕩ける。

 座敷童子(シルキー)扉の向こうで調理するアケを見て喉を大きく鳴らす。

「ジャノメ〜」

 涎が溢れるのも気にせずにオモチが口を開く。

「まだ、出来ないの〜?」

「もう少しお出汁が出ると思うので……」

 アケは、目を離さずじっくり鍋を掻き回す。

 目を逸らして煮崩れしたら意味がない。

「それにまだ彼が来ない」

 アケの脳裏に寂しそうな表情を浮かべて去っていくぬりかべ(スプリガン)の姿が浮かぶ。

 彼に一番最初に食べさせないと意味がない。

 これは彼の夢なのだから。

「ジャノメー!」

 空から元気な声が降ってくる。

 ウグイスが緑の翼腕を大きく羽ばたかせてやってくる。

「お待たせってうわぁ!」

 ウグイスは、空の上でひっくり返りそうになる。

「なに……この香り……」

 とんでもなく濃厚な香りに胃袋が刺激され、口の中が涎て一杯になる。

「ウグイス……彼は(スプリガン)は?」

「もう来るよ、ほら」

 ウグイスは、視線を動かす。

 草原の奥に二つの月が現れる。

 月明かりに映されたその大きな輪郭から醸し出される威厳と気品、洗練された所作のような無駄のない動き。

「主人……」

 アケは、呆然と呟く。

 黄金の黒狼は、双眸をきつく細め、べっと何か吐き出す。

 グジャンッととんでもなく重いものが草原に落ちる。

「なにしゃがんでえ!このスットコドッコイ!トウヘンボク!」

 品とは縁遠い怒り狂ったベラんめい口調が飛ぶ。

 ぬりかべ(スプリガン)だ。

 ぬりかべ(スプリガン)は人間なら顔を真っ赤な怒り、蛍のような目で黒狼を睨む。

「いくらあんた()でもこんな傍若無人許されると思うんじゃねえぞ!」

 ぬりかべ(スプリガン)は、重い身体を起こすと今にも殴りかかろうとするように両腕を上げる。

「そうなのよね」

 ウグイスがそっとアケまで降りてきて涎の溢れた口で耳打ちする。

「私も王が急に現れておっちゃん連れて行った時はびっくりしちゃった。いつもならこんな横暴、絶対しないもん」

 黒狼は、怒り宣うぬりかべ(スプリガン)を無視して黄金の双眸をアケに向ける。

 月のような黄金の双眸。

 しかし、その目に見られても恐怖は感じない。むしろそこから滲み出てくるような優しさが月光のようにアケの心に染み込んでくる。

「作れそうか?」

 黒狼の言葉にアケは鍋を見る。

「はいっもう出来上がります」

 アケは、居住まいを正して頭を下げる。

 しかし、黒狼は不機嫌そうに黄金の双眸を細めた。

 アケの背筋に冷たいものが走る。

 何か間違えてしまったのだろうか?

「お前の夢は作れそうか?と聞いている」

 ……えっ?

 アケは、蛇の目を震わせる。

「どうして……」

 どうしてそれを知ってるの?

 しかし、黒狼はアケの疑問には答えず踵を返す。

「足掻いてみよ」

 そう言い残し、森へと去って行った。

 アケは、呆然と黒狼の後ろ姿を見る。

「王……どうしちゃったんだろ?」

 ウグイスは、訳が分からないといった様子で首を傾げた。

「おいっふざけんな!」

 ぬりかべ(スプリガン)が怒鳴る。

 顔面が割れんばかりに歪む。

 いや、実際に顔の至る所に小さな亀裂が走っていた。

 落ちた衝撃だけで出来たとは思えない沢山の亀裂が。

 ぬりかべ(スプリガン)は、蛍のような目を滾らせ、アケ達を睨む。

「テメェらこんな真似してただてすむと……」

 ぬりかべ(スプリガン)ば、最後まで悪態を吐くことが出来なかった。

 草原を走る濃厚な香りがぬりかべ(スプリガン)の硬い鼻腔を抜け、怒りを超える欲を引き起こす。

 食欲を。

「おい、これ……」

 アケは、両手をお腹に当てて背筋を伸ばす。

「雲を用意しました」

ぬりかべ(スプリガン)の蛍のような目が激しく揺れる。

「どうぞご賞味ください」

 

 そう言ってアケが差し出したもの。

 それは澄んだ黄金色の出汁(スープ)に浮かんだ白い雲だった。

 ぬりかべ(スプリガン)の蛍のような目が、口が、顔が、全身が震える。

雲呑(ワンタン)です」

 アケは、柔らかく口元を綻ばせる。

「冷めないうちにどうぞ」

 アケは、雲呑(ワンタン)の入った椀を差し出す。

 ぬりかべ(スプリガン)は、震える手で椀を受け取る。

 雲だ。

 雲がここにある。

 目の前で美味そうに出汁(スープ)に浮かんでる。

 ぬりかべ(スプリガン)の蛍のような目から涙が流れ、清水のように岩の肌を伝わる。

 ぬりかべ(スプリガン)の両手がそっと椀を包むように持ち上げる。

 大きな赤い口が開き、椀をゆっくりと迎え入れる。

 ニュルンッ。

 クニュンッ。

 ムニュンッ。

 感じたことのない食感が口の中に広がる。

 濃厚で芳醇な味が舌を包み、身体中に染み込んでいく。

「雲・・」

 ぬりかべ(スプリガン)の口から熱い息と共に歓喜の声が溢れる。

「これが……雲……」

 ぬりかべ(スプリガン)の涙が椀の中に落ちる。

 これ以上ない至福が心を満たしていく。

「いかがですか?」

 蛇の目がじっとぬりかべ(スプリガン)を見る。

「これは小麦粉を水で捏ねて伸ばした物に鳩の肉で作った餡を包んで出汁で煮込んだ物です。だからこれは……雲ではありません」

 ぬりかべ(スプリガン)の蛍のような目が細まる。

「恐らくこれを作った人も貴方と同じように雲を食べたいと願って考えたんだと思います。雲呑(雲を飲む)と願いを込めて」

 アケは、きゅっと両手を握る。

「これが私に出来る精一杯の雲作りです」

 アケは、すっと頭を下げる。

「騙してしまい申し訳ありません。もし気に入らなかったら……」

「最高だよ!」

 ひび割れたぬりかべ(スプリガン)の顔に笑みが浮かぶ。

 穏やかで、安らいだ、至福の笑みが。

「こいつが何で出来てるか、どんな思いで作られたかなんて関係ない」

 ぬりかべ(スプリガン)は、愛しい人を想いを馳せるように雲呑(ワンタン)を見る。

「こいつは雲だ!誰がなんと言おうと雲だ。おいらは……雲を喰ったんだ!」

 口の中に雲呑(ワンタン)を流し込む。

 ニュルンッ。

 クニュンッ。

 ムニュンッ。

 大きな赤い口から至福の息が漏れる。

「美味え……」

 ピシッ

 ぬりかべ(スプリガン)の身体から小さな音が響く。

 顔に、肩に、胸に、全身に大きな亀裂が走る。

 アケの蛇の目が震える。

「寿命だよ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、亀裂の走った顔に笑みを浮かべる。

 岩が割れ、砂利となって崩れていく。

「最後の日が近づいてるのは何となく分かってたんだ」

 肩が落ちる。

 地面に落ちて音なく崩れ落ちる。

 ウグイスは、口に手を当てる。

「だから最後に雲を食べたい……そう思ってあんたの食堂に行った。一縷の望みをかけて」

 胡座を組んだ足が音を立てて弾け、砂利と化していく。

 ウグイスが震えるアケに寄り添い、肩を抱きしめる。

「ありがとうよ」

 ぬりかべ(スプリガン)の言葉にアケの蛇の目が大きく開き、涙が一筋流れる。

「お陰でおいらの命は悔いなく巡ることが出来る」

 ぬりかべ(スプリガン)の全身が崩れていく。

「礼は置いていく。好きに使ってくれ」

 そう言って崩れかけた指で自分の目を差す。

 アケは、涙が止まらない。

 何かを言いたいが言葉が出ない。

「いやあ」

 ぬりかべ(スプリガン)は、大きく至福の息を吐く。

「最高の飯だったぜ」

 ぬりかべ(スプリガン)の身体は完全に崩れ去る。

 大きな砂利山と化した彼の身体は月に照らされ、星屑のように煌めく。

 そのてっぺんには彼の目であった蛍のように輝く二つの石が祀られるように鎮座していた。

「……お粗末様でした」

 アケは、声を震わせ、両手を合わせる。

「またのお越しを……お待ちしております」

 アケは、蛇の目を閉じ。

 彼の鎮魂と命が猫の額を巡ってまた戻ってくることをの心から願った。


「邪魔をする」

 扉の開く音と共に男が入ってくる。

「いらっしゃいませ」

 アケは、居住まいを正して頭を下げる。

「いつもので下ろしいですか?」

「ああっ」

 二人は、短くやりとりをすると男は窓側のテーブルに、アケは調理場に入る。

「お待たせしました」

 アケは、湯気上がる雲呑(ワンタン)を注いだ椀を男の前に置く。

 男は、黄金の双眸を大きく見開いてアケを見る。

「もう出来たのか?」

「いらっしゃる頃だと思っていたので」

 アケは、口元を綻ばせて言う。

 男は、じっとアケを見て、腕に視線を落とす。

「これが……(くだん)の雲か?」

「はいっ」

 アケは、男の前に木の匙を置く。

「どうぞ召し上がってください」

 男は、匙を器用に使って雲呑(ワンタン)を一つ掬う。その一つ一つの動作に気品があり、アケは見惚れてしまう。

 男は、雲呑(ワンタン)を吸うように口に運ぶ。

 表情は、変わらない。

 ただ、黄金の双眸だけが微かに揺れ動く。

「美味い」

 男は、雲呑(ワンタン)をもう一つ口に運んだ。

 アケは、ほっと胸を撫で下ろすと、クロモジ茶を淹れて椀の横に置く。

「あの……ありがとうございました」

 アケは、頭を下げる。

「何のことだ?」

 男は、食べる手を止め、訝しげにアケを見る。

「貴方様の言葉がなかったら私は動くことが出来ませんでした。それに……」

 アケは、恥ずかしそうに蛇の目の左側に触れる。

「命を救われました」

 アケは、頭を下げる。

「お礼言うのが遅くなり、大変失礼致しました」

 男は、黄金の双眸を細めてアケの蛇の目を、その横を見る。

「食事の対価だ。気に病むな」

 男は、雲呑(ワンタン)を口に含む。

「それで……」

 男は、匙を出汁に沈める。

「夢は……作れそうか?」

 その言葉に心臓がドキンっと跳ねる。


『夢は作れそうか?』


 男と黒狼の黄金の双眸が重なる。

(まさか……ただ偶然よね)

 アケは、心臓の鼓動を落ち着かせようと息を吐く。

「まだ、分かりません。でも……」

 アケは、腰帯にぶら下げた小さな巾着袋に触れる。

 そこにはぬりかべ(スプリガン)がお礼にと残していった蛍石となった彼の二つの目が収められている。彼の気持ちだからとウグイスが持たせたのだ。


 最高の飯だったぜ。

 

 ぬりかべ(スプリガン)の最後の言葉がアケの耳に木霊する。

「私の作る粗末な料理が誰かを救えるなら……夢に近づくきっかけになるなら……それが私の夢になるかもしれません」

 アケは、柔らかく口元に綻ばせる。

「そうか」

 男は、短く呟くとそれ以上何も言わず、雲呑(ワンタン)を食し、クロモジ茶を飲んだ。

 アケは、一歩下がって男が食べ終わるのを待った。

「ご馳走様でした」

 男は、両手を合わせる。

「お粗末様でした」

 アケは、綺麗に頭を下げる。

 男は、ゆっくりと立ち上がり、扉へと向かう。

「また来る」

 そう言って男は出て行こうとする、と。

「あの……」

 アケの声が男を引き止める。

「なんだ?」

 男は、黄金の双眸をアケに向ける。

 アケは、頬を赤く染め、お腹の前に組んだ両手をモジモジさせる。

「今度は……貴方様の好きな物を教えてください」

 アケは、声を震わせて言う。

「貴方の好きな物……作りたいです」

 恥ずかしそうに、しかし真っ直ぐと蛇の目を向けてアケは言う。

 男は、黄金の双眸を大きく見開き……小さく笑う。

「考えておく」

 そう言って男は扉を潜る。

 アケの心臓がドキンっと跳ねる。

「また来る」

 そう言って男は森へと歩いていく。

「またのお越しをお待ちしております」

 アケは、去り行く男に頭を下げる。

 その顔には、猫の額に来て初めての満面の笑みが浮かんでいた。


 食堂は今日も健やかに営業中。


 

 

 


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