日曜霊扉
「ここは……」
ツキに連れてこられた場所にアケは蛇の目を震わせる。
ここはアケが初めて猫の額を訪れた……捧げ物として捨てられた崖の広場だった。
「奴を消すのに最も適した場所だ」
ツキは、その場にしゃがみ込み、アケに降りるよう促す。
「ここなら……失敗してもそこから落ちれば良いだけ。最悪猫の額は救われる」
アケは、草むらに足を付き、暗闇に消えた崖の向こうを見る。
凍えるような風が足元から吹き荒れる。
「まあ、そんなことは億にも起きんがな」
ツキの黄金の双眸が広がる森へと向けられる。
巨大な牛……牛頭が氷山のような巨体を揺らしながら森を踏み潰し、凍てつかせ、怒りと憎しみに見える白い目を崖に、そこにいるアケに向ける。
「霊扉を開く」
ツキは、威厳ある声で言う。
「我の前に出よ」
「はいっ」
アケは、言われるがままにツキの前に足を踏み出し立つ。
「恐るるな」
ツキは、アケの耳元に大きな顎を寄せる。
「我に身を委ねよ」
ツキの左前足……唯一残った五指の回り黄金に円が展開する。
「月曜霊扉」
黄金の円の中に紋様が浮かび、ツキの五指とアケの左手の小指に黒い輝きが浮かび上がる。
「解放」
五指と小指に漆黒の鎖が繋がられる。
「このように使うつもりはなかったのだがな」
ツキの顎が歪む。苦笑するように。
アケの身体の中に熱い液体のようなものが流れ出す。
熱く、強く、そして優しい。
これがツキの力であるとアケは直ぐに気がつく。
「封印を解くぞ」
空の目を縛る鎖が動くのを感じる。
アケは、ぎゅっと巾着袋を握りしめる。
「あの……主人……」
「主人と呼ぶな」
ツキは、冷徹に返す。
「我の名を……其方はもう定めたであろう」
「おツキ……様……」
「なんだ?」
「私は……何かすることは?」
「……楽しいことを考えよ」
「えっ?」
「霊扉は、使い手の力と精神に左右される。お気楽なくらいが安定する。奴らを見てれば分かるであろう?」
アケの脳裏にあっけらかんと笑う仲間達の姿が浮かぶ。
アケは、思わず口元を綻ばせる。
「それでいい」
ツキの口元が歪む。
嬉しそうに。
「一つ……聞いてよろしいですか?」
「なんだ?」
「何故……私を妻と?」
アケの言葉にツキは黄金の双眸を顰める。
「自分で言ったのではないか?我に嫁ぎにきた……と」
「そうですけど……」
アケは、頬を真っ赤に染める。
まさか、おツキ様の正体が金色の黒狼だったなんて誰が思うのか?いや、きっとみんな知ってたんだろうけど。知ってたから誰も顔を出さなかったんだろうけど……。
「ずるい……」
アケは、思わずぼそっと呟く。
ツキは、怪訝そうにアケを横目で見る。
「……初めは警戒していた」
ツキの言葉にアケは火を押し付けられたように振り返る。
「前を見よ」
ツキの言葉に慌てて前を向く。
「白蛇の国の捧げ物。人間でありながら白蛇の一部を持ち、しかも日曜霊扉が封じられている。奴の企みと警戒するのは当然だ」
しかし、オモチも、アズキも、座敷童子も、警戒心なく探らせることが出来ると送り込んだウグイスまでもアケを気に入り、受け入れた。しかも役割まで持たせた。
「だからと言って警戒を解く理由にはならぬ。しかし、奴らを使うことも出来ん。だから我が動いた」
「大当たりですね」
アケは、皮肉っぽく笑う。
「私は……貴方様を殺しにきました。これを使って」
アケは、空の目に触れようとして……やめた。
「何故……殺さなかったんですか?」
「酷かったからだ」
ツキは、あっさりと答える。
アケは、蛇の目を大きく見開く。
「お前があまりにも酷く、哀れだった。だから……殺すことが出来なかった」
「同情ですか?」
アケは、小さく唇を噛む。
「同情で……殺さなかった、と?」
「違う」
ツキは、否定し、アケを横目で見る。
「可愛いかったからだ」
「ふえ?」
アケは、自分でも信じられらないくらい間抜けた声を上げる。見えないが顔が真っ赤どころではない。
「どんなに辛くとも、悲しくとも、それでも前を向こうと足掻く其方の姿が可愛く……愛おしく見えたのだ」
「エスなんですか?」
アケは、頬を引き攣りながら言う。
「何故、その言葉を?」
「ウグイスに教わりました……」
「彼奴は碌なことを……」
ツキは、大きく咳払いする。
「つまりそう言うことだ」
「どういうことですか?」
アケは、益々訳が分からなくなった。
「つまり……」
ツキは、言いづらそうに唸る。
「其方に惚れたと言うことだ」
アケの蛇の目が大きく見開く。
心臓が高鳴りすぎて止まらない。
蛇の目が……うっすらと涙が落ちる。
「私も……」
アケは、ぎゅっと巾着袋を握る。
「貴方様をお慕い申しておりました」
ツキが初めて食堂を訪れた時、その凛々しい顔に、逞しい身体に、そして威厳に包まれながらもその奥に隠れた優しい雰囲気にアケは惹かれた。
しかし、それは叶わぬ思いだと直ぐに胸に奥に押し込めた。
私は……金色の黒狼に嫁いだのだから……と。
「其方が惚れたのはあっちの我か?」
「はいっ」
アケは、否定せずに言う。
「でも、仕方なくありませんか?名乗らなかったのは貴方様です」
「まあ、そうだな」
ツキは、少し拗ねたように言う。
「あれは我の昼の姿。これは夜の姿。警戒されぬにはあちらの姿が丁度良かったのだ。それに……」
「それに?」
アケは、蛇の目を顰める。
「この姿には味蕾が無くてな」
そう言って赤い舌を出す。
味蕾……味を感知する舌の機能。
「其方の食事を食うにはあの姿で行くしかなかったのだ」
蛇の目が大きく見開く。
だから、残り物しか食べなかったのかと全てに合点が行く。
「それじゃあ……みんなが食べてるのを見て……」
「ああっ……羨ましかった」
そう言ってツキは、恥ずかしそうに顔を背ける。
その姿があまりにも可愛らしすぎてアケは蛇の目を細め、唇を緩める。
「今……その姿の貴方様のことも大好きになりました」
「そうか……」
「貴方様の……全てが好きです」
「……そうか」
ツキは、黄金の双眸を閉じ、顔を背ける。
まるで照れるように。
アケは、くすりっと笑う。
「これが終わったら……教えてくれないか?」
「何をでしょう?」
「其方の……本当の名だ」
その言葉にアケは蛇の目を大きく見開く。
ツキは、じっとアケを見る。
「……はいっ」
アケは、恥ずかしそうにはにかんで頷いた。
アケは、向かってくる牛頭に目を向ける。
もう恐怖はなかった。
不安もなかった。
絶望も……どこかに行ってしまった。
あるのは……先のことのみ。
「行くぞ」
「はいっ」
空の目の鎖が全て解ける。
空の目が開く。
虹色の円がアケの周りに展開し、複雑な紋様を描く。
「「日曜霊扉」」
二人の声が重なる。
「「解放」」
虹色の円が激しい光を放ち、牛頭を飲み込んだ。
(熱い……)
空のはずの両目が熱い。
蛇の目が眩むような虹色の光……。
空の目の前で展開する虹色の円……。
日曜霊扉。
ナギに封印を解かれた時は目の奥底から膨れ上がるようなドス黒い圧と肉体を搾られるような恐怖に心が刻まれそうになった。
そして今は……。
白蛇……!
腹の奥から凍てつかされるような怨嗟がアケを襲う。
白蛇……白蛇……!
憎悪に歪んだ牛頭の貌が虹色の円の向こうに映り、アケを睨みつける。
アケは、身が千切れるような恐怖に手に持った巾着袋を握りしめる。
アケの脳裏にあるはずのない記憶が湧き起こる。
赤い二又の舌を啜りながら光のない冷徹な朱の目で嘲るように見下ろす巨大な白蛇。
襲いくる激痛に叫び、力を奪われることに嘆き、魂を喰われる恐怖に震え、そして自分を傷め、辱め、苦しめる目の前の白蛇への憎悪……その全てがアケの脳裏を飛び交い、心を殴りつける。
(ひどい……)
アケは、蛇の目を震わせる。
こんなの……恨まれて当然だ。
牛頭は、来たくてこの世界に来た訳ではない。
勝手に呼び出されたのだ。
それなのに白蛇の身勝手な怒りによって殺され、力を奪われ、魂の循環に旅立つことも出来ず、彼女の野望と欲望の道具にされたのだ。
(私と一緒だ……)
ある日……突然全てを奪われた。
両親の愛……人としての生活を……これから訪れるはずだった幸せを全て奪われたのだ。
このジャノメが……。
父の憎悪に表紙を歪ませ、アケを罵る。
化け物……。
化け物……。
化け物……。
化け物……。
化け物……。
化け物!
有象無象の人々が嘲りと蔑み、そして憎しみの声がアケの身体を殴りつける。
(やめて……!)
アケは、胸中で叫ぶ。
(もうやめて……ごめんなさい……ごめんなさい……)
アケは、子どものように泣きじゃくる。
(生まれてきてごめんなさい……もう……もうやめて……許して……誰か……誰か……)
誰か……助けて……。
"消えよ"
眩いばかりの黄金の光がアケを照らす。
憎悪の言葉が止む。
父と母の、アケを攻め立てる人々の姿が消える。
"気を保て"
人の姿をしたツキがいつの間にか横に立っていた。
ツキの黄金の双眸で優しくアケを照らす。
"其方はもう一人ではない"
アケの周りに人影が浮かび上がる。
"耳を傾けよ。大切な者達の声を"
アケは、人影に目を向ける。
"ジャノメ!食材獲ってきたよ"
大きな身体のオモチが鼻をヒクッと動かして赤い目で見る。
"ぶぎい"
アズキがつぶらな瞳でお湯が沸いたよと教えてくれる。
"お嬢様、こちらでよろしいですか?"
家精が美しい顔で優雅に微笑んで塩の袋を渡してくる。
"キューイ"
"キュイキュイ"
"キューイン"
小鬼三兄妹がはしゃいで飛び跳ねる。
"姉様"
ナギがアケの背中からぎゅっと抱きしめてくる。甘えん坊な子どものように。
"ジャノメに会えて良かった"
ウグイスが天真爛漫な可愛らしい笑顔で微笑む。
「みんな……」
アケは、優しく自分を見つめる大切な人達を見る。
"足掻け……"
ツキが黄金の双眸でアケを見つめ、呟く。
"其方の道を……夢を切り開け"
逆側から黒狼の姿をしたらツキが囁きかける。
"其方の進むべき道を我らに見せよ"
二人のツキの声がアケの心に染み渡る。
「はいっ」
アケは、大きく頷く。
視界が開ける。
虹色の円の向こうに禍々しくアケを睨む牛頭の顔が迫る。
牛頭は、霊扉に吸い込まれまいと、アケに一矢報いようとアケを凍てつく腕を伸ばし、襲い掛かろうとする。
アケは、そんな牛頭を見て……優しく微笑んだ。
牛頭の表情が変化する。
憎しみに歪んだ目が柔らかくなる。
「白蛇は……消えました」
牛頭の目が大きく震える。
「もう貴方様が恨む者はいません。もし、それでも怒りが憎しみが治らないなら私がそれを全て受け入れます」
牛頭の両腕が崩れだす。
「もう……誰も貴方様を苦しめません」
アケは、優しく微笑む。
「安らかに……お休みください」
牛頭の身体が崩れる。
表情が穏やかに笑う。
"ありがとう"
アケの脳裏に優しい声が響く。
"貴方の人生に……幸多からんことを"
牛頭の身体が日曜霊扉に吸い込まれる。
霊扉は、クルクルと回転し、虹色の光を放って消える。
アケの身体が大きくよろける。
ぽっかりと開いた虚な目の闇が揺れて溢れ出しそうになる。
アケは、目の淵から湧き上がる熱と痛みに悶える。
「ぬりかべ」
ツキの顎から声が漏れる。
『あいよぉ』
巾着袋が黄色く光る。
封が解け、中から蛍のような光がユラユラと立ち昇る。
『ようっ嬢ちゃん』
切符のよい声が響く。
『約束……守るぜ』
二つの蛍が闇に揺れるアケの目にゆっくりと向かい、飛び込む。
アケの目が熱く光輝く。
アケは、そのまま倒れ込みそうになるのをツキが顔を寄せて支える。
「よくやった」
一対の黄金の双眸が月のようにアケの顔を映す。
「おツキ……様……」
アケは、力の抜け切った声で呟き、黄金の双眸を見て……驚く。
黄金の双眸に映った自分の顔……そこにあったのは……。
「これって……」
アケは、空であったはずの自分の目に触れる。
そこに映っていたのは目だった。
蛍色の大きな一対の目がアケの空だったはずの目の中に収まっていた。
「封印だ」
ツキは、黄金の双眸でじっと見る。
「ぬりかべの目と白蛇の奴の皮の残骸を使ってオモチが作った。奴の一部が使われるのは癪かも知れぬが素材としては最適だ。それに……」
ツキは、鼻をアケの顔に寄せる。
「あくまで封印の蓋だ。見ることは叶わぬ。その目から縁を切ることは出来ん」
ツキは、じっとアケの額の蛇の目を見る。
「力なき我を許せ……」
ツキは、謝罪するように黄金の双眸を閉じる。
アケは、震える手で自分の顔に触れる。
感じたことのない感触と感情に心が震えて止まらない。
アケは、ツキの首筋に身を埋めた。
黄金の双眸が大きく見開く。
「おツキ様……」
アケは、ぎゅっとツキの首筋を抱きしめる。
「ありがとうございます……ありがとうございます……おツキ様……おツキ様……!」
アケは、咽び泣いた。
喜びで泣いたのなんていつ以来だろうか?
アケは、ツキの首筋で泣き続けた。
ツキは、何にも言わず、愛しげにアケを見た。
「お嬢様」
弱々しくも気品のある声がアケの耳に届く。
アケは、弾かれるように顔を上げる。
そこにあったのは青いとんがり屋根の小さな家……。
「改築してなんとか動けましたわ」
とんがり屋根の家のドアが小さく開く。
五歳くらいの金髪の美しい幼女が姿を現し、優雅に微笑む。
「座敷童子!」
アケは、呆然と呟く。
「お迎えに来ましたわ。お嬢様。みんなと一緒に」
熱い風が頬を打つ。
空を見上げると炎の翼を大きく羽ばたかせたアズキとその鼻の上に乗った小さなオモチが手を振っている。
「キュイ!」
「キュイキュイキュイ!」
「キューイン!」
座敷童子の横を通り抜け、小鬼三兄妹が飛び出してきてアケに抱きついてくる。
「みんな……」
その時、背中に温かく柔らかな感触が伝わり、ふわりと柔らかな羽毛がアケを包み込む。
緑色の……綺麗な羽毛が……。
「ウグイス……」
アケは、蛇の目と……蛍色の目を大きく見開く。
ウグイスは、青白い顔で、しかしいつものように愛らしい顔でにっこり微笑む。
「お目目……可愛いよ」
ウグイスの唇がアケの目元にチュッと触れる。
アケは、ぽおっと頬を赤らめながらも喜びに破顔する。
「ウグイス……ウグイス……」
「お腹空いちゃったよ……」
ウグイスは、痛々しくも塞がりかけた刀傷の走った自分のお腹を見る。
キュウウウッと可愛らしい音が鳴り響く。
「ご飯にしよ」
ウグイスは、にっこり微笑む。
「はいっ」
アケは、大きく頷く。
「たくさん……たくさん作りますね」
ツキがそんな二人の様子を黄金の双眸を細めて見る。
「名を……」
ツキの言葉にアケは、振り返る。
「其方の名を教えよ」
黄金の双眸がじっとアケを見る。
ウグイスも、オモチも、アズキも、座敷童子も、そして小鬼達もじっとアケを見る。
アケは、自分の目に触れる、
かつて白蛇の皮が巻かれていた自分の顔を。
そして意を決して口を開く。
「私は……」




