赤い実 黒い豆
小鬼三兄妹の足が止まったのはそれから三十分後、小高い山の中腹であった。
恐らく高さで言ったら三千尺(約千メートル)、空気は冷たいが陽光のお陰でそこまで寒くはない。鮮やかな緑と肥沃な土の匂いが身体を包み込む。
しかし、アケにはそんな自然の恩恵を味わっている余裕はなかった。
アケは、静止した小鬼の神輿から崩れ落ちるように降りると、倒れ込むように両手と膝を付く。
顔は青ざめ、胃の奥から何か酸っぱいものがら込み上げてきそうになる。頭も痛い。
「大丈夫か?」
ツキがアケの側にしゃがみ込み、脂汗に濡れたアケの髪を掻き上げる。
アケの後を追って走ってきたと言うのにその顔には汗一つ浮かんでない。
その事にアケは何故か腹が立ち頬を膨らませ、蛇の目で睨む。
ツキは、アケが何故怒っているのか分からず、首を傾げる。
「キューイ」
小鬼の次兄(客として対応する内に区別がつくようになった)が灰色の皮袋をアケに渡してくる。
タプンッと膨らんでいるのを見て中身が水であることは容易に想像がついた。
「私に?」
アケが訊くと次兄は長毛の奥の目を細めて「キューイッ」と鳴いた。
「ありがとう」
アケは、皮袋を受け取ると小さな木の実でできた蓋を開けて口に付ける。
冷たくて美味しい。
アケは、喉を鳴らして水を飲むと、ツキがじっと見ていることに気づいた。
「何か?」
アケは、蛇の目を顰めて訊く。
「其方……それがなんだか知っているのか?」
「お水ですけど……飲まれますか?」
アケは、皮袋を差し出す。
「それは分福茶釜の皮だ」
「分福茶釜?」
「其方らの言う狸に似た幻獣だ。それは奴らの性……」
「キューイッ!」
ツキの言葉を長女が遮る。長毛に隠れた目を逆立て、あろうことかツキの脛を蹴っていく。
突然の行動にアケは驚く。
長兄が慌てて長女を止めるが、長女は決して蹴るのをやめず「キューイ!キューイ!」と捲し立てる。
まるでデルカシーのなさを怒るように。
ツキは、どう対処したら良いか分からず困った顔をする。
ツキのあんな顔は初めてだな、と思いながら水を飲んでいる、と。
アケは、思わず皮袋を落としそうになる。
目の前に広がる光景に心を奪われそうになる。
それは紅玉のような赤く輝く実をたわわに実らせた樹々の群生であった。
甘く熟した香りが鼻腔に入り込み、安らかな感覚と閉じた胃を刺激する。
「今年も実ったな」
アケの隣に立ったツキが口元を綻ばせて言う。
長女は、次兄の力を借りてようやく取り押さえるが興奮冷めやらない。
「これが……」
アケは、恐る恐るツキを見上げる。
ツキは、小さく頷く。
「あの黒い豆の原料だ」
アケは、蛇の目を大きく見開く。
よろよろと立ち上がり、赤い実の成った木の一つに近寄る。
それだけで甘く熟した匂いが鼻腔を通して身体を満たしていく。
アケは、震える手で赤い実を摘む。
固い。
実と茎が力強く結びついている。
アケは、実と幹を傷つけないような右に左にと丁寧に揺らして摘みとる。
手の中に甘い匂いが充満する。
宝石のように綺麗で……可愛らしい。
アケは、しばし赤い実に見惚れる。
しかし、味はどうなのだろう?
「……いただきます」
アケは、意を決して口の中に放り込む。
蛇の目が大きく見開く。
「甘い……」
驚くくらい甘い。
身なんてほとんどないのに口に入れただけで苺の何倍もの甘みが口の中に広がり、全身が痺れ、恍惚となる。脳が刺激されていくらでも食べたくなる。
蛇の目を向けると小鬼三兄妹も隣の木の赤い実をむしり取って口一杯に放り込んで口周りを汚している。
それを見てアケも同じことをしたい衝動に駆られるが……ダメだ。
美味しいけど食べる為に来たんじゃない。
アケは、口の中の実を舌と口内を全て使って味わい、調べた。
カリッ。
奥歯が種を噛む。
固い!
アケは、べっと手のひらに種を出す。
赤い実のほとんどを形成した二粒の種。
ぷっくりと膨らんだ種はまるで水分をたっぷりと含んだ石のようだ。歯が欠けるのではないかと思ったのに表面には傷一つ付いてない。
アケは、巾着袋から黒い豆を取り出して手のひら種と一緒に並べる。
形は一緒。
大きさは個体差もあるだろうが水気のない分少しだけ黒い豆の方が小さい気がする。
匂いは種の方は実の影響でただただ甘いが黒い豆は甘さの中に深い香ばしさがある。なんと言うか心の琴線に触れて爽やかさと癒しが同時にまとわり付くような……。
そして表面の色。
今までこの色は自然の色とばかり思っていたが……。
「調理……されてる?」
アケは、辿り着いた答えに衝撃を受ける。
この豆は既に調理された状態……完成しているのだ。
それはつまりこれ以上手の施しようがないことを意味している。
もう、アケには何もすることがないと……。
「いや、ダメ!」
アケは、自分を叱咤する。
突然、アケが声を上げた事にツキは黄金の目を見開き、小鬼三姉妹も驚いてアケに目を向ける。
「これは調理……料理じゃない」
この完成されたもの先に求めるものがある。
アケの脳裏に幼い頃のナギの姿が浮かぶ。
"姉様のご飯でたくさんの人に喜んでもらおう"
次に浮かんだのは金色の黒狼。
無機質に黒い豆を齧る切なげな黄金の双眸……。
「あの方を……喜ばせたい」
アケは、意を決し、黒い豆を口の中に放り込んだ。
ツキは、黄金の目を瞠る。
苦い。
とんでもなく苦い。
あの甘い実から調理されたとは思えないくらい苦い。
固さも殆ど変わらない。
でも、口の中に広がる香りの深さは圧倒的に違う。
炒めた豆のような香ばしさ。
花のような華々しさ。
肥沃な土のような癒し。
燻された煙のような深さ。
そして心の琴線を震わせるような深み。
これらを活かすには……。
アケの脳裏に様々な調理法が浮かぶ。
焼く。
煮る。
炒める。
漬ける。
晒す。
どれも違う。
この豆の良さが引き立たない。
生きない。
アケは、豆を口の中で転がし、含み、齧る。
黒い豆が小さく欠けて舌に落ち、唾液に溶けて苦味が染み込む。
蛇の目が大きく見開く。
アケの中に天啓が下りる。
アケは、ペッと黒い豆を口から出す。
アケの歯に表面を削られた黒い豆を。
「これだ……」
アケは、辿り着いた答えに喜び、手が震える。
ツキの方を向き、満面の笑みを浮かべる。
「分かりました!料理方法!」
ツキの黄金の双眸が丸くなる。
空に浮かぶ月のように。
「そうか……」
ツキは、小さく呟く。
「それは良かった」
そう言って口元を綻ばせるツキの顔はいつもよりも優しく、そして嬉しそうだった。
それを見てアケも心が温かくなるのを感じた。
しかし、次の瞬間、その表情は曇る。
「どうした?」
ツキは、顔を顰めてアケを見る。
「料理方法は分かったのですが……」
アケは、蛇の目を巡らして周りを見る。
「ここでは出来ないです」
黄金の双眸が揺れる。
アケは、手の上の黒い豆を見る。
「これを料理するには……食堂が必要です」
アケの脳裏に笑顔のウグイス、呑気なオモチ、可愛いアズキ、そして優雅な座敷童子の姿が浮かぶ。
アケは、きゅっと豆を握りしめる。
「みんなが……食堂がなきゃ出来ません」
「そうか……」
ツキは、空を見上げる。
いつのまにか空は陰り、日は遠くに沈もうとしている。
「では、帰るか」
「えっ?」
アケは、蛇の目を丸くする。
「其方が言ったのであろう。奴らと食堂がなければ出来ない。なら、選択肢は一つのみだ」
「でも……」
アケは、蛇の目を震わせ、俯く。
「私は……もう……」
戻る資格なんてない……。
自分のせいでみんなが傷ついた。
みんなをずっと騙してきた。
みんなの大事な王を殺そうとした。
そしてみんなの気持ちを裏切って自死を選んだ。
そんな自分が……。
そんなアケの様子を見てツキは大きく息を吐く。
「心配してるぞ?」
「え?」
アケは、蛇の目を見開く。
小鬼三兄妹がいつの間にか側に寄ってきて長毛に隠れた目で不安げにアケを見上げている。
「こやつらは其方のことが好きらしい」
ツキは、黄金の双眸を閉じる。
「其方が辛そうにきているのが嫌なのだろう……」
「貴方たち……」
アケは、膝をついて三兄妹の視線に合わせる。
三兄妹は、「キューイ」と悲しげに鳴いてアケに寄り添う。
「こやつらに案内役を頼んだ時、とても喜んでくれた。其方に実を食べさせるのを楽しみにしていた」
「それは、私のことを知らないから……」
「関係ない」
ツキは、黄金の双眸を開く。
「この国に其方を騙されたと恨んだり、醜いと蔑むような狭量な者はおらん」
ツキは、ゆっくりとアケに近寄る。
「そして其方を同情で受け入れるような者もな」
ツキは、アケの前にしゃがみ込む。
「ただいまと言えばいい」
アケは、蛇の目を大きく見開く。
「ここの赤い実をたくさん採って土産にすればいい。足りないなら小川で魚でも捕まえよう。鹿でもいい。それで美味いものでも作ってやればそれで十分禊ぎとなる……」
「でも……そんなので……」
「そんなのではない」
ツキは、アケの黒髪の上に手を置く。
「其方の作る物はこの国の奇跡だ。多くの者が救われた」
ツキの言葉に小鬼達は同意するように「キューイッ!」「キュイキュイ!」「キューインッ!」と飛び跳ね、叫ぶ。
「貴方達……」
アケは、小鬼達を見る。
「其方はどうしたい?」
ツキは、静かに問いかける。
アケは、ツキに目を向ける。
「戻りたいかのか?戻りたくないのか?」
アケは、蛇の目を震わせ、空の目を塞ぐ鎖に触れようとする、とその手をツキが握りしめる。
「その目を言い訳にするのは無しだ」
ツキの言葉にアケは大きく目を見開く。
「巨人如きにこの国の民は屈しない。暴れ出すなら叩き伏せて其方を必ず救う」
「おツキ様……」
蛇の目が潤み、涙が一筋溢れる。
ツキは、その涙を人差し指で拭う。
「其方は、どうしたい?」
「私は……」
アケは、震える唇で言葉を紡ごうとする。
刹那。
周囲の空気が凍てつく。
赤い実と青々とした葉に霜が走り、土が凍る。
ツキの黄金の双眸がすうっと細まる。
アケは、動揺に身を竦ませる。
「月曜霊扉」
ツキは、右腕を天高く伸ばす。
黄金の円が展開し、複雑な紋様を描く。
「解放」
黄金の円から漆黒の鎖が溢れ出し、渦を描いて巨大な円盤へと姿を変える。
刹那。
冷気の圧が漆黒の円盤に叩きつけられる。
漆黒の円盤が白く染まる。
衝撃波が円盤を激しく揺らし、貫き、地面を叩きつけ、地盤を揺らす。
アケは、小鬼三兄妹を守ろうと両手を広げて抱きしめる。
飛び散った冷気が赤い実と木々、そして地面を白く凍てつかせる。
アケは、変わり果てていく景色に息を飲む。
実が……実が……!
「その身でこれに耐えうるか……」
天空から声が響く。
霜を落としながら円盤が解けて鎖へと戻り、ツキとアケの周りを包むように囲う。
「少々、舐めてましたわ」
空にいたのは黒い着物を着崩した妖艶な美女……邪教の女であった。
アケは、驚愕に蛇の目を震わせる。
ツキは、黄金の双眸で女を睨め付ける。
刹那。
殺気がツキの身体を貫く。
ツキは、反射的に左手を伸ばす。
赤い血が飛び散り、白く染まった地面を穢す。
アケは、両手を口に当てて息を飲む。
伸ばされたツキの左手の平を刃が貫き、切先が左頬を切り裂いた。
「見事」
ツキの左手を貫いた主……金色の髪に白蛇の描かれた赤い甲冑を纏った少年、ナギが鋭い目でツキを睨みつけ、賞賛を贈る。
「一撃で屠れなかったのは猪に次いで二度目だ」
「ナギ……?」
アケは、震える蛇の目で目の前でツキの手の平を貫いたナギを見る。
しかし、ナギはアケを見ようともせず、両手で柄を握り、刃を捻って横に薙ぐ。
小指を残して平から上の部分が切断される。
アケは、悲鳴を上げる。
ツキは、切断された左手を見るどころか表情一つ変えず、ナギを見る。
その異様さに斬ったはずのナギの表情が固まる。
左の切断面に黄金の円が展開する。
「月曜霊扉」
ツキは、黄金の円を展開した血の滴る切断された左手をナギに向けて構える。
「解放」
漆黒の鎖の群がナギを襲う。
ナギは,迫り来る漆黒の鎖の群を刀で防ぎ、叩き落としていく。
冷気が吹き荒れる。
凍てついた地面に降り立った女が両手を構え、吹雪を放つ。
ツキの身体が白い結晶に覆われ、彫像と化す。
「おツキ様!」
アケは、叫ぶ。
ナギは、勢いを失った鎖を叩き伏せ、切先を白く染まったツキに振り下ろす。
刹那。
漆黒の円盤が震え、霜を吹き飛ばしながら鎖の雨を降らせてナギと女に襲いかかる。
女の姿が瞬時に消える。
ナギは、刀で鎖の雨を弾きながら後方へと下がる。
鎖の雨は、彫像と化したツキの身体を叩きつけ、氷を砕く。
ツキは、何事もなかったかのように間合いの外に脱したナギと、いつの間にか隣に寄り添っている女を睨む。
「無事か?」
ツキは、視線を向けずアケに訊く。
「はいっ……この子達も」
アケは、自分の腕の中で震える小鬼三兄妹を見て言う。
そして今だ血を流し続ける小指のみを残したツキの左手を見て、唇を噛み締める。
「ナギ!」
アケの叫び、ナギを睨みつける。
「なんで酷いことをするの!ナギ!」
蛇の目が沸る。
こんなにもナギに怒りを感じたのは初めてかもしれない。
しかし、ナギは、表情ひとつ変えることなく刀を垂直に構える。
正眼の構え。
アケの脳裏に一刀両断にされた座敷童子の姿が蘇る。
「おツキ様!」
アケは、叫ぶ。
遅い。
ナギの刀が目にも止まらぬ速さで振り下ろされる。
斬撃の衝撃波が凍てつく地面を切り裂き、ツキに迫る。
刹那。
円盤が崩れ、ツキ達の前に降り注ぎ、形を変えて盾となり、斬撃の衝撃波を防ぐ。
鎖が轟音を上げて砕け散る。
凍てついた地面が割れ、霜と土煙が巻き起こる。
鎖が地面に落ちる。
ツキは、黄金の双眸をナギと女に向ける。
しかし、そこには女しかいなかった。
黄金の双眸が瞬時にアケに向く。
刀を口に咥えたナギが小鬼三兄妹を拳と蹴りで薙ぎ払い、アケを担ぎ上げている。
ツキとナギの視線が交差する。
「後は任せた」
ナギは、刀を咥えたまま言う。
「心得ました。御大将」
女は、妖艶に微笑む。
鎖がナギを追う。
しかし、それよりも速く女の生み出した氷柱の矢がツキを襲う。
ツキは、鎖の方向を変え、小鬼達を包み、跳躍する。
ツキ達のいた場所に氷柱が突き刺さる。
ツキが地面に降り立つ。
アケとナギの姿はもうそこにはなかった。
鎖が消える。
黄金の双眸が小鬼三兄妹を見据える。
「追え」
小鬼三兄妹は、左肩に右手を置いて一礼し、アケ達が去ったと思われる方向に走っていく。
「無粋ですわねえ」
女が口元に手の甲を当て、玉を転がすように笑う。
「男と女の戯れを邪魔するものじゃありませんわよ。それとも……」
女は、目を薄めてツキを見る。
「ひょっとして……惚れましたか?あんな人の小娘に?」
「ほざけ」
ツキは、女を睨む。
「貴様こそ……そんな姿をして何を企んでいる?……白蛇」
女……白蛇は割れるように口元を歪めた。




