第97話 黒竜は、怒っていた
レグニアがノルド王国の王都に現れたのは、まもなくのことだった。
瞬間移動で降り立った場所は、王宮の外壁の上だ。
眼下には王都の街が広がり、遠くには山脈の黒い稜線が見えた。
だがレグニアの意識は、そのどれにも向いていなかった。
聞こえていた。
地の底から這い上がってくるような、細く、弱く、それでいて必死な鳴き声が。
(……泣いている)
子供の声だ。親を呼んでいる。
声のする方角は、王宮の地下だ。
レグニアの目が、静かに細くなった。
「人間ごときが……神獣の子供に手を出すとは」
低く、抑えた声だった。
だからこそ、その怒りの深さが伝わった。
***
王宮の地下へ続く通路の入口は、魔法騎士団が警護していた。
鎧姿の兵たちが隙間なく立ち並んでいる。その数、百。
いずれも魔法を帯びた鎧を纏う精鋭たちだ。
隊長格の男が声を張り上げた。
「何者だ! この先は立ち入り禁止だ!」
レグニアは立ち止まらなかった。
「退け」
一言だけ言った。
「この先には通さん! 全員構え!」
魔法騎士団が一斉に魔法を発動した。炎、氷、雷、風――様々な属性の魔法が、通路を埋め尽くすように放たれた。
光が弾けた。
煙が晴れると、レグニアはそのまま立っていた。
「次、来るか?」
レグニアが静かに問いかけた。
レグニアが右手を軽く振った。
見えない衝撃が通路を走り、魔法騎士たちが壁に叩きつけられて崩れ落ちた。
一人、また一人と、呻き声を上げて動かなくなっていく。
残った騎士たちが、じりじりと後退し始めた。
「くそ、化け物め」
誰かが呟いた。
「化け物はお前たちだ」
レグニアが静かに答えた。
その言葉とともに、黒い気が全身から溢れ出した。
廊下の温度が下がった。松明の炎が揺れた。魔法騎士たちは、本能的に悟った。
これ以上立ちはだかれば命はない。
「……退け! 全員退くのだ!」
隊長の号令とともに、騎士たちが一斉に踵を返した。
入口を離れ、一目散に逃げていく。
レグニアは振り返りもせず、地下へと続く階段を下りていった。
***
地下へと続く階段を下りていった。
地下牢への通路に差し掛かると、扉の前に十人の騎士が立ちはだかっていた。
入口の騒ぎを聞きつけて身構えていたのだろう。
だが彼らが声を上げる前に、レグニアの気が走った。
十人が、音もなく崩れ落ちた。
扉の向こうから、声が聞こえた。
「なにがフェンリルだ。鳴けよ。鳴かないと、また蹴るぞ」
「おい、やりすぎるなよ。逃げないように弱らせておけという命令だ」
「わかっているよ。でもこいつの反抗的な目を見るとつい力が入って……」
「まあ、簡単には死なないだろうがな」
低い笑い声と、短い吠え声が続いた。
(フェンリルの子だな。怒っているが、怖がってもいる)
レグニアの目が、一瞬だけ鋭くなった。
扉を蹴破った。
牢の中には十人の騎士がいた。
松明の薄明かりの中央に、小さな白銀の獣が四肢を黒い鎖で繋がれていた。
狼に似た姿だが、全身が淡く輝く白銀の毛に覆われ、額には小さな角が生えている。フェンリルの子だ。
騎士の一人が足を振り上げようとした瞬間、その場の全員が床に沈んだ。
子供が怯えたまま顔を上げた。
赤く充血した目と、体のあちこちについた傷が見えた。
「……だれ?」
幼い、震える声だった。
「助けに来た」
レグニアは膝をついた。視線を子供の高さに合わせた。
「怖くない。鎖を外してやる」
子供が小さく頷いた。
レグニアが鎖に触れると、強い抵抗があった。
魔力を吸収する鎖は、並の力では断ち切れない。
だがレグニアは、黒竜だ。
気を指先に集中させ、静かに力を込めた。
鎖が軋み、きしみ、そして――砕けた。
四肢の鎖がすべて外れた瞬間、子供がよろけた。
レグニアが素早く支える。
「行くぞ?」
「どこに?」
「お前の親のところだ」
レグニアは子供を抱き上げ、地下牢を後にした。
***
ヴァルド辺境伯領の荒れ地に、巨大な影があった。
嵐のような気配を放つ白銀の巨狼。
その全身から、怒りと悲しみと、焦りが渦を巻いていた。
周囲に配置されていたノルド王国の衛兵たちは、レグニアに全員が気絶させられ、地に伏していた。
レグニアが静かにフェンリルに近づく。
その腕の中に、白銀の子供を抱えて。
巨狼が振り返った。
琥珀色の双眸が、レグニアを捉えた。
「……誰だ」
低く、地鳴りのような声だった。
「黒竜のレグニアだ」
(反応が薄いな)
レグニアが子供を地面に下ろした。
子供が親の方へ駆け出そうとした。
だがフェンリルは動かなかった。
目がうつろだ。子供を見ているのに、反応が薄い。
「……おかあさん? おかあさん!」
子供が必死に呼びかけた。
フェンリルは、子供を見下ろしたまま動かなかった。
レグニアは静かにフェンリルの前に立った。
「フェンリルよ。聞こえるか」
うつろな目が、レグニアへ向いた。
「お前の子供が、そこにいる。わかるか?」
やはり、反応が薄い。
「助けてやる。動くなよ」
レグニアは両手をフェンリルの額にそっと当てた。
目を閉じ、気を集中させる。
体の奥に、不自然な流れがあった。
薬の成分が、深部に巣食っている。
それを一つひとつ、気の力で押し流していく。
しばらくの間、沈黙が続いた。
やがて――フェンリルの体が、小さく震えた。
うつろだった目に、光が戻ってきた。
「……ここは」
フェンリルがゆっくりと顔を持ち上げた。
視線が、子供へと向いた。
「……お前は」
「おかあさん!」
子供が飛びついた。
フェンリルが低く唸り、子供の体を舌で舐めた。
それだけだった。
だがその一動作に、言葉では表せない感情が込められていた。
レグニアは黙って、その光景を見ていた。
***
しばらくして、フェンリルがレグニアへと振り返った。
「黒竜よ。生涯、返せぬほどの恩を受けたな。礼を言うぞ」
「礼はいらん」
レグニアが静かに答えた。
「我はこれより、ノルド王国を滅ぼす」
「待て」
レグニアが一歩前に出た。
「その前に、アーサー王に礼を言っておけ。お前の子供を助けに行ったのは、アーサー王に頼まれたからだ」
フェンリルがゆっくりと目を細めた。
「アーサー王だと……人族の王なのか」
フェンリルの表情が険しい。
「だが、ただの人族ではないぞ」
「……わかった。アーサー王に会いに行こう」
「それと」
レグニアが付け加えた。
「ノルド王国を滅ぼすのは、アーサー王と話してから決めろ」
フェンリルはしばらく黙っていた。
怒りは消えていない。だがその目には、理性が戻っていた。
「……黒竜は、人族の味方をするのか」
「だから、ただの人族ではない」
レグニアはそれだけ言って、空を見上げた。
「行くぞ。アーサー王が待っている」
白銀の巨狼と黒竜が、並んで夜の空へと消えていった。




