第96話 五千の兵が現れる
エスヴァンが執務室に飛び込んできたのは、夜明け前のことだった。
「陛下、緊急の報告があります」
その顔には、いつもの落ち着きがなかった。
「諜報部隊からの報告です。ヴァルド辺境伯領に、ノルド王国の兵が集結しつつあります」
ケイスは思わず立ち上がった。
「数は?」
「現時点で確認できているだけで、ノルド王国兵が約三千。加えて、裏切った同盟貴族たちの兵が合流しつつあります。最終的には五千を超える可能性があります」
「さらに、大型の魔獣フェンリルを連れてきているようです」
「将軍は誰だ」
「ノルド王国有数の武将、バルドス・グラインと見られています。ノルド王直属の猛将で、これまで十以上の国境紛争を制してきた人物です」
(ヴァルド辺境伯……アルベルト元国王が説得して回った貴族の一人だ。面従腹背のまま、謀反のための同盟工作をしていたのか)
「辺境伯の城には、すでにノルド王国の兵が入っているのか?」
「はい。城門が内側から開けられた形跡があります。ノルド王国の部隊は戦わずして城に入った模様です」
ケイスは静かに息を吐いた。
山岳地帯を乗り越えないといけない敵兵は、十分な補給が十分できない。
ヴァルド辺境伯の城で籠城していれば、敵兵は撤退するしかないのだ。
しかし、その城を取られれば、ノルド王国兵は、もはや補給のことを心配しなくて済むようになる。
(我が国の防衛の要衝を、内側から明け渡されたというのは最悪だ)
「エスヴァン、よく知らせてくれた。引き続き監視を頼む」
「承知しました」
エスヴァンが去ると、俺は防衛体制を考え始めた。
(とうとう、戦争の指揮までやることになったか。ぜんぜん、のんびりじゃないぞ)
***
夜明けとともに、緊急の作戦会議を開いた。
集まったのは、レグニア、レオナ、ノエリア、エリュシア、ディアナ、グレン、ブルーノ、フィオラ、そしてエスヴァンら主要な臣下だ。
「状況を整理する」
ケイスが地図を広げた。
「ヴァルド辺境伯が裏切り、その城をノルド王国に明け渡してしまった。現在、辺境伯領にはノルド王国兵と、裏切った貴族たちの兵、合わせて五千が集結しつつある。将軍はバルドス・グライン。ノルド王国随一の猛将だ」
「加えて、大型の魔獣フェンリルも連れてきている」
場が静まり返った。
「対してアーサー王国が動かせる兵は約三千。数で劣る」
「辺境伯領から敵兵を南下させれば、民も農地も街も蹂躙される。なんとしても、我らは、辺境伯領での戦いに勝利しないといけない」
ケイスは一人ひとりの顔を見渡してから、続けた。
「作戦を三つに分ける」
***
「第一隊。辺境伯の城を背にして展開するノルド王国の主力部隊を迎え撃つ。部隊長はブルーノとフィオラ。全体指揮は私とレグニアが執る。ノエリアには負傷兵の治療をお願いしたい」
「承知しました」
ノエリアが静かに頷いた。
「ブルーノ、フィオラ。三千で五千を迎え撃つことになる。楽な戦いではない。だが、この国の民のため踏ん張ってほしい」
「当然です」
二人が俺の方を力強く見つめる。
ブルーノが腕を組んで言った。
「我らには幸運の王と、レグニア殿がいる。簡単には負けません」
「私も同じ気持ちです」
フィオラが静かに、しかしはっきりと言った。
(五千の兵に、俺のスキルは役に立つのだろうか?)
***
「第二隊。裏切った同盟貴族の城を占領し、一族を確保する。ほとんどの兵は出払っていると思うが、油断しないでくれ。隊長はグレン、率いるのはレオナとディアナだ」
グレンが深く頷いた。
「承知しました。……ただ一点だけ確認を」
「何だ」
「レオナ様に加えて、ディアナ様まで。私一人では……」
グレンの目が、わずかに遠くなっていた。
「と、とにかく頑張ってほしい」
「……はっ」
レオナがすかさず言った。
「気も使えるようになったことだし、戦いは私に任せて!」
「そ、そういう意味では……」
(グレン団長、早くも胃にダメージか……)
「レオナ、ディアナ。城を落とすことよりも、貴族の一族を生け捕りにすることを優先してほしい。それと女性と子供たちには、あまり乱暴にしないでほしい」
「もちろんです」
二人が揃って頷いた。
***
「第三隊。フォルトゥーナ宮殿と王都の守備だ。エリュシアに頼みたい」
「任せてください」
エリュシアがまっすぐにケイスを見た。
「エルディア王国から弓隊を派遣してもらえるよう手配します。ルーナとナディアを隊長として、宮殿には一人も通しません」
「頼むぞ」
(エルフの弓兵は強いから、任せて大丈夫だろう)
***
作戦の骨格が決まった後、エスヴァンが静かに口を開いた。
「陛下、一つ申し上げてよろしいでしょうか」
「言ってくれ」
「ノルド王国の大型の魔獣フェンリルに、いかが対処しますか?」
場の空気が変わった。
「なに、フェンリルだと……ノルド王国程度が、神獣にどうやって言うことを聞かせるというのだ」
レグニアが目を細めた。
「諜報部隊によると、ノルド王国の城には、フェンリルの子供が捕らえられているらしいです」
全員の視線がレグニアに集まった。
レグニアは少し考えてから、静かに言った。
「神獣の子供を捕まえて、言うことを聞かせているというのか、ノルド王め。許さん」
(レグニア、怒ってるな……でも、ノルド王国を焼け野原にするのはやめてほしい)
(本音を言えば、敵兵といっても、徴兵された農民や町民だ。辺境伯領での戦いでも、なるべく死人が出ないようにおさめたい)
ケイスは苦笑しながら、レグニアに向き直った。
「フェンリルの子を助けてきてくれないか? 少し本気を出してもらっても構わない」
「そうしよう。神獣の子供を捕まえたなど、ヴェリル様が知ったら大変なことになるからな」
「やり過ぎないでくれよ」
「今から行ってくるぞ。ノルド王国の王都は行ったことがあるから、一瞬で行けるぞ。すぐに戻ってくる」
レグニアの姿が静かに消えた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……行ってしまいましたね。怒ってましたよ」
ブルーノが小声で呟いた。
「頼もしいような、少し怖いような」
フィオラが静かに同意した。
***
会議が終わり、それぞれが準備に動き始めた。
ブルーノが、兵に檄を飛ばす声が中庭に響く。
フィオラも、兵の編成表を持って駆け回っている。
グレンはすでに地図と睨み合いながら作戦を練り始めていた。
エスヴァンが静かにケイスの隣に立った。
「陛下。ルクシオン王国とエルディア国には、状況を伝えておく方が良いかと思います」
「そうだな。ノエリアとエリュシアから急ぎの使者を送ってもらおう」
「足の早い使者を準備いたします」
そう答えて、エスヴァンが去ると、ケイスはひとり窓の外を見た。
朝の光が宮殿の湖を照らしている。いつもと変わらない穏やかな光景だ。
だが今日から、この国の空気が変わる。
ケイスは静かに、しかし確かな気持ちで拳を握った。
(この国の民を、絶対に守る)
それだけが、今の俺の答えだった。




