第95話 嵐の前の、稽古日和
「ガイアス様、また来ます」
ディアナが深く頭を下げると、
「いつでも来い。いつか子ができたら、連れてこい」
ガイアスがそう言い残し、大地へと消えていった。
地面がわずかに揺れ、静寂が戻った。
窪地に残されたのは、砕けた岩と、深く刻まれた踏み跡だけだった。
***
ガイアスに別れを告げ、宮殿に戻ると、エリュシアとノエリアが駆け寄ってきた。
「どうでしたか?」
エリュシアが目を輝かせながら駆け寄ってくる。
「ガイアス様に気脈を開いていただいた。レオナも、ブルーノも、フィオラもな」
「私たちは……?」
エリュシアの声が少し沈んだ。その隣でノエリアも静かに視線を向けてくる。
「次に行くときは一緒に連れていく。ガイアス様も『また来い』と言われていたからな」
「ところで、ガイアス様とティルフィア女王は、親交があるようだぞ」
「そうなのですか……知りませんでした。やはり行くべきでした」
エリュシアが残念そうな顔をする。
「ノエリアは聖女の力があるから、気と合わせるとどうなるか、ガイアスも興味を持つかもしれない」
「そうですね……楽しみにしています」
ノエリアが少し考えるように目を伏せてから、静かに微笑んだ。
「ディアナには、いつか子ができたら連れてこいって言ってたな。そのときには四人の子供もお見せしたいな」
「まあ」
四人の妻たちの顔が一斉に赤くなった。
***
翌朝から、練武場が賑やかになった。
ディアナを先生に、レオナ、ブルーノ、フィオラの三人が気の稽古を始めたのだ。
「まず、体の中心に意識を向けてください」
ディアナが穏やかに、しかしはっきりとした声で言う。
「ガイアス様が開いてくださった気脈の流れを感じてください。最初はかすかな気配程度のはずです。焦らず、ゆっくりと」
三人が目を閉じた。
しばらく静寂が続いた。
「……あ」
最初に声を上げたのはレオナだった。
「感じます。体の奥に……細い流れを」
「そうです。それです」
ディアナが頷いた。
「その流れを、頭のてっぺんから足の先まで、ゆっくりと回してみてください」
レオナが眉を寄せながら集中する。
やがて、その手の甲がうっすらと輝いた。
「……っ!」
「素晴らしい。もう感じることができているなんて」
ディアナが驚いたように目を見開いた。
「ガイアス様が、筋がいいとおっしゃっていましたが……本当でした」
レオナがわずかに頬を赤らめた。
「次は剣に乗せてみましょう。木剣を上段に構えてください」
レオナが木剣を握り、気を乗せようと集中する。
剣の表面に、かすかな光が揺れた。
「いいです。その感覚を忘れずに。では、私が水平に突き出した木剣に向かって振り下ろしてください」
レオナが静かに踏み込み、ディアナが持つ木剣へと振り下ろした。
――ピシ。
振り下ろした木剣が、ディアナが持つ木剣に亀裂を入れた。
「……すごい!」
レオナが目を輝かせた。
「まだ小さな気の流れです。ですが、これを大きくしていけば、前にお見せしたように、地面に刺した木の棒を破壊することができます」
「さらに気を強く流し込めば、相手の鋼鉄の剣を破壊することができます。私は未熟なので、まだできませんが」
「そんなことまで……」
練武場が、しんと静まり返った。
「そ、それを目標にする」
ブルーノが唾を呑んだ。
「私も、槍で盾を貫通させるのを目標にするわ」
フィオラが真剣な目でディアナを見る。
「できます。ただし、毎日鍛錬することが必要です」
「毎日続けます!」
二人の声が揃った。
ディアナが微笑んだ。
(良い師範と弟子だな)
ケイスは練武場の端で腕を組みながら、その光景を眺めていた。
(俺も稽古しないといけないんだけど……のんびりしていてもいいよな)
(あまり上手くならない気がするから)
***
数日後、再度ノルド王国へ向かったエスヴァンが戻ってきた。
「エスヴァン、ご苦労様でした。ノルド王国は、どういう反応だった?」
「ノルド王国では、グレイス王国もアーサー王国になったことをすでにご存知でした。諜報をしっかりやっているようです」
エスヴァンは一拍置いてから続けた。
「平和条約については……簡単には応じない雰囲気でした。これが、ノルド王からの書簡です」
執務室でケイスは書簡を広げた。
表向きは礼儀に則った形式的な文面だ。
だがその行間には、ノルド王国がいかに巨大な軍事力を持つかを、ゆっくりと、しかし確実に滲ませていた。
まるで大きな獣が、牙を見せずに近づいてくるような文章だった。
(やはり、動いてくるか。餓狼のような国だな)
ケイスは書簡を置き、窓の外を見た。
夕暮れの湖が静かに輝いている。穏やかな光景だ。
だがその北の空は、どこか重く暗く見えた。
***
翌朝、エスヴァンが執務室に来た。
「陛下、ノルド王国からの書簡を読んでいただきましたか」
「餓狼の群れが、音もなく近づいてくるような危機感を感じた」
エスヴァンが静かに頷いた。
「まさにその通りです。ノルド王国は武闘国家。民の暮らしにも農業にも興味を持ちません。食料は周辺国を侵略して奪えばいいという考えの国です。その一方、武人を手厚く遇するため、各国から腕に自信のある者たちが集まり続けています」
エスヴァンは一度言葉を切り、静かに続けた。
「陛下がおっしゃる通り、まさに餓狼国家です。常に何かを狙い、隙あらば噛みついてくる」
「そして、その上でさらに厄介な情報があります」
「先ほど諜報部隊から入った情報では、北の大地に生息する伝説の魔獣、フェンリルを配下に置いているとのことです」
フェンリルは、嵐と破壊を司る神獣とも呼ばれる存在だ。
その気配だけで大地を凍らせ、咆哮だけで城壁を砕くとも言われている。
「フェンリルが、簡単に人の支配下に入るとは思えないが」
「子供を捕らえて人質にし、言うことを聞かなければ殺すと脅しているようです」
執務室に、しばらく沈黙が落ちた。
「……やることが、無茶苦茶だな」
「はい。ですが、それがノルド王国という国です」
(レグニアに匹敵するかもしれない力を、向こうは持っている)
(しかし、神獣の子を人質にするとは……許しておけない)
「もう一つ、重要な情報があります。旧グレイス王国の貴族の一部が、秘密裏に同盟を結んでいるという噂があります」
「同盟……?」
「はい。アーサー王国が貴族制を廃止したことへの不満を持つ者たちが、水面下で動いています」
エスヴァンは一拍置いてから、静かに続けた。
「その同盟の一部が……ノルド王国と接触を図っているようです」
執務室が、しんと静まり返った。
(内と外、両方から来るか……)
(のんびりさせてくれないな)
ケイスは窓の外を見た。
朝の光が宮殿の湖を照らしている。穏やかな光景だった。
だがもう、その穏やかさが長くは続かないとわかっていた。
「エスヴァン、引き続き監視を頼む。動きがあれば、すぐに知らせてくれ」
「承知しました」
エスヴァンが一礼して去っていく。
その背中を見送りながら、ケイスは深く息を吐いた。
嵐が、近づいていた。




