第93話 大地の神獣は、退屈していた
数日後――。
「ディアナ、目的地をしっかり思い描いてくれ。レグニアに伝わるように」
「わかりました」
ディアナが目を閉じる。幼い頃から何度も訪れた場所だ。
険しい山々に囲まれた、人里離れた窪地。大地の気が最も濃く満ちる、特別な場所。
俺とレオナ、ディアナがレグニアの手にそっと触れる。
次の瞬間、景色が変わった。
***
目の前に広がっていたのは、人の手が届かない深山の窪地だった。
三方を切り立った岩壁に囲まれ、草一本生えていない荒れた土が広がっている。
しかしその土の色は他では見たことのない深い赤褐色で、まるで大地そのものが生きているかのような質感があった。
空気が違う。
吸い込むたびに、胸の奥まで何かが満ちていくような感覚がある。
(これが……龍脈というものか)
「ここに立っていると、地面からなにかの力を感じます」
レオナが龍脈の力に驚いている。
「大地の気が最も濃い場所です」
ディアナが静かに答えた。
「私が子供の頃から、ガイアス様はずっとここにおられます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに――地面が揺れた。
最初は小さな振動だった。だがそれはすぐに大きくなり、岩壁から土砂がはらはらと落ちてくる。ケイスとレオナが思わず身構えた瞬間、大地が割れた。
地の底から隆起するように、巨大な影が現れた。
全身が深緑の鱗に覆われ、角は大地の岩のように無骨で太い。その目は琥珀色に輝き、じっとこちらを見下ろしていた。
黒竜レグニアとはまた違う、重厚な威圧感がある。
巨体から発せられる気配は、山そのものだった。
(でかい……! 黒竜のレグニアより、さらに大きいかもな)
ケイスが内心で目を丸くしていると、レグニアが一歩前に出た。
「ガイアス、私だ。久しぶりだな」
巨大なドラゴンが、ゆっくりと頭を下げた。
「……レグニアか」
低く、地の底から響くような声だった。
「どうした、急に。それに……ディアナも来ておるのか」
「はい、ガイアス様」
ディアナが膝をついて頭を垂れた。その所作には、幼い頃からの敬意が滲んでいた。
「気の流れを操作する訓練は続けておるか?」
「もちろんです。木剣で岩を打ち砕くこともできるようになりました」
「ほう」
ガイアスの琥珀の瞳が、レオナへと向いた。
「その者がレオナか。なかなかの剛の者だな」
「光栄です」
レオナが鋭い目で頭を下げた。
その目には、明らかに「気を教わりたい」という光が宿っていた。
「それと……私は、ここにいらっしゃるケイス王と結婚しました」
ディアナがケイスの方を向くと、ガイアスが動きを止めた。
「……ちょっと待て」
地面がまた小さく揺れた。
巨大なドラゴンの姿が、みるみる縮んでいく。やがてそこに立っていたのは、白髪交じりの壮年の男性だった。岩のような肌をした、がっしりとした体格の男だ。
その目だけが、変わらず琥珀色に輝いている。
「私は、ケイス・アーサーと申します。アーサー王国の王をしています」
ケイスが一歩前に出て、頭を下げた。
ガイアスはしばらくケイスをじっと見つめた。目を細め、何かを確かめるように。
「……少し、ぽっちゃりしておるな」
「よく言われます」
「だが……妙な気配がある。人間ではあるが、ただの人間ではないような」
(やはりドラゴンには、わかるのか)
ケイスが黙っていると、ガイアスがレグニアへ視線を向けた。
「お前が、護衛のようなことをしているとはな……珍しいこともあるものだ」
「まさか……あのお方に頼まれたのか」
「そうだ」
「ここに来たのは、ディアナがガイアスの話をしたからだ。つい懐かしくなってな」
「ずいぶんと久しいな」
ガイアスが低く笑った。
「せっかくだから、手合わせしてみるか? 腕は鈍っていないだろう」
「確かめてみるがいい」
レグニアの目が細くなった。
「しばらく、弱い相手ばかり相手にしてきたからな。久しぶりに本気を出せるのは、ありがたいぞ」
***
「ち、ちょっと待ってほしい」
ケイスが慌てて割り込んだ。
「二人が本気で戦ったら、この山ごと吹き飛んでしまうかもしれない。頼むから、ほどほどにしてもらいたい」
ガイアスとレグニアが顔を見合わせた。
「当たり前だ。太い龍脈が通る大事な場所を壊したりはしない」
ガイアスが涼しい顔で言った。
「心配するな」
レグニアも同じく涼しい顔で言った。
「……二人して同じ顔で言うのが、一番怖いんだよ」
「私も心配です」
レオナが静かに同意した。
「げがなど、されないように」
ディアナも心配そうだ。
ガイアスとレグニアは再び顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑った。
それが余計に怖かった。
***
ひとの姿のまま、二体の龍が向かい合った。
ガイアスの体が、大地の力を吸い込み鈍く輝き始める。
レグニアは、周囲の光を吸い込むように漆黒に輝く。
最初の一合は、静かだった。
ガイアスが地を踏んだ。
ただそれだけで、地面がぐっと沈んだ。大地の気が足元から全身へと流れ込み、拳に収束していく。
踏み込みは速かった。
だがレグニアはそれを見切り、紙一重で躱しながら腰に佩いた細剣を抜いた。
「我が拳は、剣などよりも硬い」
ガイアスが低く言った。
「我が剣も、その辺のなまくらとは違うぞ」
レグニアが静かに答えた。
次の瞬間、打ち合いが始まった。
ガイアスの拳が空気を裂く。
気を込めた一撃は、岩すら砕く重さを持つ。
しかしレグニアの剣はそれを正面から受けず、流すように捌いて隙を突く。
鋼と気がぶつかるたびに、低い衝撃音が窪地に響いた。
ガイアスが地を蹴り、左の掌打を放つ。レグニアが半身を引いて躱し、そのまま剣の切っ先をガイアスの首筋へと走らせる。
ガイアスは首を傾けてそれを避け、右の肘打ちを叩き込んだ。
レグニアが後方へ弾き飛ぶ。しかし着地と同時に地面を蹴り、間合いを詰めながら上段から振り下ろす。
ガイアスが両腕を交差して受けた。
気を纏った腕が、剣と激突する。
――ゴッ。
鈍い音が響き、二体が同時に後退した。
しばらく、静寂が落ちた。
二体とも、息が乱れていない。
それが、この戦いの次元を物語っていた。
ケイスは一言も発せなかった。
レオナも口を閉じたまま、目だけを輝かせていた。
ディアナは静かに目を閉じ、ガイアスの気の流れを感じ取っているようだった。
「腕は鈍っていないようだな」
ガイアスが口元を緩めた。
「お前の気の練り方も、昔より深くなっているようだ」
レグニアが静かに剣を収めた。
***
「久方ぶりに楽しかった。……それで、今日は何の用だ。龍脈の見物ではあるまい」
「ガイアス様にお会いしたかっただけです。それと……大地の気というものに興味がありまして」
ガイアスが少し目を細めた。
「そなたは、ティルフィア国のエリュシア王女も妻にしているな」
「はい」
「実は、エルディア女王とは親交があってな。世界樹が弱っている件について、相談を受けていたのだ」
ガイアスは静かに続けた。
「世界樹の地中に何か問題があるのはわかっていた。だが、巨大化した虫だったとはな。根に取り付いた害虫を退治してくれたこと、礼を言うぞ」
「レグニアがいなければ、虫の存在はわかりませんでした」
「弱った世界樹を元気にしたのは、お前だと聞いたぞ」
「たまたま運が良かっただけです」
ガイアスがしばらくケイスを見つめた。
それから、低く笑った。
「……なるほど。レグニアを護衛に付けるわけだ」
「はい、まあ……運良く、そういうことになってます」
「だが、その話は別に機会にしよう。次に来るとき、もう少し時間を取って来い」
「わかりました。また来ます」
「ディアナ」
ガイアスがディアナに目を向けた。
「良い男と結婚したではないか」
ディアナが頬を赤らめた。
「……ありがとうございます」
「少し、ぽっちゃりしておるがな」
「ガイアス様!」
ガイアスが豪快に笑った。
その笑い声が、窪地の岩壁に響き渡った。
ケイスは苦笑しながら、しかし不思議と悪い気はしなかった。
この神獣は、親しみを持って言っているからだ。
帰り際、ガイアスがぽつりと言った。
「いつでも来い。退屈していたところだ」
その一言が、何千年も大地の底で龍脈を守り続けてきた存在の、素直な言葉のように聞こえた。
(神獣でも、孤独を感じるときが、あるのかもしれないな)




