第9話 スラム街で、拳を握りしめた
男の後ろについてしばらく歩いた。
たどり着いたのは、スラム街だった。
市場の賑わいが嘘のように、空気が変わった。
湿っぽく、腐ったような匂いが漂ってきた。
石畳は途切れ、足元は泥と砂利が混じった地面になる。
建物と呼べるものはほとんどなく、崩れかけた壁に穴の空いた屋根ばかりだ。
子供たちは裸足のまま、地面に座り込んでいた。
服はぼろぼろで、小さな体は骨が浮き出るほどやせ細っている。
泣く力も残っていないのか、ただじっとしているだけだ。
「これは……ひどいな」
ケイスが静かに呟く。
怒りでも嘆きでもなく、ただ事実を受け止めるような声だった。
レグニアは無言だった。
だがそのルビーの瞳が、スラムの光景をひとつひとつ静かに映していた。
「ここに座っている者のほとんどが、あいつらの被害者なんです」
男が意味深な言葉を残し、さらに奥へと進んだ。
やがてたどり着いた男の家は、家と呼ぶにはあまりにもひどかった。
壁は剥がれ落ち、窓には板切れが打ち付けられているだけ。
雨漏りの跡が天井から床まで黒く染みている。
床に、子供が二人、力なく座り込んでいた。
頬はこけ、髪は乾いて艶がない。
目だけがぎらりと光って、パンの袋を追っている。
奥からふらつきながら女性が現れた。
痩せ細った体を布切れのような服で覆い、足取りも覚束ない。
それでも子供たちを守るように前に立ち、笑顔を見せようとした。
その笑みは痛々しいほど弱々しい。それでも心の強さを感じさせた。
ガルドは受け取った袋をそっと開け、壁に立てかけてあった木の板を床に置いた。
袋から取り出したパンを、その上に並べていく。
ケイスの方を見て、食べて良いのかという目で見つめていた。
「まずは、食べてください」
「その後で、事情をお聞かせ下さい」
子供たちが飛びついた。
小さな手が必死にパンをつかみ、口へ運ぶ。
涙を浮かべながら頬張る。
母も震える手でパンを掴んだ。
両手で抱きしめるように、ゆっくりと口へ運ぶ。
「ゆっくり食べてください」
ケイスはにっこり笑った。
その笑顔に、男はまた涙をこぼした。
四人がパンを食べ続ける中、レグニアは無言で腕を組んでいた。
その視線は子供たちに向いていた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「……食えない子供を、見るのはさすがに辛い」
ケイスは何も言わなかった。ただ頷いた。
***
やがて食事を終えた男が、重い口を開いた。
「……私の名はガルドと言います。妻はセリア、子供はリオとメイです」
「本日は、ありがとうございました。ケイス様、レグニア様」
「では、事情をお聞きしても……」
ガルドの目に、怒りと悔しさが宿ってくる。
「全ては……あいつらのせいなんです」
「騙され、借金を背負わされ、店も土地も奪われて……」
「逆らった者たちは……ひどい目に遭わされました。だから誰も声を上げられないのです」
ケイスは静かに拳を握りしめた。
レグニアのルビーの瞳が、静かに細くなっていた。
「ガルドさん、もっと詳しく聞かせてもらえますか?」
「あいつら、とは誰なんです」
ガルドは逡巡し、ため息をついた。
「相手が危険な奴らですので、聞かないほうが……」
「私は男爵の子息です。大丈夫です」
ケイスが真剣な目で言うと、レグニアも無言で腕を組んで頷いた。
その佇まいには、子供とは思えない重さがあった。
「……わかりました」
観念したように、ガルドは語り出した。
「一年前、立派な服を着た二人組が店に来ました」
「ラゼル地方薬品審査局の者だと名乗り、新しい制度では、新しい営業許可証が必要だと言うんです」
「まるで、本物の役所の人間のような口ぶりで……」
ケイスが眉をひそめる。
「許可証を持っていなければ営業停止、もしくは逮捕されると脅されました」
「胡散臭いとは思いました」
「ですので、本当に役人かどうかを尋ねました」
「奴らは胸を張って言いました。ロザミール侯爵様の命で動いている、と」
「侯爵の名を出したのですね」
ケイスが確認した。
「そうです」
「差し出された書類には、はっきりと侯爵家の紋章が押されていました」
「迷いました……。ですが、侯爵家の紋章を信じてしまったのです」
「それで、どうなりましたか」
「許可証の発行には高額なお金が必要だと言われたのです」
「すぐに払えないというと、低金利でお金を貸す店を紹介すると……」
「今思えば、どうしてサインしてしまったのか……本当に悔やまれます」
ガルドは拳を握りしめた。
「しかし、許可証は届きませんでした」
「役所に確認すると、そんな制度はないと怒鳴られました」
「侯爵様の名も出しました。しかし、口にしたとたんに殴られました」
「詐欺に気づいた時には、もう遅すぎたのです」
レグニアの表情が険しくなった。
「数日後、金融相談所というところから法外な請求書が届きました」
「もちろん、抗議に行きました」
「しかし、家族に危害を加えると脅され、黙るしかありませんでした」
ガルドの目に浮かんでいたのは、悔しさと怒り、そして長い間押し込めてきた無力感だった。
***
ガルドの話を聞き終えたとき、パンを入れた大きな袋の中に、小さな袋が入っているのをリオとメイが見つけた。
「お父さん、これなに?」
小袋から取り出したのは、炒めた肉のいい香りのするパンが二個と、一枚のカードだった。
パン屋の名前と、こんな言葉が書いてある。
「この新作のパンを食べていただいて、美味しければ、このカードにサインをお願いします。カードをお持ちいただければ、新作パンを十個プレゼントいたします」
ケイスはそのカードを見て、思わず笑った。
("幸運の坊っちゃんカード"を宣伝に使うのだな。さすがだ、あのパン屋)
ケイスはカードにサインをして、小さなメモを添えた。
「リオとメイにカードを届けさせると、メモに書いておいた。このカードをパン屋に持って行けば、このいい香りのするパンが十個もらえるはずだ」
リオとメイの目が輝いた。
「そのパンを、スラムの子供に分けてあげたいです」
二人はカードとメモを大事そうに両手で持ち、勢いよく走り出した。
ガルドとセリアが、その後ろ姿を見つめていた。
ガルドの目に、涙が光った。
ガルドが静かに言った。
「あの子たちが『スラムの子供に分けてあげたい』と言ってくれたのが……うれしくて」
レグニアは無言だった。
だが、その目が、どこか柔らかかった。




