第83話 王都の民は、一人も命を落とさなかった
フォルトゥーナ宮殿を囲む美しき湖に、異変が起きた。
昨日まで澄んでいた水面に、無数の魚が浮かんでいた。
湖畔の森でも、小動物が次々と息絶えていた。
この湖の水は、王都へ上水として引き込まれていた。
飲用の際には必ず沸かすよう定めていたが、それでも安全とは言えない。
俺はすぐに王都全体へ「水を使うな」との通達を出した。
しかし通達が届く前に水を口にした者もいた。
体調を崩した住民たちが、次々と教会へ運び込まれてきていた。
***
教会では、ノエリアが治療にあたっていた。
「ヒール」
聖なる光が次々と患者の身体を包み、苦しげだった呼吸が少しずつ落ち着いていく。
だが――数が多すぎた。
ノエリアの顔色は蒼白で、呼吸も荒く、汗が滴り落ちている。
それでも彼女は手を止めることなく、必死に癒しを続けていた。
俺はすぐに指示を飛ばした。
「エリュシアはルーナとナディアを連れて森を調べてくれ。レオナは騎士団を率いて湖を調査だ。魚や獣が一斉に死んだ以上、自然の毒か人為的なものか……原因を突き止めてくれ」
レオナが短く頷いた。
エリュシアも無言で駆け出した。
レグニアには、湖の異変の背後に人為的な関与がないか探るよう頼んだ。
さらに薬工房のガルドへ伝令鳩を飛ばし、解毒作用のあるポーションを大量に製造し、王都へ運ばせるよう指示した。
「父上、グレン。王都の巡視をお願いします。民の不安が暴動に変わらないように」
「任せろ」
父は短く言い、馬を走らせた。
グレンも深く頷き、騎士たちを率いて続いた。
***
残った俺は考え込んだ。
人為的なものだとすれば、誰が何のためにアーサー王国を狙ったのか。
しかし、神殿があった場所に自然と毒が湧き出すとは考えにくい。
調査の結果を待つ必要があるが、王都が混乱して得をする者は誰だろう。
教会のヴェリル様に反対する勢力か。
それともソレイユ王国を乗っ取ったエクリプス教団か。
エクリプス教団が動くなら、まず国境を接するグレイス王国を狙うはずだ。
アーサー王国を標的にする理由が薄い。
やはり信仰の対象がヴェリル様に代わることに反対する教会勢力か。
あるいは、聖女ノエリアの存在が邪魔な者か。
あるいは両方か。
いずれにせよ、教会に関係する可能性が高い。
やはりここは、元大教皇アウグストに話を聞くしかない。
***
俺は護衛の兵を連れて教会に向かった。
ノエリアが今にも倒れそうな姿で患者に光を注ぎ続けていた。
「ノエリア、これを飲んでくれ。少し楽になるはずだ」
俺はガルドに作らせていた試作品――疲労回復ポーションを数本差し出した。
「……ありがとうございます……これを飲んで頑張ります」
「だが、無理はしないでくれ」
ノエリアは一気に一本飲み干した。
わずかに血色が戻るのを見て、俺は息をついた。
教会の一角では、アウグストが教会関係者を指揮しながら、患者の対応に動き回っていた。
俺は彼を呼び寄せ、低く問いかけた。
「今回のことが、湖に自然発生した毒でないならば、誰かが仕組んだことになる。可能性があるのは――ノルド王国、エクリプス教団、そして……教会関係者。あなたはどう見ますか」
アウグストは苦渋の表情を浮かべ、やがて唇を噛み締めた。
「……言いにくいことですが、教会関係者の可能性が一番高いと存じます」
「その理由とは?」
「教会本部には、もう一人の聖女――クラリス様という方がおられます。彼女は大教皇の娘であり、これまで"唯一の聖女"と讃えられてきたのです。ですが……」
アウグストはノエリアを一瞥し、深く息を吐いた。
「この王都にヴェリル様が現れた話、そこに聖女ノエリア様がいたこと。ヴェリル様がノエリア様を選んだのだと考え、嫉妬されたのかもしれません」
「……そんなことで、王都の民を巻き込んだというのか。死人が出たかもしれないのに」
怒りを抑えるのに、少し時間がかかった。
「もちろん……まだ推測にすぎませんが……大問題があります。このフォルトゥーナ宮殿はヴェリル様の神殿であった建物。神殿は湖の中にある。おわかりですね……」
「湖は言わば、神殿を守るもの。その湖に毒を流し込めば、ヴェリル様が激怒される……ということですね」
「そうです。その矛先が聖女クラリスだけで……済めばいいのですが……」
重苦しい沈黙が落ちた。俺の背筋に冷たいものが走った。
「……もし聖女クラリスが関わっているなら、ヴェリル様にも民にも、きちんと謝罪させなければならない」
俺は続けた。
「現在、森と湖を調査させています。いったん宮殿に戻り、報告を待つつもりです」
「私もその報告を一緒に聞いてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。その方がいいでしょう」
***
夕方、調査に出ていたレオナ、エリュシア、そしてレグニアが戻ってきた。
さっそく俺は私的な応接間に三人を招き、報告を受けた。
エリュシアとレオナは揃って告げた。
「森にも湖にも、毒が自然に湧き出しているような場所はありませんでした」
レグニアは無造作に言った。
「捕まえてきたぞ。怪しいやつを」
合図とともに騎士二人が入ってきて、縄で縛られた男を前に突き出した。
アウグストが犯人の顔を見て驚いた。
「おまえは……なぜだ。どうしてここにいる」
だが男は黙したまま、視線を落とす。
俺は静かに問いかけた。
「しゃべらぬつもりか」
(口を割るつもりはない、という顔だ)
しかたない。久しぶりに、スキルを使うか。
『不運70%』
瞬間、男は苦悶の表情を浮かべ、逃げようと体をよじらせながらも言葉を漏らした。
「……聖女クラリス様に頼まれて……湖に毒を……。残りは……森の洞窟に……隠してある……」
「グレン、配下を率いて毒を回収せよ」
「は、すぐに向かいます」
(なぜ自分が喋っているのか、本人が一番驚いている顔だ)
さらに問い詰める。
「大教皇は、このことを知っているのか」
「……知らない……。だが……私の娘が人質に……従うしか……娘が……しゃべって……しまった……娘が……」
その叫びは、絶望そのものだった。
男は力なく崩れ落ち、嗚咽を漏らしながら涙を流し始めた。
そのとき、俺の頭に力強い声が響いた。
『ケイス、その者の娘は無事だ。聖女クラリスからは力を剥奪しておいた。その聖女をどうするかは、元大教皇に決めさせよ。そして湖は、私が浄化しておいたぞ』
『ありがとうございます、ヴェリル様』
俺は深く頭を垂れた。
ヴェリルの声は静かに消えた。
***
「アウグスト殿。ヴェリル様からのお言葉をいただきました。『その男の娘は無事だ。聖女クラリスからは聖女の力を剥奪した。そして湖は浄化した。ただし――聖女クラリスをどう裁くかは、あなたに託す』と」
アウグストは、しばらく動かなかった。
「……神が、私に」
彼は胸に手を当て、震える声で誓った。
「必ず教会本部に戻り、正しき裁きを下します。二度と神の御名を辱めることのないよう、命を賭して、誓います」
その言葉に、迷いはなかった。
こうして、湖は再び清らかさを取り戻し、王都の混乱は静まった。
ノエリアはその身を削りながら、人々の命を救い続けた。
王都の民は、一人も命を落とさなかった。
***
アウグストは教会本部に戻り、厳しい裁きを下した。
聖女クラリスはすべての権限を失い、牢に繋がれることとなった。その父である大教皇もまた、辞任に追い込まれた。
「神であるヴェリルが、聖女クラリスに直接手を下した」――その事実は、教会に激震を走らせた。
これまで神の奇跡は、聖女や聖職者の言葉を通してしか感じられないものだった。
しかしヴェリルが即座に動き、直接裁きを下したことで、教徒たちは畏怖と共に、真に新しい時代が始まったことを肌で感じた。
***
後の調査で、一つの事実が明らかになった。
クラリスが使った毒は、ただの毒ではなかった。
ルクシオン王国の旧国王ゼルヴィウスが、グレイス王国に疫病を広めるためにザハルという人物に作らせた毒薬だった。
しかしゼルヴィウスが失脚したことで、作った毒の使い場所がなくなった。
ザハルにとって、それは二重の痛手だった。
研究の全てを注ぎ込んで作り上げた毒薬が、日の目を見ぬまま眠ることになる。
さらに最大の支援者を失ったことで、研究を続けるための金も途絶えた。
このまま朽ちるくらいなら、せめて誰かに使わせたい。
そして金も手に入れたい。
ザハルは密かに買い手を探し始めた。
その話を聞きつけたのが、クラリスだった。
目的のためならば手段を選ばぬクラリスは、多額の金を積んでザハルから毒を購入した。
二人の欲望が、王都の民を巻き込んだのだった。
***
やがてアウグストはアーサー王国の王都に戻り、再び一介の神父として民に奉仕する日々に戻った。
かつての大教皇としての権威はもうない。
しかし民衆の間では、「地位を捨てても信仰を貫いた神父」として、聖人にも似た尊敬と親しみを集めていた。
毒薬事件で身を削りながら人々を救い続けた聖女ノエリアもまた、民の心に深く刻まれていた。
教会の扉を叩く人々はやがて、彼女を「大聖女」と呼ぶようになっていた。




