第77話 妻たちは快眠中
幸運の宮殿を眺めながら、頭の中で課題が次々と並んでいく。
人材、法律、経済、外交。どれ一つとっても、簡単に答えの出るものはない。
失敗すれば、民を不幸にする。
それだけは、絶対に避けなければならない。
責任の重圧はあるものの、不思議と心は高揚している。
(転生前の世界の知恵が、少しでも役に立てるなら……やってみるしかない)
夕日が湖面に映え、真っ白な宮殿を黄金色に染めていた。
のんびり暮らしたかっただけなのに、気づけばここまで来てしまった。
――悪くない。
***
――唐突に響いた声に、俺は思わず固まった。
(今の……神様だよね)
頭の奥に、確かに声が直接届いている。
鼓膜ではなく、心に染み込んでくるような不思議な響き。
『ケイス、聞こえるかな』
俺は思わず周囲を見回した。
ノエリアもレオナもエリュシアも、不思議そうに俺を見ているが、彼女たちには聞こえていないらしい。
『神様です。名前を言っていなかったね。私はヴェリル。新米の神様だよ』
『……ヴェリル様。どういった御用でしょうか』
『伝えておくことがある。まずその宮殿……ほんとは神殿なんだけどね。ここ、私がまだ神様見習いだったときに住んでいた場所なんだよ』
『えっ……失礼しました。そんな場所を宮殿にしようとしまして……』
『気にしなくていい。今はもう空き家だからね。それと、時間は止めてあるから、ゆっくり話そう』
『はい』
『女神像があるだろ。あれを回転させちゃダメだよ。湖に沈むから。触らないように』
(……そんな仕掛けがあったのか。うっかり回したら大惨事だった)
『それとね、ケイス。少し聞いてほしいんだけど』
声のトーンが、少し変わった気がした。
『ルクシオン王国の王位継承、フェルデリア領の再建、偽ポーションの一件……本当によくやってくれた。私が思い描いていた以上だよ。正直、驚いている』
『……いただいたスキルが、大いに役立ちましたから』
『そうじゃないよ。与えられたスキルをどう使うかが大事なのだ』
俺は言葉を返せなかった。
『民の顔が、どんどん明るくなっている。それが何よりうれしい。ありがとな。これからも頼むよ』
『……はい。励みます』
『いつも見ているから、心配せず思ったことをやってごらん。この神殿には他にも仕掛けがあるから、少しずつ見つけてごらん。じゃあね』
声はふっと消えた。
***
「ケイス様、急に黙り込まれて……どうされました」
ノエリアが心配そうに首をかしげている。
「ああ……神様から伝言があってね。この建物は神様が、"見習い"のときに住んでいらした神殿ということだ。でも、住んでいいと言っていただいた」
「……神様と、直接お話を」
「それと、女神像を回すと湖に沈むから注意してと」
その場の空気が一瞬で張り詰めた。
「ケイス様は……神様と直接お話できるのですか」
ノエリアの声が震える。
「たまたま、声が届いたようで……」
ノエリアが胸の前で手を組み、瞳を潤ませた。
言葉が出てこないようだった。
「ケイス様は……やはり神の使徒様だったのですね」
「待ってください。本当にたまたまで……偶然、声が届いただけで……」
「いえ、偶然、神様が声をかけることなどあり得ません」
レオナが真剣な顔で言い放った。
「本当に、偶然が重なって……上手くいっているだけで……」
「ケイス様、そう謙遜なさらなくても……」
エリュシアまで柔らかく微笑む始末。
(……完全に"神の使徒"扱いになっている。もう少し気楽な存在でいられれば、と思うのだが)
「……と、とにかく。中を見に行こう」
俺は半ば逃げるように歩き出した。
***
宮殿の内部を歩きながら、俺はじわじわと落ち着かなくなってきた。
大広間には女神像。奥には祭壇らしき台座。
天井には古い神聖文字らしき模様が刻まれている。
どこを見ても、「神殿」としか思えない造りだ。
(……本当にここで寝ていいのか)
寝室らしき部屋に入ると、石造りとは思えないほど柔らかそうな寝台が置かれていた。
清潔で、埃一つない。
ヴェリル様が「掃除は不要」と言っていた理由が、なんとなくわかった気がする。
(快適なのはありがたいが……神様の寝台で寝るというのは……罰が当たらないだろうか)
「ケイス様、この部屋、とても清らかな気配がしますね」
ノエリアが穏やかに微笑んだ。
(……聖女に言われると、余計に眠れる気がしない)
***
その夜、宮殿に灯された光は湖面に映り込み、まるで天空に浮かぶ幻の城のように見えた。
騎士団も息を呑んで見上げ、王女たちも無言でその輝きに見入っていた。
俺は胸の奥でつぶやいた。
(……神様の神殿で寝るというのは、やはり落ち着かない。きっと妻たちも眠れないだろうな)
寝台に横になってみたが、目が冴えて仕方がない。
天井に刻まれた神聖文字が、薄明かりの中でぼんやりと浮かんで見える。
(ヴェリル様は、今も見ていらっしゃるのだろうか。そう思うと、余計に落ち着かない)
寝返りを打った。
別の部屋で寝ている妻たちも、きっと寝れないだろうな。
実は……妻たちは快眠中であった。




