第71話 人も街も、死にかけていた
二日後――
俺たちは、アーネスト叔父上に用意してもらった商人の装いを身につけ、行商人として、目的地フェルナードの街へ向けて出発することになった。
粗末な旅装束にマント、荷台にはいくつかの木箱を積んでいる。
中身はただの石ころと藁だが、外から見れば立派な交易品に見えるだろう。
屋敷の前ではアーネスト一家が勢揃いして見送ってくれた。
真剣な顔で叔父上が告げる。
「子爵、くれぐれもお気を付けください。二週間してもお戻りにならない場合には、兵を率いてフェルナードの街に押しかけます。馬車の御者には一番の力持ちを選んでいます。何でもお申し付けください」
「心配は無用です。護衛のレグニアは一騎当千の手練れ、エルフのルーナとナディアは弓の名手ですから」
俺が答えると、横でロイエルが羨ましげに呟いた。
「……あんな美女たちに囲まれて旅をするなんて……」
その瞬間、マリエルの扇子が音もなくロイエルの後頭部に落ちた。
「……痛っ」
ロイエルが頭を押さえながら情けない声を上げる。
セリナは口を押さえながら、それでも肩が小刻みに揺れていた。
「羨ましいなら、あなたも手柄を立てなさい。ケイス様をお支えするのがあなたの役目でしょう」
扇子を畳みながら、涼しい顔で言った。
(ロイエルくん……気を使う場面が多いとだけ、伝えておきたい)
俺は心の中でそう思いながら、馬車に乗り込んだ。
***
フェルナード領に入って数時間が経った――
街道を進むと、次第に景色が荒れていくのがわかる。
耕されることなく、雑草が伸び放題の畑が続いていた。
畑で作業する農民の姿などは、ほとんど見かけない。
たまに人影を見かけても、痩せこけ、今にも倒れそうな顔色をして座り込んでいる。
ある村に差しかかったときのことだった。
数人の男たちが、物陰から俺たちの荷馬車をじっと睨んでいた。
手には鍬や棍棒を握ってはいるが、力なく震えるばかりだ。
「……止めておけ」
レグニアが低く言った。それだけで十分だった。
ルーナとナディアが無言で弓を構えた。
だが男たちは数歩近づいたところで膝をつき、そのまま地面に座り込んでしまった。
「……もう、力が出ねぇ……」
「食い物……少しだけでいいんだ……頼む……この通り……」
まるで幽鬼のような声だった。
レオナが、固く拳を握った。
「……許せません。ここまで民を飢えさせて、領主はいったい何をしているのですか」
声は静かだったが、その奥に抑えきれない怒りがあった。
拳を震わせるレオナの背中を、ノエリアが静かに押さえる。
「……今は急ぎましょう。フェルナードで何が起きているのかを突き止めるのが先です」
俺は荷台から携行食をいくつか取り出し、男たちの前に置いた。
「今は急ぐ。だが、これを食べてくれ」
男たちが震える手でそれを掴むのを見て、俺は馬車に戻った。
(……やはり、ただ事ではない)
俺たちは馬車を走らせ続けた。
***
やがてフェルナードの街が視界に入る。
しかし、かつて交易の要所と聞いていたその街は、荒廃しきった姿をさらしていた。
街門は半ば壊れ、見張りの兵士はぼんやりと突っ立っているだけ。
風が吹いても倒れそうだ。
俺たちが通過しても動かない。
空腹で動けないのかもしれない。
中へ入ると、活気など一片もない街並みが広がっていた。
道の両脇には壊れて放置されたままの屋台。
倒れた桶が転がっている。
窓に板を打ち付けたまま閉ざされた、空き家らしき家が並んでいる。
たまに人影はあるが、皆痩せこけて骨と皮ばかり。
衣服はぼろぼろで、まるでスラムのような有様だ。
いや、それ以下だ。ひとも街も死にかけていた。
「……酷い」
ノエリアが顔を覆った。
「廃墟寸前ね」
エリュシアも眉をひそめ、それ以上言葉が出なかった。
だが、一箇所だけひとだかりができている場所があった。
街の中央にある一軒の薬屋だった。
「……あれだ」
俺は静かに言った。
薬屋の軒先では、痩せた男が小瓶を手に、列を作った人々に配っていた。
「今日はこれで終いだ。飲んだら一時間はここで休め。動けるようになったら、また明日来い」
列には母親に抱かれた幼子まで混じっている。
「街のひとたちはポーションが欲しいんじゃない。腹が減って、何でもいいから口に入れたいだけだ。甘い味でもつけて、飢えをごまかさせているんだろう」
レオナが、固く目を閉じた。
誰も、何も言わなかった。それで十分だった。
「レグニア、気配を消してあの薬屋に忍び込めるか」
「行ってくる」
「私も行きます」
レオナが静かに言った。有無を言わせない顔だった。
レグニアはしばらくレオナを見て、短く頷いた。
「……一人なら構わない」
***
薬屋の中――
レグニアとレオナは、気配を消したまま店の奥の物陰に身を潜めていた。
「親方……本当に、こんなことを続けていて大丈夫なんですか?」
店の奥で、若い弟子が不安げに声を潜めた。
親方と呼ばれた男は、深い皺を刻んだ顔をしかめ、苦々しげに吐き出す。
「仕方ねぇだろう。王都で売っていたポーションで中毒者が出ちまったんだから……。領主様から"別のものを作れ"って命令が下ったんだ」
男は机を拳で叩いた。
「……しかも、"その辺の匂いの良い雑草で、安く適当にポーションを作れ"だとよ。効き目なんかあるはずない。中毒が出るかどうかだって、この街の者に飲ませて確かめるしかない」
弟子は青ざめ、声を震わせた。
「で、でも……今渡しているものは……」
「雑草をすり潰して煮たものさ。火を入れないと腐るからな。それに砂糖をほんの少しだけ加えている」
親方は唇をゆがめ、肩を落とした。
「最初から無理な命令なんだ。砂糖を加えたのは……それだけが俺にできることだった。領主様の命令に逆らえるはずもないだろう」
弟子は唇を噛みしめ、声を絞り出す。
「……もしひとが倒れたら、どうするんですか」
親方の目が細く光った。
「……仕方ねぇだろ。お前は、牢屋に放り込まれたいのか?」
「そ、そんなことは……」
「なら黙ってやれ」
親方は低く言い放った。
それ以上の声を出す気力も、もうないのかもしれなかった。
「お前の役目は、せめて安全そうな雑草を集めてくることだ。それがせめてもの、お前なりの良心ってもんだろう」
弟子は首を振る。
「でも……どれが安全かなんて、わかりませんよ……」
親方は力なく笑った。
「今日飲んだ奴らが平気なら、その雑草は安全ってことだ。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉が、店の奥に静かに落ちた。
誰も、何も言えなかった。
***
レグニアとレオナが戻ってきた。
レオナが静かに、薬屋の中で聞いたことを話した。
言葉が進むたびに、その場の空気が重くなっていく。
レグニアは何も言わなかった。ただ、静かに前を向いていた。
その横顔が、すべてを語っていた。
話し終えたとき、誰も口を開かなかった。
しばらくして、俺は静かに言った。
「……この街を、このままにはしておけない」




