67話 その目に浮かんでいたのは、殺意ではなかった
翌朝――
湖畔を後にした馬車が、再び街道を走っていた。
目標は、代官を務めるアーネスト叔父上の屋敷だ。
まだかなり距離があるが、道は整っており移動は順調だった。
しばらく走ったころ、御者台から声がした。
「……ケイス様、前方に人影があります」
街道の先に、母親らしき女と幼い子供がしゃがみ込んでいる。
馬車を近づけると、聖女ノエリアがすぐに下り、駆け寄った。
「どうしましたか?」
「子供の具合が悪くて……歩けなくなったのです」
母親の声は震えていた。子供はぐったりと母の胸に抱かれ、苦しそうに息をしている。
俺たちも馬車を降り、騎士団が自然と周囲を固めた。
「私はヒールが使えます。診ましょうか」
ノエリアは迷わず膝をついた。
だが、その瞬間。
「……気配が妙だ」
レグニアが目を細める。
レオナも剣の柄に手を掛け、騎士団は即座に防御陣形を取った。
「ノエリア、下がれ」
レグニアの声は低く、しかし有無を言わせなかった。
「でもこの子を……」
「敵に囲まれているぞ」
母親に見えた女が、突如ノエリアの腕を掴もうとした。
間髪入れず、レグニアがその手を払う。
親子はすっと表情を消し、街道を駆けていった。
その親子が駆けていく向こうから――。
わらわらと人影が現れる。
レオナが静かに剣を抜いた。
「……ずいぶんと、大勢ね」
棍棒や鍬を手にしているが、剣や弓を持つ者はいない。訓練された盗賊というより、飢えた農民の群れのようだった。
その目に浮かんでいたのは、殺意ではなく――切迫した何かだった。
***
レグニアと騎士団が戦闘態勢に入っている。
「待て。レグニア、戦わずに動きを止められるか」
「……できる。だが近づくのは危険だ」
「レグニアが傍にいれば大丈夫だ」
レグニアは短く息をついた。
「……仕方ない」
レグニアは短く頷き、前に出た。
彼女の眼が紅く光る。
――瞬間。
見えない何かが空気を変えた。
盗賊たちの顔から色が消え、膝が折れ、その場に崩れ落ちていく。
声を上げる者すらいなかった。
俺はレグニアと並んで前へ出た。
「事情があるなら……聞かせてほしい。戦うつもりはない」
しばしの沈黙の後、中年の男が一歩進み出た。
「……私はバルノと申します」
しわだらけの顔に、長い年月が刻まれていた。
「ルクシオン王国の重税に耐えきれず、故郷を捨てました。しかし食料が尽き……飢えに苦しむ者が出て……気がつけば、このような真似を」
声が途中で詰まった。
「どうか……私の命で、他の者たちをお救いください」
その言葉に、ノエリアが前へ出る。
「……待ってください」
彼女は老人を見つめ、そしてはっとしたように目を見開いた。
「あなた……その顔は覚えています! 私がまだ幼かった頃、熱病にかかった村人の子供を診たことがありました。そのとき一緒におられた方ですね……?」
老人の顔が、驚きで静止した。
「……ノエリア王女様」
しばらく言葉が出なかった。やがて、深く、深く頭を下げた。
「恩人に……手を出そうとしました」
それだけだった。それで十分だった。
ノエリアは静かに首を振った。
「顔を上げてください。こうして出会ったのも、何かの縁です。困っているのであれば、力になりたいと思います」
「ありがとうございます。本当に、本当に、申し訳ありませんでした」
***
俺は農民たちに向かって声を上げた。
「まず、食事にしましょう。馬車に昨日の魚を燻製にしたものがあります。鍋があれば煮込みにできる。あの平地へ移動しませんか」
「な、なんと……」
バルノはしばらく声が出なかった。
やがて、静かに頭を下げた。
「……我らは、あなた様方を襲おうとしました。それでも」
言葉が続かなかった。
周囲の腹を減らした農民たちも次々に頭を垂れる。
子供も混じっている。
「細かいことはいい。まず食べよう。馬車についてきてくれ」
***
すぐに平地へ移動し、炊事の準備が始まった。
「エリュシアはルーナとナディアと騎士を五人連れて、食べられる野草を集めてきてくれ。香草があれば尚良い」
「任せて!」
エリュシアたちは森に駆け出し、すぐに香草や食べられる根菜を、山ほど両手に抱えて戻ってきた。
「レグニア、肉を頼めるか」
「……わかっている」
それだけ言うと、レグニアは山側へ向かった。
ほどなくして戻って来て、無造作にイノシシのような大きな魔獣を地面に下ろした。それだけで、言葉は要らなかった。
レオナは剣を抜き、魔獣の肉を見事に解体していく。
(……あの剣、名のある剣のはずだが。解体に使って問題ないのだろうか)
ノエリアは集まった子供たちにヒールを施し、病やケガを癒していった。
祈りの光が子供たちをやわらかく包むと、母親たちの目から涙が落ちた。
***
俺は大鍋に水を張り、燻製の魚と根菜を放り込んだ。
あとは火が仕事をしてくれるはずだ。
焼き台には味付けした魔獣の肉を並べた。
美味しそうな香りが辺りに漂った。
「おお……!」
農民たちは目を輝かせ、感謝の祈りを捧げたあと食事を始める。
(……祈りの向け先が、俺になっている。そういうのは、やめてほしい)
「うまい……こんな美味しい食べ物……何年ぶりだ……!」
「久しぶりに……お腹いっぱい……子供に食べさせてやれた……!」
人々の目に涙が浮かぶ。
その光景を見ながら、俺は思った。
(苦しんでいるひとが、まだたくさんいる。神様との約束を、少しずつ果たしていくしかないな)
レオナがそっと隣に並んだ。
「誰一人傷つかなかった。……あなたのおかげね」
静かな声だったが、その重みは十分に伝わった。
エリュシアは何も言わず、小さく頷いた。
ノエリアは子供を抱き上げ、やわらかな微笑みを浮かべた。
レグニアは少し離れた場所で肉を食べながら、静かに人々を見ていた。
その表情は、いつもと少し違った。




