第65話 その炎は、静かに燃えていた
「レオンハルト国王。我々はグレイス王国に戻ります」
「アーサー子爵、本当にお世話になりました。この恩は、決して忘れません」
大広間での一連の騒動が収まり、新王即位を果たしたレオンハルトと共に、マルケス卿、ドルナン卿、ヴァルディ卿、そして騎士団長ジルヴァまでもが深々と頭を下げた。
「ドキドキはしましたが、偶然うまくいったようです。運が少し良かったみたいです」
俺は照れ笑いを浮かべた。
すると、マルケス卿が静かに首を振った。
「偶然ではありません。まさに“幸運の領主”がなせる業。アーサー子爵は、本当に人間なのですか? 神の使徒ではありませんか?」
「人間に決まっているじゃないですか。こんな……ぽっちゃりした使徒が、いるわけがないでしょう!」
思わず皆がくすりと笑う。
俺は隣に立つノエリアへと目を向けた。
「ところで、ノエリアはどうする? ルクシオン王国内部の権力争いで、命を狙われることはなくなったと思うよ。新しい体制が固まって国が落ち着くまでは、故郷のグレイス王国で、のんびりするのもアリだと思うけど……」
ノエリアはすぐに答えた。
「私はケイス様を、お傍でお支えします」
ノエリアは迷いなく言い切った。
「この国が受けた御恩を、少しでもお返ししたいのです。『国が救われました。ではさようなら』などと……言えるはずがないじゃないですか」
「そうか……。じゃあ一緒に戻ろう。でも、ルクシオン王国が懐かしくなったら、いつでも帰れるからね。レグニアに頼めば一瞬だからね」
「……はい」
「レグニア、戻ろうか」
レグニアが静かに手を差し伸べた。
俺とノエリアがその手に触れた瞬間、光が広間を包んだ。
ルクシオン王国が、遠くなった。
***
「ここは……」
懐かしい応接室の香り。
アーサー侯爵邸に戻ってきたのだ。
メイドと執事が連絡に走り始めた。
エリュシアが真っ先に駆け寄ってきた。その後ろから、レオナが少し早足で歩いてくる。駆け寄ることはしなかったが、その目が「心配していた」と言っていた。
「ケイス、無事でよかった。……本当に、よかった」
エリュシアが俺の手を両手で包んだ。
いつもの明るさが、今日は少し違う色をしていた。
「心配させましたね。でも、ちゃんと帰ってきましたよ」
レオナはエリュシアの隣に並び、俺をまっすぐに見た。
「……ケイス。次に行くときは、必ず私も連れていきなさい」
「レオナ様、それは……」
「……必ず、よ」
言葉は静かだったが、その奥に有無を言わせない強さがあった。
俺が返事を探していると、後ろからくぐもった声が割り込んできた。
「お待ちください、王女殿下……!」
グレンが一歩前に出た。
その顔は、これまで見たことがないほど必死だった。
「先日は止める間もなく他国へ行かれてしまいました……騎士団長として、あってはならないことでございます」
「グレン。その話は戻ってから何度も聞きました」
「何度でも申し上げます。そして断固としてお止めいたします……!」
レオナが静かにグレンを見た。
「……わかったわ」
グレンのやり取りが落ち着いたころ、家族が静かに歩み寄ってきた。
(……みんな、本当に心配してくれていたんだな)
父の目が「無事か」と問いかけていた。俺は小さく頷いてから、口を開いた。
「ただいま戻りました。レオンハルト殿下が王位を継がれました。細かい話は後ほど……とにかく、うまくいきました」
俺の言葉に、部屋の中に静かな安堵が広がった。
ノエリアは一歩前に出て、集まった皆に深々と頭を下げた。
「本当に……ケイス様のおかげです。ルクシオン王国を代表し、心より感謝させていただきます」
「今日はお祝いにしましょう」
母リリアが微笑み、すぐに声を張った。
「ミーナ! 張り切ってお食事を用意しましょう」
「はい、奥様!」
ミーナがぱたぱたと走り去る。
父も厳しい表情を崩し、俺の肩を叩いた。
「よくやったな、ケイス。……だがな、いつでも幸運が味方すると思うなよ。あんまり無茶はしないでくれ」
「わかってます。……心配をかけました」
***
その日の夜――
屋敷の大広間は祝宴の場へと変わっていた。
長いテーブルに並ぶのは、ミーナと料理人たちが総力を挙げて作った料理の数々だ。
香ばしいローストチキンに、ハーブを散らしたスープ、焼きたてのパン、山盛りのチーズと果物。
豪快に盛られた肉の皿から漂う香りが、鼻をくすぐる。
「すごい……」
思わず目を輝かせると、ミーナが胸を張った。
「ケイス様の好みに合わせて、精一杯作りました!」
「本当に……ありがとう、ミーナ。頑張ってくれたんだね」
ミーナが照れくさそうに鼻を鳴らした。
「当然です」
杯が交わされ、広間には笑い声が満ちていた。
宴が少し落ち着いたころ、ノエリアが静かに口を開いた。
「ケイス様、改めて……レオンハルト兄様のこと、ルクシオン王国のこと、本当にありがとうございました。こうして無事に戻れたのは、すべてケイス様のおかげです」
「いや、皆のおかげだ。俺一人じゃ、何もできなかったし、少し運が良かっただけだよ」
真剣な瞳で見つめてくるノエリアに、うまい返し言葉が見つからなかった。
思わず視線を逸らした。
その様子を、少し離れた席から見ていたレオナとエリュシア。
レオナは杯を傾けながら、ぽつりと呟いた。
「ノエリアが……無事に戻ってきて、本当に良かった」
「ノエリア、無事で本当によかった」
エリュシアは静かに微笑んだ。しかし手にした杯が、わずかに揺れていた。
その杯がわずかに揺れるのを、レオナは見逃さなかった。
「……喜ばしいことは、わかっているのだけれど」
「……そうね」
レオナが小さくため息をついた。
エリュシアも、少し遅れて同じため息をついた。
目が合うと、二人は苦く笑った。
ケイスと並んで笑い合うノエリアの姿。
それは友として祝福すべきもの。
それでも、目が離せなかった。
***
宴は続いた。
歌と笑い、そして杯の音。
ロイはご機嫌に何度も乾杯を繰り返し、リリアは料理の皿を取り分けては皆に勧める。
ミーナは厨房と大広間を駆け回り、汗を光らせながら笑顔を絶やさなかった。
レグニアはといえば、山盛りの肉を前に嬉しそうに目を細め、豪快に食べる。
「……悪くない」
口数は少ないが、その顔が雄弁だった。
周りでは、うれしそうに笑う声が響き渡った。
その輪の中で、俺は思った。
(本当に無事に帰れて良かった)
ノエリアの視線を感じる。
レオナとエリュシアの微妙な表情も、見逃せない。
「ケイス様!」
ノエリアが静かに俺の方へ向き直った。
「ケイス様……これからも、お傍に」
言葉はそこで止まった。続きは、言葉にしなくても伝わった。
レオナとエリュシアは顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
(……負けないわよ)
レオナは静かに杯を傾けた。
(私だって)
エリュシアも、何も言わずに頷いた。
祝宴のざわめきの中、その小さな炎だけが、静かに燃え続けていた。




