第57話 聖女の復活と誘惑の密命
侯爵邸での夜――。
ルクシオン王国を離れたことで、ノエリアは久しぶりに安らかな気持ちで寝台に身を横たえた。柔らかな闇に包まれながら、ゆっくりと目を閉じる。
しかし意識はふいに、深いところへと引き込まれていった。
夢の中――。
霧のような白光が広がり、見慣れた影が現れた。長い間、ノエリアをひそかに守り続けてきた守護精霊だった。
『ノエリア。聖女の力を返す時が来たわよ』
『精霊様……聖女に戻れば、また命を狙われるのではないですか』
『心配はいらないわ。ケイスとレグニアがそなたを守ります。彼がいれば、聖女に戻っても危険はありません』
ケイスの顔が、ふと脳裏に浮かんだ。ぽっちゃりとした、あの笑顔。不思議と、温かさを感じさせる人だった。
『ケイスは神から使命を与えられた人間です。容姿も、神によってそなたと同じようにぽっちゃりにされているの』
『容姿を……神が?』
『外見に惹かれた女性が集まれば、使命を果たす妨げになるというのが理由らしいわ。少し可哀想ね』
精霊は小さくため息をついた。
『けれど、容姿など気にせず彼を慕う王女がすでに二人いるの。外見ではなく、彼の本質がひとを引き寄せているのよ』
『レオナ王女と、エリュシア王女ですね』
『そう。エリュシアの母・ティルフィア女王はケイスの真の姿が見えるようだけど、娘には見えない。それでも惹かれているというのは、やはり彼の中身がそうさせているということよ』
精霊の声が、少しだけ低くなった。
『他言無用だけれど、もう一つ教えておくわ。レグニアは黒竜よ。今はひとの姿をしているけれど、国一つを滅ぼせるほどの存在が、神に頼まれてケイスの護衛をしているの』
『……黒竜が、護衛を』
ノエリアは息を呑んだ。
『それほどの存在に守られ、神から使命を与えられた人間が、見た目はぽっちゃりで、ごく普通に侯爵邸で暮らしている。おかしいでしょう?』
精霊が、どこか楽しそうに続けた。
『教会へ行きなさい。祈りを捧げれば、容姿も力も戻るはずよ。そして、ケイスの歩みをそっと支えてあげてはいかがかしら。聖女よ』
『はい……喜んで』
ノエリアが静かに頷いた瞬間、夢は白光の中に静かに溶けて消えた。
***
翌朝――。
守護精霊から「教会へ行きなさい」というお告げがあったとノエリアが話すと、皆で一緒に行こうということになった。
俺とレグニア、ノエリア王女とレオナ王女、エリュシア王女、それぞれの護衛は馬車に乗り込む。グレンと部下二名は馬車の脇を歩いた。
教会の建物が見えて来ると、馬車の窓からノエリアが顔を出した。
「あの……少し街を歩いてみてもいいですか。せっかくですから、この目で見ておきたくて」
馬車が止まり、レオナとエリュシアも顔を見合わせた。
「私も歩くわ」とレオナ。
「私も!」とエリュシア。
こうして全員が徒歩になった。
ぽっちゃりな二人を先頭に、王女二人と騎士たち、エルフの護衛がぞろぞろと続く。
街道を進むにつれ、街のひとたちが足を止めてこちらを見始めた。
「あれ、ケイス様じゃないか」
「幸運の領主様だ」
「後ろの馬車は……?」
ひそひそ声が広がる。
気づけば、子供たちまでくっついていた。
(なんだか、変な行列になってるな)
俺が苦笑すると、レグニアが静かに呟いた。
「幸運の領主の周りには、自然とひとが集まるものだ」
***
やがて教会に到着した。
人々が建物の前に続々と集まってきている。
幸運の領主が何を始めるのかと、期待に満ちた視線がこちらに向いていた。
教会の扉を開けると、年配の司祭が出迎えた。
「これは……アーサー子爵様、ご来訪とは光栄にございます。本日はいかなるご用向きでしょうか」
「こちらのノエリア王女が、守護精霊のお告げを受けて参られました。祭壇をお借りしてもよいですか」
司祭は一瞬、ノエリアに視線を向けた。
丸々とした体つきの少女を見て、一瞬だけ戸惑いの色が浮かんだ。
しかしノエリアの澄み切った瞳と、背筋の伸びた立ち姿を見て、すぐに表情を改めた。
「……もちろんでございます。どうぞ、奥へ」
聖堂の中は静かで、窓から差し込む光が祭壇を柔らかく照らしていた。
「お珍しいお客様をお連れになりましたね」
司祭がそっと俺に囁いた。
「あのお方から……何か特別なものを感じます」
「確かに彼女は、特別なひとです」
教会に入ったノエリアは、祭壇の前に進み出て、静かに膝を折った。
「守護精霊の導きにより参りました。どうか私に道をお示しください」
震える声が、聖堂の奥に響き渡る。
次の瞬間、教会の奥深くに眠る神力が応じた。
***
祭壇の神像から、ノエリアに強い光が降り注いだ。
純白の輝きが彼女を包み込み、姿がゆっくりと変わっていく。
失われていた肌の輝きが蘇り、透き通るような白さを取り戻していく。
ぽっちゃりとした体はすっきりとした輪郭を取り戻し、黄金の髪はさらなる光を宿し、青い瞳は神秘的な輝きを放った。
「え……っ」
その場にいた全員が息を呑んだ。
隣に立つ俺も、思わず見惚れていた。
気づいたときには、頬が熱くなっていた。
その様子を目にしたレオナとエリュシアの表情が、ほんのわずかに曇った。
司祭が祭壇の前で膝を折り、震える声で呟いた。
「……これは。神の御業に、まさかこの目で立ち会えるとは」
顔を上げると、その目には涙が光っていた。
「聖女様……この教会に、ようこそいらっしゃいました」
二人の王女の想いが交錯する中、聖堂全体が震えた。
ステンドグラスが七色に光を放ち、壁際の聖人像が浮かび上がる。
祭壇の聖杯からも光柱が立ちのぼり、堂内は昼間の太陽すら凌ぐ輝きに包まれた。
外にいた人々が異変に気づき、次々と教会へ駆け寄る。
「見ろ、教会が光っている!」
「聖女様が降臨されたのかな!」
光は扉を突き抜け、広場に集まった民をも照らした。
跪いた人々が自然に祈りを捧げ、涙を流す者すらいた。
やがて扉が開かれた。外に出てきたノエリアの姿に、説明など不要だった。光の中から現れた彼女を前に、誰もが言葉を失った。
(これが……本来のノエリアか)
俺もしばらく、言葉が出なかった。
「聖女様だ……!」
「聖女様が現れた……!」
歓声と祈りが連鎖のように広がり、王都全体に響き渡っていく。
司祭が静かにノエリアの隣に立ち、民に向かって声を張り上げた。
「皆よ、聞きなさい。この方こそ、守護精霊に導かれし聖女様でございます。神の御加護が、この王都に降りたのです!」
その言葉が広場に響き渡り、民の祈りはさらに大きくなった。
グレイス王国の教会に"聖女"が降臨したという噂は、瞬く間に大陸を駆け抜け、西のルクシオン王国にまで届くこととなった。
***
ルクシオン王国の宮殿――。
報告を受けた国王ゼルヴィウスは、玉座に拳を叩きつけた。
「ノエリアが、グレイス王国で聖女の力を取り戻しただと! 本当なのか!」
「はい。"幸運の領主"ケイスが深く関わっていたと噂されております」
「みすみすグレイス王国に聖女を奪われたことになるではないか! ルクシオン王国の面目はどうなる。何としてもノエリアを取り戻せ!」
広間に重い沈黙が落ちた。
しかし、誰も口を開かなかった。
やがて、廊下から気怠げな足音が近づいてきた。
扉が静かに開き、艶やかな黒髪の女性が姿を現した。
美しく整った顔に、温度のない笑みを浮かべている。
「お呼びでしょうか、お父様」
「呼んでおらん。なぜここにいる」
「廊下で聞こえてしまいましたの。ノエリアのことでしょう?」
悪びれる様子もなく、するりと広間に入ってくる。
廷臣たちが思わず道を開けた。
「盗み聞きとは、感心せんな」
「立ち聞きと申してください。それで……私に、何かご用がおありでしょう?」
王は舌打ちをしながらも、その目に確かな期待を宿して低く命じた。
「口を慎め。お前にしかできぬ任務だ」
王は声を低くした。
「ケイスという男を誘惑し、ルクシオン王国へ連れてこい。報酬は金貨二千枚だ」
王女の瞳が、ゆっくりと輝きを帯びた。
「太っていてモテない男ひとり……造作もないことですわ」
その読みが、いかに的外れかを、彼女は知ることになる。
「ノエリアも共に連れ帰れば、報酬は倍にしてやる」
「……倍、ですか」
彼女はゆっくりと立ち上がり、口角を上げた。
ドレスの裾が床を滑り、その足取りは艶やかで、一歩ごとに不吉な気配を残していく。廷臣たちは声をかけることすらできず、ただその背を見送るだけだった。
「金貨四千枚……。ふふ、悪くないわね」
廊下の闇に、冷たい笑い声が溶けていった。
彼女の名は――イザベル・ルクシオン。第三王女。
美貌と野心と冷酷さを併せ持つこの王女が、やがてケイスの前に現れるとき、また新たな波乱が始まることになる。




