第56話 聖女の秘密と隠された姿
応接間に、重苦しい沈黙が落ちた。
「結婚など、しなくても構いません。ただ……どうか、私を匿っていただけないでしょうか」
ノエリアの言葉が、その場にいる全員の頭の中でゆっくりと反響していた。
「匿う……?」
俺は思わず声を漏らした。
縁談の話を聞いたときとは、また別の重さがある。
父が腕を組み、厳しい眼差しでノエリアをまっすぐ見据えた。
「理由をお聞きしましょう。"匿ってほしい"というのは、他国で気軽に発していい言葉ではありませんぞ。それ相応の事情がおありなのですね」
その静かな迫力に、ノエリアは一瞬だけ肩を震わせた。
しかしすぐに胸の前で両手を組み、視線をまっすぐ向け直す。
「承知しております」
小さく頷くと、彼女はゆっくりと息を整えた。
そして声を落とし、長い間誰にも語らなかったことを、静かに話し始めた。
***
「ルクシオン王国では……ゼルヴィウス王のせいで、民は重税に苦しんでいます。農民が逃げ出し始め、放棄された畑が荒れ始めました」
「我が国のフェルデリア領と同じことが起きているようですな」
父が低く唸った。
「ですが王族たちは、その現実を見ようともしません。民の飢えなどお構いなしに、数年来、熾烈な王位継承争いばかりが続いています。誰が玉座を継ぐか。それしか、興味がないのです」
静かな声だった。
しかしその言葉は一つひとつが重く、胸の奥まで届いてくるような力があった。
レオナが拳をゆっくりと握りしめた。
「国民を顧みず、権力争いばかり……。我が国でも、かつて同じようなことがありました。本当に、愚かなことです」
エリュシアも顔を曇らせ、静かに言った。
「エルフの国と、人間の国は違いますね。国を代表とする者は、権力よりも、金よりも、まず国民の命を守るべきです。国とはそういうものではないのですか?」
森の民であるエルフの言葉が、ノエリアの心に重く響いた。
ノエリアはふっと微笑んだ。
しかしその笑みはどこか寂しげで、長い間ひとりで抱えてきたものの重さがにじんでいた。
***
「私には、生まれながらに"聖女としての力"がありました。癒しと浄化、そして少しだけ未来を垣間見る力です」
「十歳を過ぎる頃にはその力が強くなり、周囲の者たちは私を"天の祝福を受けた娘"と呼ぶようになりました」
「あなたは、聖女……なんですか?」
俺は思わず息を呑んだ。
「ですがその力は、王位継承を争う王子たちにとって、利用すべき対象でしかありませんでした。"聖女を味方につけた者が次代の王となる"と囁かれるようになりました」
「中立の立場を貫いた結果、私はいつのまにか排除すべき危険な存在となってしまいました。私が王位を目指しているのではないかと疑われたのだと思います」
ノエリアの声が、わずかに震えた。
「私を命がけで守ってくれた騎士や侍女が、ひとり、またひとりと犠牲になっていきました。彼らが流した血の上に立ちながら、私は何もできなかった」
胸に抱えてきた痛みを吐き出すように、彼女は深く俯いた。
応接間に重い沈黙が落ちた。
(貴族や王族の欲望で、歪んでいるのは自分の国だけではなかったんだな)
「それで……どうやって生き延びられたのですか?」
父が静かに問うた。
ノエリアはゆっくりと顔を上げた。
「私は自分の守護精霊に願ったのです。"聖女の力を封じてほしい。そして、誰も私を脅威と見なさないよう、姿をふっくらとした体型に変えてほしい"と」
「姿を……?」
「はい。本来の私は、もう少し違う姿でした。ですが、命を守るために、このふっくらとした体型を望んだのです」
俺は思わず、目の前の少女をもう一度見つめた。
(事情を聞いてしまった以上、放っておけないな)
「なるほど」
父が低く呟いた。
「聖女の力を封印し、姿を変えることで生き延びた。ふっくらとした体型を纏うことで、誰からも脅威と見なされなくなったわけですね」
「はい。王も、兄弟姉妹も、侮る者はいても、誰も私を危険とは思わなくなりました。"出来損ない"と見なされることで、私は生きてこられたのです」
ノエリアは再び深く頭を下げた。
「ですから、結婚は望みません。ただ……どうかこの場所に匿っていただけないでしょうか。命を狙われることのない、静かな時間を過ごさせていただけないでしょうか」
***
沈黙を破ったのは、レグニアだった。
「お前、なかなか面白い。聖女でありながら、自ら外見を変えることを望むとは」
その言葉に、ノエリアはくすりと微笑んだ。
俺は思わず口を開いた。
「……姿まで変えて、後悔はありませんか?」
ノエリアは少し間を置いてから、静かに答えた。
「ええ。最初は悲しくもあり、戸惑いもしました。けれど今は、この姿は嫌いではありません」
俺は思わず目を閉じた。
("この姿は嫌いではない"……俺と同じじゃないか)
目を開けると、ノエリアがこちらをじっと見つめていた。
その瞳の奥にあるのは、ただひとつの願いだけだった。
俺は父に視線を向けた。
父はしばらく腕を組んだまま黙っていた。
それからゆっくりと息を吐き、静かに頷いた。
「……わかった。ただし、くれぐれも外聞には気をつけよ。王女を匿うというのは、国と国の関係にも関わる話だ」
「肝に銘じます」
父の許可を得て、俺はノエリアに向き直った。
「わかりました。ノエリア王女、この屋敷でのんびりとお過ごしください。万一誰かが危害を加えようとしても、レグニアが守ります。ルクシオン王国から異議があれば、"結婚の許可を侯爵邸で待っている"としましょう」
「ケイス様……ありがとうございます」
ノエリアの瞳が潤んだ。
それまで崩れることのなかった表情が、初めて年相応の少女のものになった。
しかしその一方で――
「ちょっと待って! また増えるの……!」
レオナとエリュシアが同時に声を上げた。
応接間の空気が、一気にざわついた。
「ふむ」
父が額を押さえ、深いため息をついた。
「……我が家は、いつから王女の宿舎になったのだ」
こうして"聖女の力を封じた姫"ノエリアが、ケイスの屋敷に加わることになった。
それは新たな出会いであると同時に、隣国ルクシオン王国の深い闇へと繋がる、始まりの一歩でもあった。




