第54話 侯爵邸のバチバチ
というわけで、強引な流れに逆らえないまま、俺たちは侯爵邸に戻り、そのまま厨房へ直行することになった。
厨房に立つのは俺とレオナとエリュシアの三人。
壁際にはレグニアとグレンが腕を組んで控えている。
護衛なのか見物なのか、もはやよくわからない。
「ここなら材料も器具も揃っているはずね。ケイス、私にも作ってくれる? エリュシア王女殿下が食べて……私が食べていない……やつを」
最後だけ、声のトーンが少し下がった。
「わ、私も! あのタルトよりもっと美味しいものを食べてみたいですわ」
両側から圧がかかってくる。
二人の王女が、まったく違う理由で同じ目をしていた。
レグニアとグレンが顔を見合わせた。
言葉はなかったが、その目が「ご愁傷様」と語っていた。
「……わかった。じゃあ今日は、カスタードクリームのフルーツタルトにしよう。エリュシアが食べたものより、少しだけ本格的なやつを」
レオナがかすかに口元を緩めた。
それだけで、厨房の空気が少し柔らかくなった気がした。
***
作業に取りかかると、不思議と無心になれた。バターと小麦粉を練り合わせ、香ばしいナッツを生地に散りばめる。
クリームは卵黄と牛乳をなめらかに合わせ、ほんのりとした甘みを加えていく。色とりどりの果実を丁寧に並べると、厨房中にふわりと甘い香りが広がった。
そのとき――
「なにこの匂い! 甘くていい香り!」
廊下からリリィの声がした。
「しーっ! 静かにしなさい。今が一番面白いところなんだから」
母の声が、抑えているのに全然抑えきれていない。
「ケイス様を取り合って……お姫様同士のバチバチ……。あぁ、これだから人生って素晴らしいのよ……」
ミーナまで、うっとりした声を漏らしている。
(全員、聞こえてるよ)
俺は手を止めずに、静かに告げた。
「廊下で三人が息を潜めているの、ドアの隙間から影が見えてますからね」
しばらく沈黙。
だが、立ち去る足音はしない。
それどころか、扉の隙間からこそこそと覗いているのがまるわかりだ。
「……ミーナ、見えてる?」
「奥様が……もう少し右に寄っていただければ……」
「リリィ、邪魔よ」
「お母様が押さないで……」
三人が小声で言い争っている。隠れる気がまるでない。
***
やっと、タルトが焼き上がった。
「おまたせしました、完成です」
その瞬間、廊下から声が漏れてきた。
「焼き上がったのね。これからどうなるのかしら……」
「わあ!いい匂い」
「ケイス様、料理人のようですわ!」
三人とも、まだそこにいるようだ。
当然のように。
こんがりと色づいた生地の上に、果実とクリームが重なり、まるで宝石のように輝いている。
甘い香りが立ち込めると、二人が同時に息を呑んだ。
もちろん二人の目も、同時に輝いていた。
「先にいただいてもいいかしら」とレオナ。
「ちょっと待って、私が先よ!」とエリュシア。
「……順番にどうぞ」
俺が苦笑すると、二人は渋々と頷いた。
まずレオナが口に運んだ。
一瞬の沈黙。それから瞳が驚きで見開かれ、頬にじわりと朱が差した。
「……美味しい」
続いてエリュシア。
こちらは目を閉じ、恍惚とした表情でゆっくりと頷いた。
「うん。本当に……美味しいわ」
二人とも、しばらく言葉がなかった。
しかし次の瞬間、示し合わせたように互いに視線をぶつけ合った。
「ケイスの腕前は確かですわね。でも……最初に味わったのは私ね」
「ケイスのお菓子は、私、これで二度目ですよ……」
「……っ」
「……っ」
バチバチバチッ。
雷鳴が走るような視線の応酬に、厨房の空気が一瞬で凍りついた。
壁際のレグニアとグレンが、静かに目を逸らした。
二人とも、この場に関わるつもりは一切ないという顔をしている。
そして廊下の外では――
「きゃーっ!」
「バチバチじゃない! 本物のバチバチよ!」
「これは見逃せない展開ですわ……!」
「お母様、私ドキドキしてきましたわ!」
母、リリィ、ミーナが手を握り合いながら、声を抑えきれずに盛り上がっていた。
(頼むから静かにしてくれ。この場を穏便に収めたいんだ、俺は)
甘い香りの中で繰り広げられる"お菓子の戦い"。
その余波は侯爵邸全体を巻き込み、予想外に賑やかな午後となった。
騒ぎがひと段落し、俺がぼんやりと片付けをしていると、ふと思い出したことがあった。
(そういえば……エリュシア王女、エルディアにいたときは「本当の姿を見せてほしい」としきりに言っていたのに、最近はまったく言わなくなったな)
ひとの国の賑やかさに夢中になって、忘れてしまったのだろうか。
それとも――
(まあ、言わなくなったなら、それでいいか)
そう思いながら視線を向けると、エリュシアはレオナとタルトの残りを取り合い、まだ言い争っていた。
(うん、すっかり忘れているな、あれは)
エリュシアがグレイス王国に来て、もう一週間ちょっとが経つ。今では侯爵邸の食卓にすっかり馴染んでいる。母にはしっかり懐いているし、リリィとはもう友達のようだ。
今日一日のレオナの様子を思い返すと、ふと気になることがあった。
(レオナ王女……俺のことは対象外って言ってたのに、今日はなんだか様子が違った気がするな)




