第52話 王女との三角関係
エルディア王国での滞在を終え、出発の日がやってきた。
聖樹の宮殿の前に馬車が用意され、ティルフィア女王が見送りに立っていた。その隣にエリュシアがいる。いや、正確にはすでに馬車に半分乗り込んでいて、今にも飛び乗りそうな勢いだった。
「エリュシア、はしたないですよ」
「だって、早く出発したいの!」
女王がため息をつきながらも、口元を緩めている。
「アーサー子爵、この子を頼みます。約一ヶ月、人の国を見学したら戻してください。ルーナ、ナディア、王女をよろしくお願いしますよ」
「お任せください。危ない目に遭わないよう、しっかりお守りします」
女王が静かに一歩前に出て、俺の目をまっすぐ見た。
「世界樹を救ってくださったこと、エルフの民を代表して、改めて感謝いたします。あなたがいなければ、この国は今頃どうなっていたか」
「俺は運が良かっただけです」
「アーサー子爵、一つだけ申し上げてもよいですか」
女王が静かに口を開いた。
「あなたの持つ運は、ただの強運ではありません。私の目には……まるで神が意志を持って授けたもののように映りました。それほどの力が、なぜあなたに与えられたのか。きっと、理由があるはずです」
俺は思わず黙った。
(鋭いな。実際にそうなんだけど)
「……肝に銘じます」
女王はそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに微笑み、深く頭を下げた。
その言葉が、胸の奥にじわりと染み込んだ。
馬車が動き出すと、エリュシアが窓から手を振る女王に向かって声を張り上げた。
「行ってきます、お母様! お菓子をたくさん食べてくるね!」
「それだけは控えなさい!」
女王の声が遠ざかっていく。
エリュシアはそれでも笑い続けていた。
(俺も使命を果たした。王都に戻って報告を終えれば……あとはのんびりだ)
だがそんな思惑をよそに、エリュシアはすでに次の質問を温めていた。
馬車が街道に出るや否や、俺の袖をくいと引っ張った。
「ねえ、王都ってどんなところ? ひとがたくさんいるの? お菓子屋さんはある? お城は大きいの?」
「一つずつ聞いてください」
「じゃあ、まずお菓子屋さんから!」
レグニアが小さく笑った。
ルーナとナディアは顔を見合わせて苦笑している。
(これは、のんびりどころではないかもしれない)
そんな予感とは裏腹に、馬車の中はあっという間に笑い声で満たされていった。
***
グレイス王国に戻って最初に向かったのは、やはりレオナ王女のもとだった。
場所は、やはりいつもの――騎士団本部。
訓練場では、レオナ王女が剣を構え、汗に濡れた額を拭うこともなく、騎士たちと稽古に励んでいた。
その姿は気高く、力強く、俺の胸をどこか熱くさせるものがある。
「レオナ王女、ただいま戻りました!」
稽古を終え、剣を納めたレオナがこちらに駆け寄ってくる。
「ケイス! 無事だったのね。本当に、よかった」
その声に胸がじんとした。
だが次の瞬間、彼女の瞳は俺の横にぴったりとくっついている少女に向けられる。
「えぇっと、そのひとは……誰かしら?」
「紹介します。こちらはエリュシア様、エルディア王国の王女殿下です。一ヶ月の間、グレイス王国にて社会勉強をなさるそうでして……」
「後ろの二人は、エリュシア王女の護衛を務めるルーナとナディアです」
「ケイスがね、案内してくれるって約束してくださったの。人間の国に、すごく興味があります」
エリュシアはにっこり笑いながら、俺の袖を自然に引っ張った。
その無邪気な仕草が愛らしい。
レオナは笑顔を返したものの、ちらりとその手元に視線を落とし、わずかに眉を動かした。
「そう、案内ですね。たくさん見て学ぶといいですわね。とにかく、その件は王に報告しておきます。一ヶ月の滞在についても問題はないと思います。王女殿下は王宮にご宿泊されますか?」
「ケイスのいる侯爵邸に泊まるつもりです」
レオナは笑顔が固まる。
「王宮であれば、たくさんのお部屋を提供できると思いますが。いかがですか?」
「ケイス、私が侯爵邸に泊まったら、迷惑?」
「いえ! そのようなことはありません。心ゆくまでお泊まりください」
「レオナ王女、そういうことですので、ケイスの侯爵邸に泊まることにします」
その横で、騎士団長グレンが低く唸った。
(ム……ムム……。アーサー子爵とレオナ様がうまくいくものと、こちらはずっと応援しておったのに。何だその可愛らしいエルフの王女殿下は。なぜ袖を引っ張っている。なぜ侯爵邸に泊まるのだ)
団長の表情は笑顔だった。完璧な笑顔だった。
しかしその目が、俺に向かって静かに、しかし確実に語りかけていた。
『ケイス殿……レオナ様の手綱係を大いに期待していたのですがね……』
『まさか新たな波乱をご自身で持ち込まれるとは……』
『胃が……また……チクチクしてきましたよ……』
俺は静かに、深く、生唾を飲み込んだ。
(グレン団長、エリュシア様はそういうのじゃないですからね)
(目が怖いです)
***
「とにかく……世界樹の件はどうなったのですか」
話題を戻すように、レオナが尋ねた。
その声は穏やかだったが、どこか少し硬い。
「無事に世界樹の根に寄生した魔物を退治し、世界樹の力を取り戻すことができました。精霊たちも元気が戻り始めているようです」
「それは素晴らしい成果ですわ。しっかりと王に報告しておきます。さぞかし喜ばれるでしょう。さすがです、アーサー子爵」
「ケイスは本当にすごいのです! 私、感動しました。世界樹が光を取り戻す瞬間、涙が出そうになってしまって」
エリュシアが俺の腕をぎゅっとつかみながら、きらきらした目で語る。
距離が近い。非常に近い。
レオナの口元が微笑んでいた。
ただし、目は微笑んでいなかった。
「まあ……それは素敵な体験をされましたね、王女殿下」
「ええ! ケイスのおかげです」
「そう……アーサー子爵の、おかげで……」
レオナがゆっくりと俺に視線を向けた。
にこやかだった。
完璧ににこやかだった。
(やばい。笑顔が怖い)
(俺は対象外って言ってたのに、なぜこういうことになっているんだ)
後ろで、グレンの胃がチクチクする音が、聞こえた気がした。
***
王女への報告を終え、ようやく実家に帰ることができた。
玄関を開けると、父と母が揃って出てきた。
「ケイス、無事で何よりだ」
「顔色は……ちょっと痩せて……ないわね。まあ、元気そうでよかったわ」
「ただいま戻りました。それと、こちらのお方は――」
俺が紹介するより先に、エリュシアがぴょこんと頭を下げた。
「初めまして。エルディア王国の王女、エリュシアです。一ヶ月の間、ひとの国を見学させていただきます。どうぞよろしくお願いします」
「後ろの二人は護衛のルーナとナディア。以前もここに来ていただいた方々です」
(父上、今度はデレデレしていないな。母上がしっかり横に立っているからか)
「まあ……まあまあまあ……!」
母の目がきらりと光った。
その視線は、いつの間にか俺とエリュシアの距離感にしっかりと注がれていた。
(これは……もしかして……レオナ王女との三角関係……? 私の大好物ですわ!)
母の心の声が、背中から突き刺さってくるようだった。
父が俺の袖をこっそり引き、小声で確認してきた。
「えっと……その……まさか、そういう……仲じゃないよな?」
「違います。あくまで人間界の見学ということで――」
「私はアーサー子爵から、いろいろ学びたいと思っています♡」
エリュシアが無邪気に割り込んだ。
母の目が、さらに細くなった。
(キタキタキタ……! 三角関係! ワクワクが止まらないわ……!)
父はひとつ深いため息をついてから、俺だけに聞こえる声で呟いた。
「ケイス……余計な火種を抱え込むなよ。国と国との関係があるんだからな」
「……肝に銘じます」
母の方を見ると、すでに遠い目をして妄想の世界に旅立っていた。
何を言っても、今は届かないだろう。
廊下の奥からリリィとミーナが顔を出し、エリュシアを見て目を輝かせていた。




