第51話 世界樹の害虫駆除
翌日――。
朝露がまだ草の上にきらめく頃、俺たちはエルフたちに導かれ、世界樹の前に立っていた。
見上げると、言葉が出なかった。
空を突き破るほどの巨木だった。
幹は何十人で抱えても回しきれないほどの太さで、天へと伸びる枝葉は雲を貫き、空と大地を繋ぐ柱のようにそびえている。
これほどの存在が、この世界に実在していたとは。
しかし、その荘厳さの中に違和感があった。
幹の表面にはかすかな黒ずみが広がり、ところどころに枯れた葉が混じっている。
近づくと、生命力が少しずつ抜け落ちているような感覚があった。
胸の奥がざわついた。
「これが、世界樹……弱っているとはいえ、とてつもない大きなエネルギーを感じる」
「レグニア、何か感じ取れるか」
レグニアは無言のまま根元へ歩み寄り、膝をついて地面に手を当てた。
目を閉じ、まるで大地そのものに耳を傾けるかのように静止する。
黒竜としての感覚が働いているのだろう、鼻がわずかにひくついた。
広場のすべての視線が、レグニアに集まっていた。
やがてレグニアがゆっくりと目を開けた。
「わかった」
「世界樹の根の奥に、虫のようなものがいる。ただの虫ではない。世界樹の力を喰らい続け、異常なほどに肥大化している。今となってはSS級の魔物と呼んでいい存在だ」
「世界樹を弱らせていたのが、そんな虫だったとは……!」
女王の表情が、静かな怒りへと変わっていく。
「このまま根を喰らい続ければ、いずれ世界樹は枯れる」
レグニアは続けた。
「地中から引きずり出すことはできる。だが問題は、その後だ。暴れさせずに即死させるのは、さすがに難しい。戦えば勝てる。しかしこの周辺を相当破壊することになるぞ」
ティルフィアが静かに立ち上がり、鋭く命じた。
「すべての兵を集めなさい。魔力を矢に込めて待機させるのです」
女王の声は揺れていなかった。
その目に、強い覚悟の光が宿っていた。
***
一時間が経過した。
世界樹の根元には、数百のエルフ兵が整然と並び、息を潜めていた。
緑の鎧が光を反射し、構えられた弓にはすでに魔力の矢が宿っている。
矢先から漏れる淡い光が、森の静寂をかすかに照らしていた。
レグニアが再び地面に手を当てた。
「準備はいいか。我が虫の動きを止められるのは長くはないぞ」
「黒竜様、いつでも!」
将軍格の弓兵長が声を張り上げた。
「いくぞ」
レグニアが黒竜の力を地面へ流し込み始めた。
ゴゴゴゴゴ……。
地鳴りが響き、大地が大きく波打った。
世界樹の根元に巨大な裂け目が走り、そこから黒煙を纏った巨体がゆっくりと姿を現した。
「……っ」
全長は優に十メートルを超えていた。
甲殻は岩石のように硬質で、鋭い牙が何重にも並んでいる。
節くれだった脚がのたうち、毒々しい瘴気が周囲に広がる。
触手が地を叩くたびに、足元が揺れた。
(マジで虫はダメだ……気持ち悪すぎる)
「――放てぇぇぇ!!」
女王の号令とともに、光の矢が一斉に空を裂いた。
数百本の矢が流星のように飛び、巨虫へと突き刺さる。
炎と雷が炸裂し、衝撃波が周囲の木々を大きく揺らした。
「ぎギィィイイアアァァァ!!!」
怪物の絶叫が森全体を震わせた。
しかし甲殻は異様に硬く、多くの矢が弾かれていく。
「効きが浅い。狙いを変えろ、目と口元だ!」
弓兵長の指示が飛び、魔力をさらに込めた矢が次々と放たれた。
炎の矢が片目を貫き、巨虫がのたうって苦悶の声を上げる。
暴れた触手が数人の兵を吹き飛ばし、地面に転がす。
「退くな! 世界樹を守れ!!」
レグニアが一歩前に出て魔力を解き放った。
黒竜の力が地を這い、巨虫の動きを再び鈍らせる。
その隙に、女王ティルフィアが静かに矢を番えた。
「聖樹に仇なすもの……これ以上の冒涜は許さぬ」
光の矢が一直線に走り、巨虫の眉間を貫いた。
「ギィイイアアアアァァァ!!!」
断末魔の咆哮とともに巨体が痙攣し、崩れ落ちた。
黒い体液が地に広がり、腐敗臭が漂い、それからゆっくりと静寂が戻ってきた。
誰も動かなかった。誰も声を上げなかった。
そして次の瞬間、兵たちの間から歓声が波のように広がっていった。
***
「終わった……のか」
震える足でなんとか立っていた。
黒い体液が広がる地面を慎重に避けながら、世界樹の根元へと歩み寄る。
(虫は本当に苦手だ。動かないでくれよ、頼む)
根元に手を当て、祈るように念じながらスキルを発動した。
『幸運100%』
しかし世界樹はわずかに枝葉を揺らしただけで、大きな変化は見られなかった。
(やはり、世界樹には足りないか)
歯を噛みしめ、深く息を吸った。
「ならば――」
『大幸運100%』
瞬間、世界樹の根元から眩い緑の光が迸った。
大地が震え、光の波が天へと伸びる。
枝葉が一斉にざわめき、小さな蕾が次々と生まれていく。
黒ずんでいた幹の染みが消え、失われていた生命の鼓動が、確かに蘇っていくのが感じ取れた。
柔らかな風が森全体を吹き渡り、空気が甘く澄んでいく。
世界樹が大地に根を張り直し、巨体から力強い脈動が伝わってきた。
「こんなことが……」
女王の呟きが、風に溶けた。
しかし同時に、俺の視界が急速に暗くなっていった。
(大幸運80%でも四時間眠った。100%なら……当然か)
足が言うことを聞かない。体が、重い。
「ケイス!」
駆け寄るレグニアの声を最後に、俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
***
翌朝――。
「ケイス、果物を持ってきましたよ!」
弾む声とともにエリュシアが現れた。
両手に色とりどりの果物を盛り付けた皿を抱え、朝日を受けて笑顔が輝いている。
「ありがとう。エルフの国の果物は本当に美味しいから、うれしいよ」
皿を受け取ると、エリュシアはそのままこちらの顔をまっすぐ覗き込んできた。
大きな瞳には、純粋な憧れと、ほんのり熱を帯びた光が宿っている。
「やっぱり、ケイスはすごいひとだわ。世界樹を癒すなんて……奇跡みたい」
その声には、昨日までの無邪気な好奇心とは少し違う、静かな真剣さがあった。
ティルフィアが少し離れたところで、目を細めてその様子を見ていた。
娘の初恋をそっと見守る母のような、柔らかな微笑みだった。
「ふふ。この子がここまで誰かに心を寄せるのは初めてですわ」
女王は静かに続けた。
「きっとこの子の目には、あなたが特別な力を与えられた人間として映っているのでしょう。困っている者のために、その力を惜しみなく使える人間として。だから、憧れているのだと思います」
(いや、そう言われても……)
くすぐったいような、困ったような感覚が胸の奥に広がる。
俺は思わず視線を逸らし、口の中で言葉を探した。
「えぇと……どう答えれば」
隣でレグニアが、静かに呟いた。
「素直に受け取ればいいだけだ」
***
話題を変えようと、俺はあの異形の虫について尋ねた。
「ところで女王、あの虫ですが……自然に棲みついたのでしょうか。世界樹の力を吸って魔物化したとはいえ、元はただの虫のはず。本来なら世界樹に近づけるものではないですよね」
ティルフィアの表情が、わずかに曇った。
「そこなのです。本来、世界樹の周囲は精霊たちが護っていた。普通の虫が近づくことなど、あり得ないはずなのです」
「では、誰かが意図的に」
「断言はできません。ただ……そう考えた方が自然です」
女王は静かに続けた。
「もし外から何者かが仕掛けたのだとすれば、世界樹の衰弱は偶然ではなく、企みということになります」
レグニアが腕を組み、低く呟いた。
「世界樹を狙う者か。ただの虫よりも、そいつの方がずっと厄介な敵だな」
「いずれにせよ、精霊たちの加護に加えて、兵による警備も強化すべきですね。今回は間に合いましたが、次はわかりません」
ティルフィアは静かにうなずいた。
「ええ。一つ間違えれば、エルフの国そのものが失われていた。二度と同じ危機を招かぬよう、徹底して守るつもりです」
その声には揺るぎない決意があった。
しかし俺には、どこかまだ終わっていないような感覚が残っていた。
***
翌朝――。
エリュシアとの約束を思い出し、俺は厨房に立った。
前世の記憶を頼りに、小麦粉に森の木の実と蜂蜜を混ぜ、丁寧に生地を焼き上げていく。仕上げに鮮やかな果実を並べて飾りつけると、甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
「できた。これは"タルト"というんだ」
こんがり焼けた生地の上に並ぶ果実は、宝石のように艶やかだった。
エリュシアが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「ケイスが作ったの?」
「どうぞ」
ぱくりと一口。
瞬間、彼女の瞳がぱっと開いた。
「おいしい……! こんなの、食べたことない!」
その無邪気な笑顔に、俺も自然と頬がゆるんだ。
「人間の国では、こういうお菓子をお祝いの時なんかに食べるんだよ」
「いいなぁ……人間の国って、楽しそう。私も行ってみたい」
ぽつりとこぼれたその言葉が、胸の奥に小さく刺さった。
エリュシアの瞳は、「幸運の領主」を見るものではなかった。
そこにあるのは、ケイスという一人の人間への、純粋な憧れと興味だった。
その変化を、俺ははっきりと感じ取っていた。
遠巻きに見守っていたティルフィアが、静かに目を細めた。
母としての優しさと、どこか期待を含んだ眼差しだった。
(そんなことを考えていると、使命を果たせと、神様に怒られそうだ)
わかっている。頭ではわかっている。
しかしエリュシアの真っ直ぐな瞳は、そういった理屈をするりと超えて、胸の奥まで届いてくるのだった。
そろそろ、王都に戻らなければならない。それはわかっている。
ただ、この場所を離れることが、なぜか少しだけ惜しい気がした。




