第33話 少しは遠慮というものが
世界に色が戻った
胸の奥から、なんとも言えない馴染みのようなものが湧き上がってくる。
鏡を見るまでもなかった。
すぐにわかった。いつもの体型に戻っていた。
(おお……もとに戻っている)
思わずお腹を触り、顔の輪郭を撫でてみる。
ぷに、とした感触に苦笑がこぼれる。
不思議と嫌な気分ではなかった。
むしろ『これが俺だ』と思えた。
レオナ王女が、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら俺を見ていた。
さっきまで赤く染まっていた頬も、いつの間にか元に戻っている。
「さっきより……ぽっちゃりしてない?」
「ケイス。剣術の稽古は、もう止めましょうか」
王女は少し間を置いてから、続けた。
「……どうやら、あなたが痩せることは無理みたい」
「ありがとうございます……。正直なところ、この体型が気に入っていますので」
「そう。お気に入りなら、しかたないわね」
王女は小さく肩をすくめた。そしてすぐに、真剣な表情に戻った。
***
「ところで――ケイスに頼みがあるの」
(来た。絶対ろくでもない頼みだ)
「騎士団にお願いしている事務処理仕事を、あなたに手伝ってもらいたいの」
その瞬間、視界の端でグレンの表情が変わった。
泣きそうなほど喜んでいた。
「ケイス殿……っ」
声が裏返っていた。
こちらをまっすぐ見ている。
その目に、すがるような光があった。
「……まあ、いいですよ」
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
グレンが深々と頭を下げた。
騎士団長がこれほど頭を下げる姿を、部下たちは見たことがあるだろうか。
レオナが即座に言った。
「騎士団長、ケイスを執務室に案内して」
「はいっ! ケイス様、こちらへどうぞ! さあさあ!」
グレンの足取りは、驚くほど軽かった。
廊下を歩くその背中から、鼻歌が聞こえた気がした。
(騎士団長の鼻歌。初めて聞いたぞ)
***
案内されたのは、騎士団の建物内に急遽設けられた、ロザミール侯爵事件関連の事務処理専用の部屋だった。
扉を開けると、どんよりとした空気が漂っていた。
ストレスで激ヤセした者、やけ食いで激太りした者、さまざまな騎士たちが、一様に暗い顔でペンを走らせている。
(重い……部屋の空気が、重い)
俺が入った瞬間、その空気がわずかに動いた。
騎士たちが顔を上げ、暗かった瞳に光が差していく。
言葉はなかったが、全員の顔が「来た」と言っていた。
間を置かず、大きな机が運び込まれた。
椅子も即座に準備される。
廊下の外には、まだ何かを運ぼうとしている騎士の気配まであった。
(……包囲されている)
観念して椅子に腰を下ろした。
すると待ってましたとばかりに、書類の束が次々と積み上げられていく。
ドサ。ドサ。ドサドサドサ。
(少しは遠慮というものを知らないのか)
山が、俺の目線を超えた。
***
「ところで、この書類をこれまでどうやってまとめてきたんですか」
「どうやってって……そんなの、我らにはわかりませんよ」
騎士の一人が困り顔で答えた。
「剣や槍なら得意ですが、書類仕事は……」
(とにかく王女のために、必死にやってきたわけか)
「では、まず書式を統一しましょう」
「しょ……しき?」
全員が首をかしげた。
「どこに何を、どんな順番で書くかを決めるんです。見本を作りますので少し待っていてください」
手元の紙を取り、枠線を引き始める。
いくつかの枠を作り、それぞれに「1.事件種別」「2.概要」「3.関与者」「4.証拠」「5.供述要約」とタイトルを書き込んでいく。
「こんな感じです。これと同じものをたくさん作ってください」
「なるほど……これなら、できます!」
騎士たちの目が輝いた。
剣を持つよりぎこちない手つきながら、嬉々として用紙作りを始めている。
その顔つきが、書類と格闘していたときとはまるで別人だった。
(体を動かす作業の方が、断然生き生きしているな)
***
次に俺は、調査書類を一枚ずつ確認しながら、対応する文章を枠で囲み、番号を振っていった。
「この調査書類につけた番号を見てください。さっきの記入用紙の同じ番号の欄に、それを写してください。考える必要はありません。ただ写すだけでいいんです」
「おお……! それなら、できる!」
「よし、片付けるぞ!」
「おうっ!」
部屋が震えた。
さっきまでのどんよりとした空気が、どこかへ消えていた。
騎士たちが一斉にペンを走らせ始める。
剣の代わりにペンを握っているだけで、その顔つきはまぎれもなく戦場に向かう兵士のものだった。
体を動かす作業なら、このひとたちの右に出る者はいない。
(頑張れ騎士団……夜明けは近いぞ)
***
そして3日後――。
「まさか……もう終わったの?」
廊下の向こうから声が響いた。
次の瞬間、執務室の扉が勢いよく開かれた。
レオナ王女だった。
「ケイス、本当に全部終わったの?」
「えぇ……まあ、なんとか」
机の上の書類は、すべて紐で綴じられ、きれいに積み上げられていた。
レオナはその一冊を手に取り、ページをめくる。
しばらく無言だった。
「……わかりやすい。私が欲しかったのは、これよ」
騎士団長に向き直った。
「見なさい、グレン。これが手本よ」
「はっ……!」
執務室の空気が、ふっと軽くなった。
騎士たちの顔に、この三日間で初めて見る笑みが広がっていく。
「ケイス様、本当にありがとうございました」
「助かりました」
順番に頭を下げてくる。
(……照れるな。でも、悪くない)
「では、俺はそろそろ……」
「ケイス、まだあるの」
レオナが静かに言った。
「今度は刑罰を決める書類をまとめなければならないわ」
「え……まだ……」
周囲を見回すと、騎士たちの目が一斉にこちらへ向いていた。
声には出していない。
だが全員の顔が、同じことを言っていた。
――頼む。
(この顔を見て、帰れるわけがないか)
俺は小さくため息をついてから、新しい用紙を手に取った。
「わかりました。刑罰の種類を教えてください。書式を作ります」
こうして俺の事務処理生活は、さらに続いていくことになった。




