第100話 弱き王は、死んだ
ノルド王国の王都は、荒れていた。
フェンリルの子供が奪われたことを知った王は激怒し、衛兵に命じて王都中を捜索させた。
王は苛立っていた。
牢を守っていた騎士と衛兵は、全員が処刑された。
捜索は乱暴だった。
扉を蹴破り、家の中を荒らし、少しでも不審な動きをした者は問答無用で捕らえる。王都のあちこちから悲鳴が上がり、煙が立ち上った。
民は怯え、息を潜めて家の中に隠れていた。
***
そんな王都に、二つの影が現れた。
王宮の巨大な城門の前に、白銀の巨狼と漆黒の竜が静かに立っていた。
城壁の上の見張りが気づき、叫んだ。
「て、敵襲――! フェンリルと黒竜が城門前に……!」
その瞬間――。
王宮全体が、揺れた。
城壁が震え、建物が軋み、地面が振動した。
王宮にいる全員の頭の中に、声が響いた。
「王はいるか?」
念話だ。だがその強さは、普通の念話とは比べ物にならなかった。
兵たちが頭を抱えて座り込む。侍女が悲鳴を上げる。
廊下を歩いていた廷臣が壁に手をついてよろめいた。
玉座の間で、ノルド王が立ち上がった。
「二体を討ち取るのだ! 逃げ出す者は斬れ」
***
城壁の上に、弓兵と魔法騎士が集結した。
城門が開き、盾と剣を構えた騎士たちが駆け出してくる。
「放て!」
号令とともに、無数の矢が空を覆った。
魔法騎士たちが呪文を唱える。炎の塊、氷の槍、雷の柱が次々と放たれた。
矢も魔法も、二体には届かなかった。
フェンリルが設けた見えない防御壁により、すべて跳ね返していた。
防御壁を設けたまま、フェンリルが一歩二歩と前に進む。
放たれた魔法が方向を変えて虚空へと消え、矢は見えない防御壁に阻まれ、手前で落ちる。
レグニアが翼を広げた。
黒い気が全身から溢れ出し、城壁の上を薙ぐように走った。魔法騎士たちが吹き飛び、弓兵が崩れ落ちた。
地上から駆け寄ってきた騎士たちが、フェンリルの前に立ちはだかった。
「我ら、ノルド王国の誇りにかけて……!」
フェンリルは動じなかった。
一歩踏み出すたびに、大地が揺れた。騎士たちは体勢を崩し、足がもつらせ、次々と地に伏した。戦意は折れていなかった。だが、体がついてこなかった。
「こいつらは、もういいだろう」
フェンリルが静かに言った。
「そうだな」
レグニアが答えた。
一拍置いてから、続けた。
「城ごと吹っ飛ばすか」
***
レグニアが深く息を吸った。
漆黒の炎が、城門へと向かって放たれた。
城門が消し飛んだ。石造りの壁が崩れ、城壁の一角が轟音とともに崩落した。
砂埃が煙のように舞い上がり、城の形が変わった。
続けてフェンリルが空を仰いだ。
天から雷が落ちた。
王宮の中央の塔が、直撃を受けた。石が砕け、天井が落ち、炎が上がった。
王都全体が、揺れた。
二体は、それ以上は壊さなかった。
ただ静かに立ち、崩れた城を眺めていた。
「王の姿が見えないな。逃げたか……まあいい。いつでも吹き飛ばせるからな」
レグニアが静かに言った。
「子供を傷つけた者への報いは受けた。これで十分だ」
フェンリルが頷いた。
二体は静かに、王都から消えていった。
***
崩れた城の中を、男が一人走っていた。
ノルド王だ。
金の冠は落ち、豪奢な衣は埃にまみれていた。側近も護衛も、誰も残っていない。
王はただ、走った。
城の裏口から馬を奪い、北へと逃げた。
「魔獣め……必ず倒してやる……!」
誰も聞いていなかった。
***
三日後――。
疲労困憊の末、北の山中の城にたどり着く。
城主は王の弟だ。
城内に新たに設えさせた玉座に、ノルド王が腰を下ろした。
王の命で、ノルド王国の各地から、腕自慢の騎士と徴兵した兵が集められていた。
アーサー王国に攻め込んだ将が駆け込んできた。
「アーサー王国に攻め込もうとしたところ、フェンリルと黒竜に阻まれ、残念ながら撤退してまいりました」
(おめおめと逃げてきたのか。処刑してしまいたいが、今は将が一人でもほしい)
「そうか、フェンリルと黒竜はアーサー王国が使役しているというのだな?」
「その通りでございます。禁断の魔法を使っているのかもしれません」
「そうか、アーサー王国め、許さん。彼の国を滅ぼせ。フェンリルの代わりになる魔獣を探せ。もっと強力な魔法の研究も急げ」
王の声は震えていた。怒りか恐怖か、あるいはその両方か。
両目は充血し、興奮した腕が震えていた。
集まった将兵たちは、恐怖し沈黙していた。
やがて、一人の男が前に出た。
王の弟、ヴォルグだ。
浅黒い肌に、鋭い目つき。全身から武人の気配が漂っていた。
ノルド王国内でも、兄に次ぐ、屈指の実力者として知られる男だ。
「兄上。緊急の報告がございます」
ヴォルグが静かに言った。
「申せ」
「ほかの者には聞かせるわけには参りません」
「わかった。側に寄れ」
ヴォルグが王に近づいていく。
王の耳元で、小さい声で囁いた。
「この国に、弱き王など不要」
「何を言っている!」
次の瞬間、ヴォルグの短剣が閃いた。
王が玉座から崩れ落ちた。
誰も動かなかった。
誰も止めなかった。
ヴォルグは短剣を拭い、玉座へと向かった。
そこに腰を下ろし、集まった将兵たちを見渡した。
「これからは、我が王だ」
静寂。
「文句のある者は、いつでも挑んでこい」
誰も動かなかった。
誰も口を開かなかった。
ヴォルグは続けた。
「弱き王は死んだ。しかし、ノルド王国は死んでいない」
その声には、怒りも恐怖もなかった。
ただ、静かな確信があった。
「まず国を立て直す。兵を鍛え直す。より強力な魔法の研究を進めろ。フェンリルの代わりになる魔獣を探せ。なんとしても捕まえてこい。そして――」
ヴォルグの目が、南へと向いた。
「アーサー王、覚えておけ。これは終わりではない」
その言葉が、城の石壁に静かに響いた。




