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少年の決意

 夕闇がカルゼオンの街を包み始める頃。

 イザヨイを乗せた豪華な馬車は、領主館の門を抜け、石畳の街道を滑るように宿屋へと向かっていた。


 その頃、ヴェルリス家の広大な屋敷の中では、先程までとは打って変わって猛スピードで廊下を駆け抜ける小さな足音が響いていた。


「セバスチャン! 兄上はどこ!?」

「おや、カルロス坊ちゃま。アンドリュー様でしたら、今は第一書斎にて、報告書をまとめておいでかと……あっ、廊下は走られませんよう!」


 執事の制止も聞かず、カルロスは赤い顔をしたまま、一直線に屋敷の奥へと走った。

 息を弾ませながら、目的の重厚なオーク材の扉の前に立つ。

 コンコン、と力強くノックをする。


「入れ」

「兄上!」


 カルロスが勢いよく扉を開けると、そこには無数の書類と地図が広げられた大きなデスクに向かい、ペンを走らせるアンドリューの姿があった。

 彼は手を止め、弟の異様な熱気を感じ取って片眉を上げた。


「……カルロスか。どうした、そんなに慌てて。また父上に怒られるような悪戯でも企んでいるのか?」

「違うよ! 兄上、お願いがあるんだ!」


 カルロスは机の前まで進み出ると、両手を拳に握り締め、真っ直ぐにアンドリューを見上げた。


「僕……騎士になりたい!!」

「…………は?」


 アンドリューは持っていたペンをポロリと落とし、弟の顔を凝視した。


 無理もない。

 今まで勉強をサボっては屋敷を抜け出し、騎士の訓練など「泥臭くてつまらない」と見向きもしなかったあのやんちゃ坊主が、自分から騎士になりたいと言い出したのだ。


「カルロス、お前……本気で言っているのか?」

「うん! 本気だよ! 明日から、兄上の訓練に混ぜてほしいんだ!」


 その声に、普段の我がままな響きは一切ない。

 瞳には、強い覚悟の光が宿っていた。


「……何があったのだ? 急に心変わりするとは。まさか、先程イザヨイ殿がお前の部屋を訪ねたことと、何か関係があるのか?」


 アンドリューが鋭く問い詰めると、カルロスの顔は一瞬にして耳の先まで真っ赤に茹で上がった。

 先ほどの強烈すぎる『ご褒美』、イザヨイの圧倒的な双丘の感触と、石鹸の甘い匂いが、十歳の少年の脳裏に鮮烈に蘇ったのだ。

 だが彼は必死に首を振り、顔をバンバンと叩いて気を取り直した。


「そ、そうじゃないけど! でも……僕、イザヨイさんを守れるくらい、強くなりたいんだ!!」

「……」


 その言葉を聞いて、アンドリューは全てを察した。


(なるほど。初恋か)


 王都の騎士団副団長という立場柄、人間の機微には敏感なアンドリューである。

 あの絶世の美貌と、男であれば無意識に惹きつけられる魔性のプロポーション。

 それを至近距離で浴びせられれば、十歳の純情な少年がどれほど狂わされるか、想像に難くない。

 しかも、イザヨイはAランク魔物を単独で討伐するような規格外の魔法使いだ。

「彼女を守る」という大義名分を掲げなければ、隣に立つことすらおこがましい存在。


 だが……


「動機がどうあれ……お前がそこまで真剣に剣を握る覚悟をしたのなら」


 アンドリューはフッと口元を綻ばせた。

 長年手を焼いてきた弟が、男としての成長の第一歩を踏み出したのだ。兄として、これほど嬉しいことはない。


「カルロス。騎士への道は甘くないぞ。私は実の弟であろうと、王都の訓練生と同じ……いや、それ以上に厳しく鍛える。途中で泣き言を言っても、決して許しはしないが、それでも良いのだな?」


 アンドリューが立ち上がり、剣の柄に手を添えて威厳のある顔で問うた。

 カルロスはゴクリと唾を飲み込み、しかし瞳の光を絶やすことなく、深く、力強く頷いた。


「うん……! 絶対に、諦めないよ!!」

「……よかろう。明日から、早朝の素振りを千回だ。覚悟しておけ」

「ありがとう、兄上!」


 カルロスはパァッと顔を輝かせ、飛ぶように書斎を駆けていった。


 その元気な後ろ姿を見送りながら、アンドリューは再び椅子に深く腰を下ろし、天井を仰ぎ見た。

 そして、無意識のうちに馬車のステップで受け止めてしまった、あの圧倒的な柔らかさと弾力の感触が手のひらに蘇り、顔に微かに熱が集まるのを自覚してしまった。


「イザヨイ……か」


 アンドリューは目を閉じ、小さく呟いた。


 Eランクの新人冒険者でありながら、ワイバーンの群れを瞬殺する常軌を逸した力。

 上流貴族もかくやというドレスを身に纏う、絶世の美少女。

 出身も素性も一切不明。

 だが、あの底抜けに明るく純真な笑顔と、他人の心にスッと入り込む不思議な引力。


 彼女が何者であろうと、カルゼオンの危機を救い、そして弟カルロスを、たった一回の逢瀬で立派な男へと変えてみせたのだ。


(底知れぬ力と、人を惹きつける魔性の魅力。正体不明の危険な存在であることは間違いないが……)


 アンドリューは目を開け、報告書の束を見つめた。


(個人的には、彼女がこのカルゼオンに、そして我々ヴェルリス家に悪意を持っているとは、到底思えない。むしろ……彼女がいてくれることは、この街にとって大いなる祝福なのかもしれないな)


 若き天才騎士の中で、イザヨイに対する警戒心は、いつしか強い興味と、拭いきれない好意的な評価へと変わっていた。


 そして、遠く宿屋へ向かう馬車の中。

 イザヨイは、自分がヴェルリス家の次期当主候補たちの人生をこれほどまでに狂わせていることなど、当然知る由もなかったのである。

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― 新着の感想 ―
 初めまして、毎日楽しく拝読させていただいています。  気になった点を一つ。アンドリューの手に残る感触の回想がラッキースケベの事ならば、時系列的にまだ村へ向かう最中の事なので、『昨日』という表現よりも…
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