出発当日
翌朝。
カルゼオンの街は、まだ白み始めたばかりの薄暗い空の下にあった。
宿屋『踊る麦亭』の前には、ヴェルリス家の紋章が刻まれた豪奢な送迎用の馬車が静かに停車している。
「気をつけてな、イザヨイ。無理はするなよ!」
「絶対よ! 少しでも危ないと思ったら、すぐに魔法で逃げてきなさいね!」
「……お前の凱旋を待っている。俺たちの心配を、あのバカでかい魔法で吹き飛ばしてくれ」
ボルグ、シエル、クローザーの三人が、朝早くから起きて馬車を見送ってくれた。
昨日の一件でイザヨイの強さは重々承知しているはずだが、それでも彼らの顔には過保護な親のような深い憂いが刻まれていた。
「はい! 皆さんもお気をつけて。行ってきます!」
イザヨイは昨日に引き続き、お気に入りレア防具である『星屑の聖衣』を着込み、馬車に乗り込んだ。
窓から手を振る三人の姿が遠ざかり、馬車は石畳を揺らして領主の館へと向かう。
丘の上のヴェルリス家屋敷前に到着すると、そこは既に物々しい空気に包まれていた。
広大な前庭には、幌が張られた頑丈な大型馬車が四台、等間隔に並べられている。
その周囲では、白銀の鎧を身に纏い、手際よく補給物資や武器を荷台へ積み込む数十人の騎士たちが慌ただしく行き交っていた。
「到着されましたか、イザヨイ殿」
馬車から降りたイザヨイを迎えたのは、昨日と同じ騎士団の制服ではなく、実戦用の煌びやかなフルプレートアーマーを完璧に着こなしたアンドリューだった。
兜を脇に抱え、朝日に金髪を輝かせるその姿は、絵画から抜け出してきたように美しく、そして武骨な迫力に満ちている。
(うわぁ……やっぱり本物のフルプレートはカッコいいなぁ。俺もいつか、ああいうガチムチの装備で前衛に出たい……)
ゲーマーとしての羨望の眼差しを向けつつ、イザヨイは可憐に微笑んだ。
「おはようございます、アンドリューさん。準備は万端みたいですね」
「ええ。ですが、これでも『かなり少ない』方なのですよ」
アンドリューは並んだ四台の馬車と騎士たちを一瞥し、険しい声で言った。
「本来、ワイバーンの群れという空の災害と正面から渡り合うのであれば、この倍……いや、三倍の兵力が必要です。被害を最小限に抑えるためとはいえ、今回はあまりにも少数の編成です」
アンドリューの青い瞳が、イザヨイを射貫くように見据える。
「……ですが、このギリギリ最低限の戦力で出立するのは、万が一ワイバーンが現れた際、貴女のその『規格外の魔法』を前提とした作戦だからです。……意味は、お分かりですね?」
その言葉の裏にある重いプレッシャー。
もしイザヨイの実力がハッタリあったり、魔法が不発に終わったりすれば、この少数の騎士団はワイバーンの餌食となり、村にも騎士たちにも甚大な被害が及ぶ。
失敗は、取り返しのつかない悲劇を招くということだ。
騎士としての彼なりの、最終的な覚悟と警告だった。
(……なるほど。このイケメン騎士様、俺の魔法をアテにして、自分の命までベットしてきたか。『失敗したら……ただじゃ済まないぞ!』……ってことね。ま、ワイバーンくらいなら俺一人で余裕なんだけどさ)
イザヨイは内心で軽く受け流しつつ、表情を引き締めて深く頷いた。
「はい、理解しています。お任せください、失敗はしません」
その揺るぎない自信に、アンドリューが僅かに目を瞠った、その時だった。
「待って!! 僕も、僕も連れてって!!」
屋敷の玄関扉がバーンと乱暴に開け放たれ、小さな影が猛然とダッシュしてきた。
「カ、カルロス坊ちゃま! いけません、お戻りください!」
背後から初老の執事セバスチャンが青ざめた顔で追いかけてくるが、その影――三男のカルロスは、大人の隙を突く脱走のプロらしく、器用に騎士たちの間をすり抜けてアンドリューの足元まで辿り着いた。
「……カルロス。お前、また抜け出してきたのか」
アンドリューは深く、本当に深いため息を吐き出し、兜を持った手でこめかみを押さえた。
カルロスは兄の叱責を意に介さず、その隣に立つ女神を真っ赤な顔で見上げながら、必死に懇願した。
「兄上! 僕も行く! 僕も討伐に一緒に行くよ! 邪魔しないから、馬車の荷台でもいいから!」
「バカを言うな! これは遊びではないのだぞ! 相手は空を舞うAランクのワイバーンだ。訓練も受けていないお前が来て、何ができるというのだ! すぐ部屋に戻りなさい!」
アンドリューがかつてないほど厳しい声で一喝する。
だが、少年の初恋(と冒険への憧れ)を拗らせた暴走は、そんな正論で止まるものではなかった。
カルロスは涙目で首を横に振り、アンドリューの装甲にしがみつこうとする。
「いやだ! 僕だって、ただのお留守番はもう嫌なんだ! イザヨイさんのすごい魔法を、僕のこの目で……!」
「……セバスチャン! カルロスを自室へ閉じ込めておけ!」
「も、申し訳ございません、若様! さあカルロス坊ちゃま、こちらへ……」
執事と兄に両脇を抱えられそうになり、カルロスが「やだーっ!」と大暴れを始め、出立前の緊張感が台無しになっていく。
頭を抱えるアンドリューを見て、イザヨイは小さく苦笑し、一歩前に進み出た。
「あの、アンドリュー様。私に任せてもらえませんか?」
「……イザヨイ殿?」
イザヨイはアンドリューを制止すると、暴れるカルロスの前で、優雅なドレスの裾を気にすることなく、スッとしゃがみ込んだ。
「あ……」
カルロスは動きを止め、自分のすぐ目の前に現れた、圧倒的に美しく、そして暴力的なボリュームを持つ双丘の谷間に、一瞬で顔を茹でダコのように真っ赤に染め上げた。
昨日よりも距離が近く、ふわりと香る甘い石鹸の匂いが少年の鼻腔を刺激する。
「カルロスくん」
イザヨイは小首を傾げ、女神のような、それでいてどこか悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「ワイバーンはね、とっても怖くて、危ない魔物なんだよ。だから、今回は連れて行ってあげられないの。ごめんね」
「で、でも……僕……っ」
カルロスが必死に反論しようとするが、イザヨイはスッと白魚のような人差し指を立てて、少年の唇にそっと当てた。
「ひゃぅっ!?」
「その代わり……ね」
イザヨイは少しだけ顔を近づけ、甘く内緒めいた囁き声で言葉を紡いだ。
「もし、お屋敷でいい子にして待っててくれたら。私たちがワイバーンを倒して帰ってきた時に……私から、カルロスくんに『いいこと』、してあげる」
「えっ……!?」
カルロスの瞳孔が限界まで開き、全身が石のように固まった。
「だから、お兄ちゃんたちを困らせないで、お留守番しててね。約束だよ?」
「……あ……う、うん……! わ、わかった……! 僕、いい子で待ってる……!!」
先程までの暴れっぷりが嘘のように、カルロスはロボットのようにカクカクと頷き、鼻血が出そうなほどの赤面を保ったまま、フラフラと自分から屋敷の方へ引き返していった。
「セ、セバスチャン……僕、部屋で勉強する……」
「おや、これは……。感謝いたします。イザヨイ様」
執事が唖然としつつも、急に大人しくなった三男を連れて頭を下げ、館へと消えていく。
そのあまりにも劇的な変化に、最も驚いていたのは兄のアンドリューだった。
「な……あの言うことを聞かないカルロスが、あんなにあっさりと……。イザヨイ殿、一体何を吹き込んだのですか?」
「え? 『帰ってきたらご褒美をあげる』って、ちょっとお姉さんぶって約束しただけです」
イザヨイは立ち上がり、ドレスの埃を払いながら無邪気に笑った。
(俺としては、頭撫でてお菓子あげるくらいしかできないけど。小学生男子には『ご褒美』って言葉の響きだけで十分効くからね)
だが、アンドリューの受け取り方は全く違っていた。
絶世の美貌と、男であれば無意識に目を奪われる豊満な肢体。その彼女が、幼い弟に囁いた「いいこと」。
(……まさか、あんなことやこんなことを……!? いや、十歳の子供相手に何を馬鹿な妄想を……! だが、あのカルロスの尋常ではない照れ方は……)
アンドリューは顔を微かに赤らめ、咳払いをして必死に脳内の煩悩を振り払った。
圧倒的な魔法の才。底知れない素性。そして、一瞬にして人の心を(物理的にも精神的にも)絡め取る、魔性の魅力。
(イザヨイ……恐ろしい少女だ。色んな意味で、決して油断してはならない相手だ)
若き天才騎士は、ワイバーンという強敵よりも、目の前にいる銀髪の美少女の方にこそ最大限の警戒心を抱きながら、出発の号令を下すのだった。
「……では、全軍、出立!」




