やんちゃな子供
「では、イザヨイ殿。出発は明日の朝といたします」
応接室から出ようとするイザヨイの背中に、アンドリューが声をかけた。
「明日ですか? 私は今すぐでも平気ですよ?」
「いえ、貴女のお力は別として、我々騎士団としても万が一に備え、調査と討伐の部隊を編成しなければなりません。物資の調達や馬の手配など、準備に一日を要します。……明朝、私が直接『踊る麦亭』へお迎えに上がります」
アンドリューは居住まいを正し、騎士としての責任感に満ちた生真面目な顔で答えた。
イザヨイとしては「自分一人でサクッと行って魔法をぶっ放せば、部隊なんて必要ないのに」とゲーマー特有の効率厨な思考を巡らせたが、向こうの体裁もあるのだろうと納得することにした。
「分かりました! じゃあ、明日の朝、宿で待ってますね」
「……承知いたしました」
アンドリューは一瞬だけ目を伏せて短く応えた。
やはり、この美少女の放つオーラには、王都の副団長であってもペースを乱されそうになるらしい。
「それではイザヨイ殿、お気をつけて。こちらへどうぞ」
先ほどの執事が再び完璧な所作で現れ、イザヨイをエスコートして廊下を進み始めた。
豪奢な絵画が並ぶ静かな回廊を歩き、玄関ホールへと向かう途中。
不意に、前方の曲がり角から小さな影が飛び出してきた。
「わっ……!」
「おっと……」
イザヨイが立ち止まるより早く、その影は慌ててブレーキをかけ、床の絨毯でズルッと滑りそうになった。
現れたのは、十歳前後、現代の日本で言えば小学生くらいの少年だった。
上等な生地で作られた動きやすそうな服を着て、少し短めに刈り込んだ茶色の髪の子供だった。
(……なんか、この子。どっかで見たことあるような……)
その顔を見た瞬間、イザヨイは「あれ?」と首を傾げた。
「おや、カルロス坊ちゃま。また屋敷の中を走っておいででしたか」
執事が呆れたように、しかし温かみのある声で注意をする。
「ご、ごめん、セバスチャン……! ちょっと庭に抜け出そうと……って」
少年――カルロスと呼ばれた子供は、言い訳の途中でパチンと口を閉じ、執事の隣に立つイザヨイの姿に釘付けになった。
「え、あ、おね……」
大きく見開かれた瞳。
赤く染まっていく頬。
カルロスの視線は、イザヨイの星屑のように煌めくドレス姿と、その豊満な胸元、そして息を呑むような美貌を交互に彷徨い、完全に硬直していた。
(あ、思い出した。路地裏でぶつかった元気な子だ)
イザヨイはふふっと口元を綻ばせた。
転生して初めての街歩きで、路地裏から飛び出してきて尻餅をついた少年を思い出す。
「カルロス坊ちゃま、こちらのお客様は領主様とアンドリュー様のお客人です」
執事がカルロスを紹介する。
「当主マクミラン様には三人のご子息がおられまして、このカルロス坊ちゃまは三男にあたられます。まだまだやんちゃ盛りでして……」
「そうなんですね。元気があっていいと思いますよ」
領主の息子が、路地裏で一人で遊び回っていたのか。
少し意外に思ったが、ゲームやファンタジーの世界では「お忍びで街に抜け出すお転婆な姫や元気な王子」というのは定番のイベントである。
「こんにちは、カルロスくん。お怪我はないですか?」
イザヨイは以前のことを思い出し、屈み込んでカルロスと目線を合わせた。
ドレスの胸元が強調され、甘い香りがふわりと少年の鼻先を掠める。
カルロスの顔は、昨日の路地裏の時以上に、頭から湯気が出そうなほどに沸騰した。
「あ、う……う、うん! だいじょぶ……です!」
「ふふ、なら良かった」
イザヨイは優しく微笑み、軽く会釈をしてから立ち上がった。
中身はおっさんだが、子どもへの対応は割と慣れているつもりだ。
「では、私はこれで。またね」
「う、うん……ばいばい……」
カルロスの蚊の鳴くような返事を聞き届け、イザヨイは執事の案内に従って再び玄関へと歩き出した。
馬車が待つ外の光が差し込む扉へと向かう、その優雅な後ろ姿。
だが、イザヨイは全く気付いていなかった。
背中を向けて歩き出した彼女を、カルロスがその場に立ち尽くしたまま、食い入るような……まるで初恋を拗らせた少年の、熱に浮かされたような強烈な視線で見つめ続けていたことに。
「……おねーちゃん、やっぱり……すっげぇ……」
カルロスは誰にも聞こえない声で呟き、自分の胸をギュッと押さえた。
路地裏での衝撃と、今目の前で見た女神のようなドレス姿。
十歳の少年の心に、決して忘れられない強烈な刻印が刻まれた瞬間だった。
イザヨイを乗せた豪華な馬車は、領主の館を後にし、過保護な仲間たちが待つ宿屋へと向かって静かに走り出すのだった。




