迷いの森①
「イ、イザヨイ様……っ、ここッス……!」
鬱蒼と茂る『迷いの森』の薄暗い木漏れ日の中、ポックが肩で息をしながら足を止めた。
彼が立ち止まった理由は、魔物の気配を察知したからでもあるが、何よりこれ以上背中の『天国』に耐え続けると、獣人としての理性が本能に敗北してしまいそうだったからだ。
「あ、ありがとうポックくん! 助かったよ。すっごい速かったね」
イザヨイはポックの背中からヒラリと降り立ち、皺を整えながら明るく労った。
背中から圧倒的な質量と温もりが離れ、ポックはホッと安堵の息を吐きつつも、どこか猛烈に寂しいような、名残惜しいような複雑な感情に襲われ、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
「はぁ……はぁ……オイラ、もう一生分の……幸せを……」
「ん? どうしたの?」
「な、なんでもねぇッス!! ほら、見てくだせぇイザヨイ様! あそこッス!」
ポックは鼻をひくつかせ、獣人特有の鋭い嗅覚と聴覚を必死に働かせる。
腐葉土の匂いに混じる、微かな魔物の死臭と、焦げたような不快な空気。
「この辺りは、一見ただの森だけど……」
イザヨイは数歩進み、ある場所でしゃがみ込んだ。
太い木の幹が不自然にへし折られ、地面の草花が、まるで巨大なブルドーザーが通ったかのように、街の方向へ向かって無残に踏み荒らされている。
「なるほど。ここが魔物たちの『進軍ルート』だったわけね」
「はいッス。あのスタンピードは、間違いなくこの奥から発生してたッスよ。オイラが隠れて見てたのも、ちょうどあのデカい倒木の辺りッス」
ポックが指差す先。
そこは、道なき道のさらに奥、より広範囲に渡って木々がなぎ倒され、クレーターのようにぽっかりと開けた不気味な空間になっていた。
魔物の足跡や、獣の糞、千切れた毛皮などが散乱しており、ここが千の魔物たちの『集合地点』だったことは火を見るよりも明らかだ。
「……で、親玉はどこだ?」
イザヨイが警戒しながら周囲を見渡す。
ポックも腰の短剣を抜き、犬耳をピーンと立てて周囲の音を探った。
その時だった。
『――ふふ。まさか、追客が来るとはな』
森の奥から、乾いた男の声が響いた。
どこから発せられたのか分からない、しかし鼓膜に直接響くような、気味の悪い声。
「ッ!? イザヨイ様、気をつけてくだせぇ! あそこッス!!」
ポックが牙を剥き出しにして、倒木の向こう側を指差した。
靄がかった森の暗がりから、音もなく『それ』が姿を現した。
全身を黒く、ボロボロのローブのようなフードで覆い隠した人型の影。
身長はイザヨイと同じくらいだが、その足元は地面に触れておらず、フワリと数センチ宙に浮いている。
そして何より、そのフードの奥――顔があるはずの場所には、真っ黒な『瘴気』の渦が蠢いているだけで、目も鼻も口も存在していなかったのだ。
「……お前が、あの魔物たちを操ってた元凶か?」
『操る? ククク……愚問だな。我らはただ、生まれ出る者たちの通り道を開いただけのこと』
顔のないフードの男は、両手を広げて大仰な仕草をとった。
「通り道……? アンタ、何者だ!」
『我らは《幽世》の住人。このかりそめの現し世に、深淵の理をもたらす者』
「幽世の、住人……?」
イザヨイの目が驚きに見開かれた。
(なんだそれ? そんな設定、エターナルクレイドルにあったか?)
『エターナルクレイドル』における敵対勢力は、魔王軍や古代兵器、あるいは邪神の眷属といったものだったはずだ。
『幽世』などという死後の世界を思わせるようなキーワードは、イザヨイのカンスト知識のどこを探しても存在しない。
(いや、拡張パッチの設定か? それとも、この世界独自のオリジナル展開……!?)
未知の存在。
ゲームの知識が通用しない不確定要素の登場に、イザヨイの背筋にゾクリとした警戒感が走った。
『さて、招かれざる客人よ。深淵の底を覗いた代償、その命で払ってもらおうか』
フードの男が腕を振り上げると、周囲の地面から、再びあの『黒い瘴気』が間欠泉のように噴き出し始めた。




