9. 異世界生活2日目
異世界2日目の朝、俺は相部屋の板張りの上で目を覚まして、しばらく天井を見ていた。むき出しの梁の上に埃が積もっていて、そこに窓からの光が斜めに当たっている。
……ここ、どこだ。
思い出すのに、少しかかった。あぁ、異世界に来たんだった。
寝心地は最悪だったはずだが、藁袋に沈んだ瞬間に意識が落ちて、そのまま朝まで一度も浮いてこなかった。この手の話だと、主人公は転移初日の夜に「元の世界のことを思って眠れない」ものだと相場が決まっている。
窓辺で二つある月を見上げて、置いてきた誰かの顔を思い浮かべたりするやつだ。俺は他人のいびきに混ざって爆睡していた。感傷というのは、たぶん体力のある人間の贅沢品なのだと思う。
起きて最初にやったのは、所持金の確認だった。
結果、なし。
昨日稼いだ銅貨8枚は、割った瓶の弁償と、立て替えてもらった入市料と、寝床と、飯に、きれいさっぱり消えていた。つまり今日働かなければ、今夜は寝るところがない。
俺は、そこでようやく本当のところを理解した。異世界に来ても、無職は無職なのだ。
むしろ悪化している。日本の俺には実家があった。何もしなくても屋根と食事が勝手にあって、俺はそれを「あるもの」だと思っていた。ここには何もない。昨日、木札をもらって少し泣きそうになった俺は、大事なことを見落としていた。あの札は「今日この街にいていい」という証明であって、「明日も飯が食える」という保証ではないのだ。
1泊が銅貨3枚。一番安い食事が銅貨1枚。合わせて銅貨4枚。それが、俺がこの街でただ生きているだけでかかる金額だった。
……まず、生活を整える。
世界を救うでもなく、帰り方を探すでもなく、毎日銅貨4枚を稼ぐ。話はそれからだ。
腹が鳴った。盛大に鳴った。決意の直後に鳴るのは、本当にやめてほしい。とりあえずご飯を食べに行きますか。
◇
昨日、宿代に朝ごはんはついているということを説明されたので食堂へ向かう。朝から空腹に悩まされずにすむ。
1階の食堂に降りると、厨房の女が昨日と同じ顔で椀を突き出してきた。
粥は薄くて、塩気しかなかった。麦の粒が少しと、名前のわからない青菜が入っている。日本で出されたら、たぶん俺は半分残した。それでも飲み下すと腹の底が温かくなって、指先まで血が通う感じがした。
……体って、こんなにわかりやすかったのか。
◇
椀の底をさらいながら、俺は今日これからどうするかを考えた。考えはじめて30秒で、例のやつが浮かんできた。
現代知識チートである。
この手の話の花形だ。石鹸を作って売る。蒸留酒を作って貴族に取り入る。マヨネーズを作って姫を落とす。そのへんで水車を回して、活版印刷をはじめて、気がつくと商会の頭になっている。
……やるか。
俺は、真剣に手順を思い出そうとした。
石鹸は、たしか油と灰だ。灰。……何の灰だ。どの木を燃やす。どのくらいの割合で混ぜて、煮るのか、寝かせるのか。蒸留酒は蒸して冷やす。それは知っているが、蒸して冷やすための装置が何でできていてどんな形をしているのかを、俺は1つも描けない。マヨネーズは卵と油と酢だ。これは自信がある。ただ俺は、生まれてから一度も自分で料理をしたことがない。
そこで、決定的なことに気づいた。
スマホがない。
俺の知識は、全部「あとで調べる」を前提に組み立てられていた。手順の8割は検索が肩代わりしてくれるから、俺が覚えていたのは残りの2割……というより、「そういうものが世の中に存在する」という一点だけだったのだ。
その検索窓が、いま、ない。
……ということは、俺の頭に本当に入っている使える知識は、この粥1杯ぶんもないかもしれない。
俺は椀を置いた。まあ、いい。仮に灰の種類を思い出せたところで、それを試す釜も油も買えない。無双というのは、元手がある奴の遊びだ。
……とりあえず、今日の宿代を稼ぐか。
異世界2日目の当面の目標が、宿代。世界の危機は、いまのところどこにもない。
◇
ギルドの掲示板の前に立ってみたが、当然、1文字も読めなかった。蚯蚓がのたくったような字が木札にびっしり並んでいる。この世界の依頼票は、たぶん親切に書いてあるのだと思う。俺に読めないだけで。
俺はカウンターへ回った。丸眼鏡のノエラさんが、昨日と同じ席に、昨日と同じ姿勢で座っている。
……この人、いつ寝てるんだ。
「おはようございます、ヤマダさん。よく眠れましたか」
「おはようございます。……はい、意外と」
「それは何よりです。相部屋は、いびきの方が1人いると全滅しますので」
そういうとノエラはこちらに向き直し、真面目な声で言った。
「ヤマダさん。業務上の確認を、1つさせてください」
俺は背筋を伸ばした。なにかやらかしたのだろうか。
「昨日から今日にかけて、体を洗う機会はありましたか」
……。時間が、止まった。
「……ないです」
……ああ。俺は自分の襟元をほんの少しだけ持ち上げて、嗅いだ。嗅がなければよかった。
森を歩いて、地面に転がって、汗をかいて、そのまま寝た。当たり前といえば当たり前だ。
「すみません」
「謝らなくて結構です。私が黙っていたせいで、あなたが今日1日、依頼人に同じことを思われるほうが、こちらとしては困ります。うちが紹介した人ですので」
彼女は票を1枚抜き出した。
「北通りの溝さらい。銅貨4枚。それと、これには公衆浴場の札が1枚つきます。北通りの仕事はとにかく汚れますので、市が浴場と話をつけて、依頼票に札を挟んでいます。受けた方は、その日のうちなら入れます」
……汚れる仕事のあとに、風呂がついてくる。
「あの。これ、俺が臭いから回してくれてます?」
「その要素はあります」
即答だった。
「……はい。ありがとうございます」
俺は深く頭を下げて、逃げるようにギルドを出た。
◇
北通りの排水溝は、想像よりずっと本格的だった。通りの脇に石で覆われた溝がまっすぐ通っていて、蓋は一定の間隔で外せるようになっている。手をかけるための窪みまで彫ってあった。1枚外すと、下から冷たい風と、はっきりと嫌な匂いが上がってきた。
組んだのは、俺よりずっと年上の作業員だった。日に焼けていて、腕だけが妙に太い。名をハトという。
「若いの、下に降りろ。俺が受け取る」
「はい」
というわけで、俺が溝に入って泥を掻き、ハトさんが上で桶を受け取る係になった。
最初、俺は「収納があるから楽勝だ」と思っていた。実際、掻き出した泥を掌に当てると、ちゃんと消える。
問題は、2つあった。
1つ、泥は思っていたよりはるかに重い。桶に半分ちょっと放り込んだあたりで、掌が「もういい」と言うのがわかる。それ以上はいくら押しつけても入っていかない。結局、1回で運べる量は人が担げる量と大差なかった。
減らしてくれるのは、桶を担いだまま梯子を上る危険だけだった。
「それは大きいぞ」
ハトさんは、上から言った。
「去年、桶を持ったまま足を滑らせた奴が肩を折った。ひと月仕事にならん。あんたは両手が空く。梯子は両手で掴め。……それだけで、あんたは俺より得をしてる」
……なるほど。それは、たしかに大きい。
2つ目の問題は、もっと間抜けだった。手袋をしたまま泥に触れても、収納が発動しないのである。布1枚挟んだだけで駄目だった。何度やっても駄目だった。つまり俺は、この能力を使うために、素手で泥を掴み続けなければならない。冷たくて、ぬるついていて、指の股に入ってくる。
……なあ、AI。
俺は心の中で恨み言を言った。異世界ものの主人公は、だいたい能力を格好よく使う。手をかざすと荷物が消えて、指を鳴らすと出てくる。俺は溝の底で、素手で泥を握っている。
はしごを握りながら、俺は少し笑った。まあ、これはこれでいい。少なくともこの仕事は、「誰かに教わらないとできない仕事」ではなかった。俺にもできる。この2日で一番はっきりした事実が、それだった。
◇
昼を挟んで、俺たちは通りを少しずつ下っていった。掻いては上げ、蓋を戻し、次の窪みへ移る。単純作業だが、単純だからこそ周りがよく見えた。
城壁の内側は、俺の知っている中世っぽい街そのものだった。石畳、木組みの2階建て、看板がわりに吊るされた金物や靴の模型。荷車。鶏。読めない文字。
ただ、ところどころ、妙に整っている。
まず、この溝がそうだった。通りの傾きに沿って掘られていて、水は放っておいても低いほうへ流れていく。蓋が外せるようになっているのは、誰かがときどき掃除をする前提で作られているからだ。
そしてもう1つ、物乞いが、ほとんどいないのだ。この規模の街なら、路地に何人か座っていてもおかしくない。少なくとも、俺の頭の中の「中世っぽい街」には必ず誰かが座っていた。
だが朝から夕方まで通りを見ていて、見かけたのは2人だけだ。しかもそのうち1人は、革の胸当てをつけた男に何か言われて、そのままどこかへ連れていかれた。
「あれ、捕まったんですか」
「教会だ。働けるなら仕事を回す。働けんなら施療院に入れる。どっちにしろ、路地に座らせたままにはしない」
「……なんで、そこまでするんですか」
「知らん。だが、座ってるのがいないほうが市は気分がいいんだろ」
彼は、それ以上説明しなかった。
◇
日が傾きはじめたころ、俺たちは最後の蓋を戻した。ハトさんは腰に下げていた木の板に、俺の分の印を押してくれた。作業完了証だ。
「これをギルドに出せ。報酬がもらえる。……おい」
彼は板を渡しながら、鼻の頭に皺を寄せた。
「先に風呂だ。あんた、朝も相当だったが、いまは別物だぞ」
……知ってます。1日で2回目だった。
俺は完了証を懐に押し込み、浴場の札を握りしめて、北通りをまっすぐ歩いた。




