8. 初めての労働
「では、今夜の寝床はどうしますか」
そうだ、まだその問題がのこっていた。どうしよう。お金は何も無いんだが。
「あの、お金が無いんですが」
「ですよね」
即答された。ノエラさんはそう言って、カウンターの下から3枚の票を持ってきた。読めないので読み上げてもらった。薬瓶の運搬が銅貨8枚、厨房の皿洗いが5枚と賄い、厩舎の清掃が6枚。
「今すぐ出来る依頼はこの辺りですね。3つ目は、匂いますのであまりおすすめしません」
「率直ですね」
「隠して受けさせても、途中で逃げられるだけですから」
この人、いいな、と俺は思った。
薬瓶は西通りの薬種商からギルド向かいの倉庫まで運ぶだけの仕事だが、中身が割れやすく、荷車だと石畳の振動で毎回いくつか割れるのだという。
「ですから、収納の術を申告された方に優先して回しています。門の記録が回ってきていますので」
俺は、自分の掌を見た。
「参考までに、ギルドでも宿を斡旋しています。相部屋は1泊で銅貨3枚、一番安い食事が1枚。銅貨10枚で銀貨1枚です。それとあなたには、入市料の立て替えが2枚あります」
報酬が銅貨8枚、そこから立て替え分の2枚を引いて、残り6枚。寝て3枚、食って1枚いるから、えーっと銅貨2枚が残るな。
「薬瓶にします。……あの、俺、これ、たぶん向いてます」
言ってから恥ずかしくなった。ノエラは票に書き込みながら、顔も上げずに答えた。
「向いているかどうかは、終わってから決めましょう」
俺は依頼票を受け取って、そこで思い出した。もうすぐ日が暮れる。
「……あの、受付って日没までですよね。これ、たぶん間に合わないです」
「間に合いません」
あっさり言われた。
「ですが、私は帳簿を締めるまで残ります。だいたい日没の1時間か2時間あとです。窓口は閉めますが、扉は開けておきます」
「……いいんですか、それ」
「よくありません」
彼女はペンを置いた。
「ですが、今日精算しなければ、あなたは今夜の宿代を払えません。それに、私が帰ったあとであなたが扉を叩き続けると、隣の宿の主人が明日、私に文句を言いに来ます。そちらのほうが面倒です」
……この人、理由がいつも実務的だ。でも、そのおかげで俺は「すみません」と言わずに済んだ。
◇
薬種商の店主は60くらいの小さな婆さんで、俺の格好に一度眉をひそめ、依頼票を見て納得し、奥から木箱を3つ運んできた。藁に埋めるようにして、細長い薄青のガラス瓶が並んでいる。首が長くて、見るからに繊細だった。
「全部で72本。1箱に24本ずつだ。荷車だと、いつも3本か4本は逝く。1本ずつ数えな。あたしは数えたよ」
数えた。箱の中は藁で仕切ってあって、細長い窪みが4列、1列に6つ。1箱で24本、3箱で72本。数も合っていた。1本ずつ掌に載せると、すっと消える。
全部入った。掌の中の感覚が変わって、「そこに瓶が72本ある」というのがなんとなくわかる。位置まではわからない。ただ、明らかに狭い。重さは感じないのに、「これ以上は入らない」という感覚だけがはっきりある。
……上限、思ったよりすぐ来るんだな。ガラス瓶72本で、俺の亜空間はほぼ満杯だ。ギルドのゴミ捨て場で石と枝を捨てておいてよかった。
「割るんじゃないよ」
「割りませんよ」
この空間ではそれぞれに干渉はしないのは石や枝での実験済みだ。割れることは無いだろう。
◇
薬種商の店から倉庫へ行く。
倉庫はギルドの向かいの地下だった。石段を降りると冷たい空気が足首を撫でる。床は硬い石で、ここで落としたら一発で終わる。
やることは単純だ。婆さんの店にあったときと同じ並びに戻せばいいだけである。
最初の1箱は、驚くほど順調だった。左手で出して、右手で受けて、藁の窪みへ寝かせる。慣れてくると手が勝手に動いて、頭が余る。余った頭で「これ、思ったより才能あるんじゃないか」などと考え始める。
24本目を置いて、2つ目の箱に移った。膝でにじり寄って、箱の位置を少し手前に引く。引いたつもりだった。実際には石の床の上で、箱の角が数センチずれていた。
そして俺の掌は、もう次の1本——通算25本目を出していた。出てきた瓶の底が、箱の縁に当たった。
——あ。
その瞬間だけ、世界がゆっくりになった。手を伸ばした。指先がかすった。かすっただけだった。
パン、と乾いた音がして、破片が石の床に散った。
血の気が引くというのは、本当に物理的な現象なのだと知った。指先から順に冷たくなっていく。倉庫番は、部屋の反対側で別の棚の帳面を見ていた。
……見ていない。
その事実が、真っ先に頭に浮かんだ。破片を拾って掌に入れれば消える。71本が箱に収まり、空いた窪みには周りの藁を寄せて潰しておけばいい。3箱のうち1箱だけ23本にしておけば、蓋を閉めた時点で誰にも見えない。数を数えたのは薬種商の婆さんだけで、その婆さんはもうここにいない。
……いけるぞ。
俺の頭の一部が、そう言った。これは知っている声だ。この2か月、俺はこの声とずっと一緒にいた。品出しを「売り場改善の提案」に言い換えたときの声。母さんに「今日面接どうだった」と聞かれて「まあまあ」と答えたときの声。あの声はいつも同じことを言う。今日だけごまかせば、明日はもっとうまくやれる、と。
俺は破片に手を伸ばしかけて——その手で、自分の膝を掴んだ。今日だけごまかして、明日うまくやれた試しが、1回もない。
俺は立ち上がり、大きく息を吸って、部屋の反対側へ声を投げた。
「すみません。1本割りました。俺のミスです」
声が、みっともなく震えていた。
倉庫番がランプを持って歩いてきた。破片を照らし、しゃがんで指で拾い、ふん、と鼻を鳴らす。
「安いほうだな。それ1本は銅貨2枚だ。あんたの報酬から引かれる」
「……あの、俺、まだ続けても、いいんですか」
「なんでだめなんだ」
その言い方があまりに素朴だったので、俺はうまく返せなかった。
「割った奴が続きをやらんかったら、誰が続きをやるんだ。俺か? 俺は今日、ここで帳面をつけるのが仕事だぞ。というかお前収納もちだろ。このまま持ち逃げする気か?」
彼は破片を袋に入れながら、面倒くさそうに続けた。
「先に言ったのはよかった。黙って詰められるほうが困るんだ。数が合わんと、うちが疑われるからな」
袋の口を縛って棚の下へ押し込むと、彼はそれきり帳面のほうへ戻っていった。
あとに残されたのは、俺と、蓋の開いた箱が2つと、まだ掌の中にいる47本の瓶だった。
……もう一度、最初からやる。
俺は、さっきまでの自分の手つきを思い返した。速かった。速くて、気持ちよかった。そして、箱を見ていなかった。出す前に、置く場所を確かめる。たったそれだけのことを、俺は1箱目の後半からやめていた。うまくいっていたからだ。
俺は箱を両手で掴んで真ん中に据え直し、床に膝をついて、目の高さを箱に合わせた。速度を捨てる。1本出す。両手で受ける。目で位置を確認して、置く。息を吐く。次の1本。
馬鹿みたいに遅い。倉庫番が明らかに退屈しているのがわかる。それでも、割れなかった。
残りは1本も割らずに、全部藁の中へ収まった。
「71本。割れが1本。……まあ、こんなもんだ」
「こんなもん、ですか」
彼は帳面に印をつけながら言った。
「何人かは割ってる。だいたい、2箱目へ移ったところでだ」
「なんで、みんなそこなんですか」
「1箱ぶん上手くいくと、慣れたと思うんだろうよ」
彼はこっちを見ずに言った。
「慣れたと思った瞬間に、手だけ先に動く。あんたもそうだったろ」
図星すぎて、俺は返事ができなかった。
「……それ、先に言ってくださいよ」
「言ったら1箱目から気を張るだろ。そうすると、今度は3箱目で割る」
彼は蓋を閉めて、留め具をはめた。
「どのみち1回は割るんだ。失敗するんだったら早いほうがいい」
……この人、わざと黙ってたのか。
◇
ギルドに戻ると、窓口はもう板で塞がれていたが、扉は言われたとおり開いていた。ノエラは灯りを1つだけ点けて、帳面の前に座っていた。
俺が倉庫番から預かった控えを差し出すと、彼女はそれに目を走らせ、自分の帳面と突き合わせてから、銅貨を4枚並べた。報酬8枚から、破損の2枚と入市料の2枚を引いた残りだ。
「……すみません。初日で割って」
「なぜ謝るんですか。私はあなたの上司ではありません。損をしたのは薬種商とあなたです」
彼女は帳面をめくって、ペンの先で3か所を指した。
「ですので、事実だけ言います。72本のうち71本が無傷で納品されました。荷車の平年実績は3から4本の破損です。破損から報告までの時間は、ほぼ0。控えに『本人より即時申告』とあります。そして破損後、残りの47本を無破損で完了しています」
彼女は顔を上げた。
「ヤマダさん。私が今日評価しているのは、あなたが割らなかったことではありません」
俺は、まばたきをした。
「割ったあとに、手を止めて、知らせたことです」
何か言おうとして、言葉が出なかった。
「割ったときに黙る人は、2回目から呼ばれません。数が合わなくなると、その現場の全員が疑われるからです」
彼女はペンを置いた。
「あなたは呼ばれますよ」
俺は、カウンターの上の銅貨4枚を見た。それから、自分の掌を見た。何か言おうとして、うまい言葉が出てこなかったので、かわりに、いま言える一番実務的なことを言った。
「……宿、お願いします。あと、飯も」
「はい。相部屋が3枚、一番安い食事が1枚。合わせて4枚です」
ノエラは木札を1枚と、四角い金属片を1つ、カウンターに並べた。宿の札と、食堂の引換札だそうだ。俺は、銅貨を4枚とも押し出した。カウンターの上から、銅貨が全部なくなった。
所持金、0。異世界1日目、収支ぴったり0。
……ふふ。俺は笑ってしまった。
「何かおかしいですか」
「いや。今朝までの俺、収入も0で、支出も0で、身分も0だったんですよ。それが今、収入8枚、支出8枚、所持0です」
「……差し引きは同じですが」
「同じじゃないです。全然」
ノエラはどうにも腑に落ちない様子だったが。眼鏡を押し上げて、帳面に何かを書き足した。
「薬瓶運搬、完了。これが1件目です。正式登録の条件は3件以上ですので、残り2件ですね。頑張ってください」
◇
夕食は、硬いパンと、豆と何かの肉が少しだけ入ったスープだった。金属の引換札を渡すと、厨房の女がおたまで椀に注いで、パンを1つ載せて、それで終わり。おかわりの概念はないらしい。
1階の食堂は、長机が3列。作業着の男たちが十数人、無言でかき込んでいる。会話がないのは仲が悪いからではなく、単に全員が疲れているからだと、座ってすぐわかった。
俺は端の席に座って、パンをかじろうとして、歯が滑った。石かと思った。
「そいつは水に浸せ。歯が折れるぞ」
向かいの男が、こちらを見もせずに言った。
「……あ、どうも」
「おまえ見ない顔だな。ここは初日か。舐めてかかると歯が欠けるからな」
それだけ言って、彼は自分の椀に戻った。俺は言われたとおりパンをスープに浸した。柔らかくなった。うまかった。
この街の人間は、必要なことだけ、ちゃんと教えてくれる。妙な街だな、と俺は思いながら、最後の一滴まで食った。
◇
相部屋は、ギルドの3階にあった。
階段を上がると、まず匂いが来た。汗と、革と、乾いた藁と、それから安い油の匂い。寝台が12。寝台といっても、木の枠に藁を詰めた袋を敷いただけのものだ。枠と枠のあいだは、人ひとりがやっと通れるくらいしかない。
窓は1つで、もう閉めてある。天井の梁から吊るされた油皿が2つ、部屋全体を頼りなく照らしていた。
すでに7人が入っていた。板の上で足の裏を揉んでいる男。壁にもたれて縄を編み直している男。上着を枕にして、もう寝ている男。誰も俺を見なかった。ここでも、俺は誰の関心も引かなかった。
寝台の脇には、それぞれ小さい木箱が置いてある。蓋はあるが、鍵はついていない。
「荷物は箱に入れて、大事なもんは枕の下だ」
案内の男は、それだけ言って階段を降りていった。裏を返せば、この部屋では物がなくなる、ということである。といっても、盗られるものなどないが。
割り当てられたのは、扉に一番近い寝台だった。藁袋に腰を下ろすと、がさり、と音がして、体がゆっくり沈んだ。
……前向き。前向きは無料。
そう思ってから、俺は板の上に横になった。天井の梁が見えた。埃が積もっていた。
誰かのいびきが始まって、別の誰かが寝返りを打って、それから、部屋の油皿が1つ消された。
異世界生活1日目終了。所持金0。思ったよりも異世界は世知辛いなぁ。
俺は目を閉じた。




