7. 初めてのギルド
冒険者ギルドの扉を押した瞬間、音と匂いが塊になってぶつかってきた。人の声、椅子が床を擦る音、奥から響く金属と革のこすれる音。なれない匂いと音に驚き、俺は扉のところで足を止めてしまった。
「さっさと入れ。とまるな」
後ろからガレスに小突かれて、俺はよろよろと前に出た。まあいい、うるさいのはいいことだ。うるさいということは、ここに仕事があって金が動いているということである。無音のギルドがあったら、そっちのほうがよほど怖い。
左手の壁に紙が何十枚も貼りつけられていて、その前に20人ほどが群がり、指を差しながら言い合っている。
……依頼票だ。
俺の中の何かが小さく声を上げた。冒険者ギルドの掲示板。読めないのは承知の上で、俺はつい背伸びをして、隣の男が読み上げているのをそのまま耳で拾った。
「北通りの溝さらい、銅貨4枚。安いな」
「こっちは井戸のつるべ交換だ。5枚だ」
「猫を探してくれって。婆さんのとこの猫、また逃げ出したのかよ」
……猫。
俺は、そこで動きを止めた。雑用が多いのか? いや待て、魔物は。討伐依頼は。角の生えた何かを倒してこいというやつは。
目を凝らすと、下のほうに怪物の絵のついた票が何枚か貼ってある。あれがたぶん討伐系だ。だが、どう数えても全体の半分にも届かない。
……そりゃそうか。
街というのは毎日誰かが溝をさらわないと成立しない。魔物が毎日出るような場所に、人が住み続けられるわけがない。よく見れば冒険者たちの装備もまちまちで、革鎧に剣を吊った一団はいるものの、多数派は作業着に近い格好をして、腰に下げているのも鉈だの縄だのだった。
そしてもうひとつ、想像と違うことがあった。
この手の話だと、ここで新人が絡まれるのが定番である。柄の悪い男が肩をぶつけてきて「おい新入り」とか言って、返り討ちにされて後で仲間になるやつだ。俺はスウェットに便所サンダルという、絡まれる条件をこれ以上ないほど満たした格好で立っている。
おそらくガレスさんが付いてるからだろうけど。
……よかった。心の底から、よかった。絡まれていたら、俺は返り討ちにするどころか、その場でない財布を差し出していた。
カウンターは奥に3つ並んでいて、2つは板で塞がれ、端の1つにだけ灯りがついている。塞がれた板には紙が貼ってあった。
「あれ、なんて書いてあるんですか」
「受付は日没まで、だ。夜に開けとくと酔った奴が絡むからな」
……営業時間があるのか、ギルドに。
妙な感動があった。24時間営業の冒険者ギルドなんて、たしかにどこにも存在しない。
開いている窓口の前には5人ほど並んでいた。列の脇に木札の箱があり、みんな1枚ずつ取っている。俺は慌てて手を伸ばし、勢いあまって3枚まとめて掴んだ。
「1枚だ」
「あっ、すみません」
2枚を戻す手が汗で滑って、1枚が床に落ちた。拾って、並んで、前の人の背中を見つめながら、俺は自分の心拍がまったく落ちないのを感じていた。
そして、カウンターの向こうを見た。
——受付嬢。
「ノエラ」
顔を上げたのは、丸眼鏡をかけた女性だった。髪は灰褐色で、一本に編んで肩の前に垂らしている。年は俺より少し上くらい。袖口をきっちり留めていて、指先にインクの染みがあり、目の下がわずかに疲れていた。
その丸眼鏡が、俺を上から下まで見た。スウェット、上下おそろい、便所サンダル。
彼女は眼鏡の位置を指で直すと、俺ではなくガレスのほうを見た。それから、何も聞かないうちに帳面の途中のページを開いて、羽根ペンを取った。
「……仮登録ですね」
「まだ何も言ってないぞ」
「ガレスさんがこの時間に人を連れてくるのは、それしかありませんから」
彼女は、慣れた手つきで書き出しの1行を埋めていく。
「今月に入って4人目です。西門だけで」
「多いか」
「多いです。月末で行商が増えますので。……ガレスさんお勤めご苦労さまです。交代の時間、とっくに過ぎてませんか」
「過ぎてる」
「奥さんに怒られますよ」
「はは、大丈夫だ。これから怒られてくる」
ガレスは平然と言って、俺の情報を短く申し送った。身分証なし、無一文、収納の術を申告済み、検知具の記録は詰所。ノエラはそれを聞き返しもせずに書き取っていく。順番も、言い回しも、たぶん毎回同じなのだろう。
……この2人、これを何回もやってるな。
俺は、そのやりとりを見ていて、少しだけ肩の力が抜けた。俺は特別な事件じゃない。今月4人目の、いつもの手続きなのだ。
申し送りを終えると、ガレスはあっさり踵を返した。
「あっ、あの!」
振り向いた顔は面倒くさそうだった。それでも俺は言った。
「……ありがとうございました」
ガレスは片手を上げてひらひらと振った。
「明日も門にいる。妙なことをするなよ」
俺は、その背中が扉の向こうへ消えるまで見ていた。この世界で最初に俺と口をきいた人間が、あの人でよかったな、と思った。
◇
「ヤマダさん。私はノエラです。先に2つ確認させてください。答えによって手続きの形式が変わるので」
「は、はい」
声が裏返った。彼女は聞かなかったことにしてくれた。
「1つ目。読み書きはできますか」
……来た。
口の中が乾いた。「できます」と言えば、たぶんその場は通る。だが通ったあとが地獄だ。書類を渡されてその場で固まる自分が、はっきり見えた。嘘はバレたときに一番高くつく、というのは、ついさっき門で学んだばかりである。
「できません。話すのは大丈夫です。でも文字は、まったく読めません」
「はい」
ノエラは表情ひとつ変えずにうなずいて、帳面に書き込んだ。それだけだった。笑われもしなかったし、憐れまれもしなかった。俺の心臓が、ようやく少し落ち着いた。
「2つ目。登録上の出身地をどう記録しますか。ここは正確さより一貫性が大事な欄です。虚偽が判明した場合、登録は取り消され、それまでの実績も無効になります。確実に言えないなら、出身不明をおすすめします」
嘘をつく道はまだあった。「西のほうの出身」とでも言えば通るだろう。だがそれを言った瞬間から、俺は一生その辻褄を合わせ続けることになる。村の名を聞かれるとか、訛りを指摘されるとか、同郷の人間に会うとか。
「出身不明で、お願いします」
彼女のペンが走った。今度は少しだけ長く書いていた。
そこから説明されたのは、こういうことだった。出身不明者は鉄級の仮登録から始まる。階級は下から鉄、銅、銀、金、白金。確認期間は30日で、そのあいだ重大な違反を起こさず、依頼を3件以上完了すれば、正式登録の審査を受けられる。
「審査を受けられる」
俺はそこを繰り返した。ノエラの眉が、わずかに上がった。
「よく聞いていますね。そうです。通るとは言っていません」
「……ですよね」
書類選考が通っても内定ではない。これまでの経験で骨の髄まで理解している。
「読み書きができない方には、規約を私が読み上げます。別の職員に立ち会ってもらい、拇印を押していただきます」
「……読み上げてもらっても、書いてある通りに読んでるかは、俺にはわからないですよね」
言ってから、まずかったかな、と思った。目の前の人を疑う発言だ。ところがノエラは気を悪くするどころか、むしろ少し姿勢を正した。
「それが立会人の意味です。読むのは私、聞くのは私とあなたともう1人。違うことを読めば立会人が気づきます。それと、写しをお渡しします。今のあなたには読めませんが、後日、信用する誰かに読んでもらえます」
俺は、その紙を見た。やっぱり1文字も読めない。角ばった線の集まりでしかない。
立会人制度……読めない人間が、読めないまま不利にならないための仕組みだ。誰かが過去に不利益を食らって、誰かが怒って、それでこの手続きができたんだろう。制度というのは、だいたいそうやってできる。
読み上げは5分くらいかかった。後半は集中力が切れかけたが、最後まで聞いた。メモが取りたい。テンプレだと聞いたことは全部覚えている記憶力がいい主人公が多いが、どうやら俺はそうでは無いようだ。
内容としては過失による破損の弁償は依頼の報酬額が上限であること。債務の取り立ては報酬からの差し引きだけだが、踏み倒した事実は他支部にも通知されること。そして、虚偽申告で得た登録は遡って無効になり、それまでの実績も報酬の権利も消えること。
……門で「田舎から来た」と言っていたら。背筋が、すっと冷たくなった。
拇印は、思ったより緊張した。朱に指を浸すところで力が入りすぎて親指を第一関節まで真っ赤にし、ノエラに布を借りた。押す位置も間違えかけて、「そこは日付です」と止められた。やり直しの利かない紙に指を押しつけるとき、手が震えた。
「はい、仮登録おめでとうございます」




