10. スウェットの値段
公衆浴場は、思っていたよりずっと立派だった。石造りで天井が高く、湯気で向こうの壁が見えない。爺さんたちの声だけが、やたらと反響していた。札を渡すと、番台の婆さんが木の桶と擦り布をくれて、「洗ってから浸かりな。逆をやると、そこの爺さんたちに怒鳴られるよ」と言った。
……日本と同じだった。まさか異世界で銭湯のマナーが一致するとは思わなかったが、湯を全員で共有する以上、行き着く結論は同じなのかもしれない。
俺は言われたとおり、隅で頭から湯をかぶった。擦り布に灰色の石鹸らしきものを擦りつけて腕をこすると、泡はほとんど立たなかったのに、こすった端から指の跡が白く残った。
……こんなに汚れてたのか、俺。2日ぶんの汗と、森の土と、溝の泥が、順番に剥がれていく。
それから、湯船に足を入れた。入れた瞬間、声が出た。ものすごく情けない声だった。近くにいた爺さんが笑った。
湯は少しぬるい。だが肩まで沈むと、背中の筋が1本ずつほどけていくのがわかった。
……生きてるな、俺。それだけ思って、俺はしばらく何も考えなかった。
◇
脱衣所の脇に、洗い場があった。汲んだ湯で自分の服を洗っていいらしい。婆さんが「臭いのは向こうで洗いな」と顎で示したので、たぶんそういう場所だ。
俺は脱いだスウェットと下着を持っていって、湯に沈めた。3年目の紺の上下が、湯の中でだんだん重くなっていく。押すと、灰色の水が出た。もう一度押すと、また出た。
……そこで、俺の手が止まった。これ、洗ったあと、どうするんだ。
着替えがない。
俺の全財産は、いま湯に沈んでいる上下1組と下着、便所サンダル1足だけだ。この服を洗えば、乾くまで俺は着るものがない。かといって濡れたまま着れば、夜に冷える。今夜の寝床は板張りだ。
昨日まで、俺はこの服を「そういうもの」だと思っていた。着替えというのは、家の引き出しに勝手に入っているものだった。
……洗えない服は、洗わない服だ。
異世界転移、装備はスウェットと便所サンダル。その装備の意味を、俺は湯気の中でようやく理解した。これは「初期装備が貧弱」という笑い話ではない。俺には、替えがないのだ。
俺はしばらく、灰色の水に沈んだ自分の服を見ていた。
「兄ちゃん」
不意に声がした。振り返ると、50くらいの男が立っていた。丸まった背中に、指の太い手。腕には、洗い上がったらしい服を何枚も掛けている。
「さっきから見てたが……あんた、珍しい服持ってんな? なんだその奇妙な生地は。ちょっと見せてみろ」
「え? あ、はい」
男は服を湯から引き上げ、袖口の部分を太い指で挟み、ぐっと引っ張った。伸びる。手を離すと、元に戻る。彼は目を丸くし、もう一度引っ張り、戻るのを見た。3回目のあと、男の目の色が変わった。
「……おい、魔法でもかかってるのか? 紐も入ってないのに、なぜ縮む。どんな編み方をしてやがる」
「いや、編み方っていうか……たぶんそういう繊維なんだと思いますけど」
俺はそう答えたが、正直、繊維がどうのといった原理は知らない。使い方しか知らない物が、俺の世界には山ほどあった。 男は黙り込み、獲物を狙うような目で服の袖を見つめていたが、やがてバサリと腕の服を持って立ち上がった。
「ここは暗いし、湯気で目が利かん。……俺は西通りで古着を扱ってる、テオだ。あんたのその服、うちの店で詳しく見せろ」
「いや、でも俺、これしか服持ってなくて……」
「大丈夫だ取らねえよ! むしろ……いや、いい。とにかく来い」
有無を言わさぬ迫力だった。 俺は慌てて、ずっしり重くなったスウェットを絞り、素肌に直接袖を通した。
◇
店は、通りに面した間口の狭い平屋だった。中は壁という壁に服が掛かっている。棚に積むのではなく吊るしてあって、奥のほうはもう何が掛かっているのか見えない。
テオさんは俺のスウェットを台に広げ、蝋燭を近づけて縫い目に顔を寄せた。
「縫い目が揃いすぎてる」
彼は、爪の先で縫い目を辿った。
「人の手はこうはならん。どこかで必ず間隔が乱れる。疲れるからな。3人がかりなら3人ぶんの癖が出る。……これは、乱れてない。端から端まで、1つも。兄ちゃん、これ、誰が縫った」
「……知りません」
「知らんのか」
「知らないです。買ったので」
「買った店の人間も知らんのか」
「たぶん、知らないと思います」
テオさんは、しばらく黙って俺を見ていた。
俺のほうは、心臓が少し速くなっていた。ここで「機械が縫いました」と説明できたら格好いいのだが、俺はミシンの仕組みを説明できない。針が上下する。糸が絡まる。俺が知っているのは、それだけだ。
結局、俺が言えたのは、こういうことだった。
「俺のところでは、服は、誰が縫ったかわからないのが普通なんです」
「……そりゃあ、すごいな」
彼は、皮肉ではなく本気でそう言った。
「服を作った奴の顔を知らずに、それを着て寝るのか」
言われてみると、それは少しおかしなことだった。俺は、自分が着ていた物の出どころを、1つも知らない。
次に、彼は俺の足元を指した。
「それも脱いでくれ」
俺が便所サンダルを台に載せると、テオさんはそれを光にかざし、指で押し、爪で引っ掻き、最後に匂いを嗅いだ。
「継ぎ目がない。型に流したんだろう。だが、革でもない、木でもない、角でもない。……なんだこりゃ」
「わかりません、履いてただけなので」
彼はサンダルを台に置いて、腕を組んだ。
「兄ちゃん。俺は30年、人の着た物を見てきた。だから、たいていの物は何でできてるかわかる。わからん物を持ってこられたのは、これで3度目だ。うち2つは偽物だった。もっともらしい話をつけて、高く売りつけにきた口だ」
彼は、そう言って俺を見た。
「これは、偽物じゃない。……譲ってくれ。金でも物でもいい」
俺は、慎重に考えて、こう言った。
「……金で、お願いできますか」
テオさんは奥へ引っ込んで、すぐに戻ってきた。台の上に、銀色の硬貨を2枚並べる。
「銀貨2枚だ」
俺は、台の上の銀貨2枚を少しのあいだ見て、それから指でテオさんのほうへ押し戻した。
「……これで、服を見繕ってもらえませんか」
彼はしばらく俺を見て、それから、この日初めて、はっきり笑った。
「そりゃあ、いい客だ」
彼は立ち上がって、壁の服を掻き分けはじめた。
「言っとくが、銀貨2枚は服屋にとっちゃ大金じゃないぞ」
「……何が買えますか」
「聞け。まず、普段着の上下。麻だ。これがないと話にならん。……で、兄ちゃん、これは2組買え」
彼は、振り返った。
「洗った服が乾くまで着るもんがない。だから洗わん。洗わんから臭う。臭うから仕事が減る。仕事が減るから、2組目が買えん」
彼は、麻の上下を2組、台に放った。
「そこから抜けるには、どこかで1組ぶん、余計に持つしかない。次に、寝間着」
「寝間着、いりますか」
「いる。昼の服のまま寝ると、服が2倍の速さで死ぬ。そういう用の古いのがある。擦り切れかけてるが、寝るだけなら文句は出ん」
それから、肌着の替えが2枚。下着2枚、厚手の靴下が2足。あとは靴を見繕ってもらった。
俺はその靴に足を入れた。ぶかぶかで、底が固くて、お世辞にも履き心地は良くない。それでも、便所サンダルよりは、はるかに石を踏んでいる感じがしなかった。
「金が貯まったら、足に合うのを買え。うちで買え、とは言わん。靴は靴屋のほうがいい。……まあ、うちにも一応あるがな」
俺は、服屋で麻の上下に着替えた。
着た瞬間、驚いた。重い。厚い。ごわつく。肌に当たる面が、全部ざらざらしている。着心地でいえば、スウェットのほうが100倍いい。
……なのに。
なのに、これを着ていると、俺はこの通りを歩いていておかしくない人間になった気がした。鏡はなかったので、俺は自分の袖を見下ろしただけだ。それでも、わかった。
昨日から今日にかけて、俺は道を歩くたびに視線を拾っていた。ちらっと見られて、もう一度見られる、あの感じだ。あれが、たぶん、今日で終わる。
◇
店を出ると、日はもうだいぶ傾いていた。
それからギルドに戻って完了証を出すと、ノエラさんはそれに目を走らせ、自分の帳面と突き合わせてから、銅貨を4枚並べた。それから顔を上げて、俺を見た。
「馴染みましたね」
◇
俺は宿屋にいかず、ギルドの待合スペースにある傷だらけの丸テーブルに座った。
ギルドの1階には、順番待ちのための待合がある。天板は刃物の跡と、たぶん酒の染みと、誰かが彫った落書きでいっぱいだ。
机の上に、本日の全財産を並べてみる。くすんだ銅貨が4枚。これが今日の稼ぎのすべてだ。そこから、今夜の木賃宿の代金として3枚を脇に寄せる。残りは1枚。これで硬いパンとスープを胃に流し込めば、見事に手持ちはゼロになる。
……まあ、死にはしない。俺はテーブルに突っ伏し、今日一日を振り返った。
俺が元の世界から持ち込んだ物は、あの古着屋のテオとの取引でほぼすべてなくなった。かわりに手に入れたのは、この世界に馴染む麻の服だ。異世界転移の初期装備を失った。元の世界との繋がりが、また一つ消えた気がする。だが、洗えない服をいつまでも抱えているより、ずっとマシだ。これで明日からは、清潔な服で動ける。差し引きすれば、たぶん俺の得だ。
だが、金は1枚も増えていない。
……これ、明日も、明後日も、やるのか。
その考えが、静かに腹の底へ落ちてきた。
昨日までの俺は、正直、どこかでこう思っていた。異世界に来たのだから、そのうち何かが起きる。誰かが俺を見つけて、名前を呼んで、大きな話に連れていってくれる。
起きなかった。起きたのは、朝に粥を食って、溝に降りて、泥を掻いて、風呂に入って、服を買って、宿代を払って、また明日、というだけの生活だった。
これは、要するに——労働だ。
……母さん、毎日これやってたのか。
その考えが浮かんだ瞬間、俺は自分の手を見た。爪の間に、洗っても落ちなかった泥が残っていた。
うちに父親はいない。母さんは俺が小学生のころからずっと働いていた。朝、俺が起きる前に出ていって、夕方に帰ってきて、それから飯を作る。俺はそれを20年、当たり前の風景として食ってきた。
……1人ぶんで、こんなにきついのに。俺は膝の上で手を握った。そして、扉の外に置かれた皿の下のメモを思い出した。
——明日は一緒に朝ご飯だけでも。
あれを読んで、俺は皿の下に戻した。それが最後だ。
……返事、しとけばよかったな。
いまさら思っても、どうしようもない。ここから返事を出す方法を、俺は1つも知らない。
だから、せめて、と俺は思った。
まず、生活を整える。服は今日で揃った。そのあとで、1日の生活をもう少し上へ持っていく。余裕ができたら、この世界のことを調べる。帰り方があるのかないのか、それを聞ける相手を探す。
順番は、これでいい。
俺は、明日の段取りを頭の中で組み立てはじめた。朝の粥。ギルドの窓口。仕事。夜は浴場の札がないから、体だけ拭く。それから、寝間着に着替える。
そのとき、後ろから声がした。
「——あの、ヤマダ・ナオトさん、ですね」
不意に背後から声をかけられ、俺はビクッと肩を揺らした。




