5. リュネの街
結論から言うと6キロは遠かった。距離そのものは大したことがない。駅まで2キロを毎日歩いていた時期だってある。問題は、俺の運動不足と足元がずっと土と落ち葉と木の根で、しかも靴が便所サンダルだったことだ。
俺は歩きながら《手のひら倉庫》の試験をしていた。石を入れて出し、枝を入れて出し、右手で出したものを左手で受けてまた入れる。
最初はいちいち「入れ」と念じないと動かなかったのが、20回目あたりから掌が触れた瞬間にすっと消えるようになった。なるほど、これが習熟か。倉庫は広くならない。俺の手が、扉の開け方を覚えるだけだ。
ついでに限界も試した。道端に落ちていた腕くらいの太い枝は、持ち上がるのに掌を当ててもうんともすんとも言わなかった。重さではなく、たぶん長さのほうで弾かれている。30リットル、修学旅行のリュック。あれに長い枝は入らない。俺はその仮説を頭の隅に置いた。あとで覆るかもしれないが、何もないよりはるかにましだ。
こう書くと有能そうだが、実態はスウェット姿の男が森の中でぶつぶつ独り言を言いながら石を出したり消したりしているだけである。傍から見たら、まあ、通報される絵面だ。
◇
しばらく歩いていると森が薄くなって、木の切れ間から金色の光がまっすぐ差し込んできた。抜けた先には、平たい麦畑が広がっていた。
そして、その向こうに。
「……うわ」
壁だった。石を積み上げた城壁が、地平線を横切るように伸びている。高さは10メートル以上ありそうで、等間隔に丸い塔が突き出していた。壁の内側からは屋根がびっしり覗いていて、細い煙が何本も立ち上っている。
俺は、しばらく足を止めてそれを見ていた。異世界に来たという実感が少し出た。そんなことを考えていると腹が、ぐうと鳴った。そういえば母さんのご飯、食べ損ねたな。街に行ったら何か食べたい。
また歩きはじめ、壁へ向かってい進んでく。畑の縁を通る道に出ると、そこからは1人ではなくなった。
最初にすれ違ったのは、麻の服を着た老人だった。背負い籠に青い葉物を山ほど積んで、俺のほうを一瞥して、それきり興味を失った。ただそれだけのことだったのに、俺は心臓がおかしな速さで動くのを感じていた。
人だ。異世界の人だ。
実際に見ると、なんというか、普通だった。肌の色も、目鼻の配置も、俺と同じ人間のそれで、耳も丸い。ただ、服の縫い目が太い。糸が見える。あれは機械で縫っていない。それに気づいた瞬間、俺の中で「異世界」という単語が、ようやく設定ではなく現実の手触りを持った。
道が門に近づくにつれて、人の密度が上がった。荷車を引く男が2人がかりで轍にはまった車輪を持ち上げていて、その横で女が何か怒鳴っている。麦の袋を積んだ台車。鶏を吊るした棒を担いだ男。裸足で走り回る子どもが3人、俺の脇をすり抜けていって、そのうち1人が俺のサンダルを二度見した。見るなよ、と思った。
匂いも濃い。土と、家畜と、干し草と、それから何か焦げた油みたいなにおいが混ざって、風の向きが変わるたびに順番に鼻へ来る。
列の前のほうに、背の低い男がいた。俺の胸くらいの高さで、横幅は俺の倍近い。腕が丸太みたいで、黒い縮れ髭が胸まで届いている。
……えっ。
俺は、危うくまた声を出すところだった。ドワーフだ。あれ、たぶんドワーフだ。少なくとも、俺の知っているドワーフの図像とほぼ完全に一致している。ということは、この世界には人間以外の種族がいる。ということは、エルフもいる可能性がある。獣人も。
俺は列の最後尾に並びながら、必死に周囲を見回した。長い耳は、見つからなかった。まあいい。1日目でドワーフが見られたなら、十分に上出来だ。
興奮が落ち着いてくると、今度は目の前の現実が見えてきた。
門の下では、衛兵が1人ずつ客を捌いている。荷車の男は木の板みたいなものを見せて、一瞥されて、通された。次の女は布の袋を開けて中を見せ、通っていった。
……身分証だ。異世界によくある市民権だろうか。そりゃそうだろうな、不審人物を簡単に通すわけがない。
持っていない俺はどうなるんだ、と考えたところで、胃のあたりがすっと冷たくなった。
そして同時に、耳のほうでも別のことに気づいた。衛兵が何か言っている。「次」とか「開けろ」とか。その声が、日本語ではない。音として聞けば、子音の詰まり方が違う、喉の奥で鳴らす音の多い、まったく知らない言語だ。なのに意味がわかる。字幕がついているのとも違って、音と意味が直結している。
……本当に分かるんだな、俺。
それは少しだけ心強かった。心強かったが、身分証がもらえるわけではない。
逃げ出そうと思ったが、森で野宿するのも無理だし、仕方なく列に並んだ。まあ、どうにかなるだろうという気分だ。
列が進んで、俺の番になった。
◇
衛兵は30過ぎくらいの男だった。短く刈った髪。日に焼けた顔。鎖帷子の上に濃紺の上着を着て、短槍を壁に立てかけている。目つきが疲れていた。1日中これをやっている人間の目だ。俺は面接官の目つきを見分けるのだけは得意だったので、この人が意地悪ではないが面倒は嫌いなタイプだというのは、なんとなくわかった。
その目が、上から下まで俺を見た。紺のスウェット、上下おそろい、よれた襟。そして便所サンダル。
彼の眉が、はっきりと寄った。
「……見慣れない服装だな。その格好はなんだ」
「あー、えっと、これは、スウェットで」
「すうぇっと」
通じてはいる。通じてはいるが、概念が届いていない。
「まあいい。身分札か旅券を出せ」
「……ないです」
「ない」
「はい」
彼はため息をついた。怒鳴りはしなかった。
「ないなら、出身の申告と入市料だ。銅貨2枚。それで今日は通してやる」
銅貨2枚。高いのか安いのかは、俺にはまったくわからない。だが、そんなことはどうでもよかった。問題は、俺の所持金が0枚だという点にある。
俺の頭は猛烈な速度で回り始めた。落ち着け。落ち着け山田。これは面接だ。面接だと思え。想定問答を組み立てろ。
選択肢1、正直に言う。「出身は日本でお金はない」——だめだ。絶対だめだ。頭のおかしいやつか密偵か、そのどっちかだと思われる。物語だとだいたい牢屋に入れられる。
選択肢2、嘘をつく。「田舎から出てきたんですが、途中で荷物を全部なくしまして」——これはいい。かなりいい。服装の説明もつくし、身分証がない理由にもなる。
ただ入市料が払えない。嘘をついたところで、金がないという事実は1ミリも動かない。詰みだ。完璧に詰んでいる。
……と、そこまで考えて、俺は衛兵の顔を見た。彼は、目を細めて、じっとこちらを見ていた。
なんだろう。なんでそんな顔を——
「お前、今の全部、口に出てたぞ」
……え?
「日本から来たと言えば牢に入れられる。田舎から来て荷物をなくしたことにすればいい。だが入市料も払えない。……これで合ってるか」
俺は自分の口を両手で押さえた。遅い。あまりにも遅い。
これは俺の悪い癖だ。緊張すると考えごとが声になって漏れる。子どものころ、テスト中に「これわかんねえな」と言って怒られたことがある。最終面接の控え室で「もう無理だな」と言って、隣の学生に妙な顔をされたこともある。最近は部屋にこもってからは誰も聞いていなかったので、この癖は伸び放題になっていた。
「あの、これは、その」
「黙れ。列が詰まる」
彼は片手を上げて俺を止め、後ろをちらりと見てから、面倒くさそうに息を吐いた。
「整理するぞ。身分証なし。金なし。おまけに俺に嘘をつくところまで考えた。合ってるな」
「……合ってます」
「よし」
よし、じゃないだろ。俺は覚悟した。牢屋だ。異世界1日目にして牢屋。倉庫の中には枝と石しか入っていない。ところが、彼が親指で示したのは、門の内側にある小さな石造りの建物だった。
「列から外れろ。そこの詰所に入れ。金のない連中はそっちで処理する」
「……牢屋じゃなくて?」
「牢は金がかかるんだよ。飯を食わせなきゃならんし、見張りもいる。銅貨2枚が払えん男を放り込んで、誰が得をするんだ。俺の仕事が増えるだけだ」
彼は、あっさりそう言った。ものすごく現実的な理由だった。だが、その現実的さが、なぜか、ありがたかった。




