4. 手のひら倉庫
確かに無限なんて1文字も書いていなかった。勝手に無限だと思ったのは俺だ。「収納」という単語を見た瞬間、俺の頭の中で無限が標準装備としてくっついてきた。
読んできた話ではだいたい無限だったからで、要するに俺は、この世界の説明文ではなく自分の記憶を読んでいたわけだ。
この痛みには覚えがあった。面接で「弊社の主力事業はご存じですね」と振られて、知っているつもりで答えて、まるで違うことを口走ったときのやつだ。あのときも俺は、事前に調べなかった。だいたいわかる、と思っていたからだ。
……まあ、いい。10キロでも、両手が空くというのは思っているより大きいはずだ。俺はそう自分に言い聞かせて、顔を上げた。
そして、板の右上に、さっきまでなかったものが出ているのに気づいた。
『応答可能回数:残り6』
……は?
「おい、待て。それ、なんだ」
『本補助の初期案内は、応答5回をもって終了します』
AIの利用制限かよ!
『現在、残り5』
というかさらっと数減ってないか? さっきの質問判定かよ。厳しいぞ!
俺は、しゃがんだまま、両手で顔を覆った。
……これ、あれだ。最終面接の、最後のあれだ。
「では、最後に何かご質問はありますか」
俺はあれを何回もやった。制限時間は5分、聞ける数はだいたい2つか3つ。毎回、当たり障りのないことを聞いて終わった。御社の社風を教えてください、とか、入社までに勉強しておくべきことはありますか、とか。あれは質問ではなく、質問をした事実を作るための儀式だった。
でも、今回は違う。今回のこれは、本当に、聞いたぶんしか返ってこない。俺は、地面の土に指で線を引きながら、聞きたいことを並べ始めた。
帰り方。魔王の有無。この世界の通貨。魔法は使えるのか。俺以外に日本人はいるのか。この石の環は何なのか。さっきの鐘は誰が鳴らしたのか。AI、お前は何者なのか。
……多い。これを5つに絞る。俺は膝を抱えて、その作業に入った。
絞り方には、俺なりの基準があった。あとから自力で調べられることは聞かない。町に着けば人がいて、人がいれば通貨の話も魔王の話も聞ける。逆に、いま聞かないと今日のうちに死ぬかもしれないことと、今後の行動の前提が丸ごと変わることを優先する。
「1つ目。能力は、鍛えたら伸びるのか」
『身体能力および一般技能は、訓練と経験によって向上します。段階的な数値上昇として自動的に発生するものではありません』
「レベルアップは、ない、と」
言ってから、しまった、と思った。
『ありません』
『残り3』
……やられた。相槌が1回に数えられた。
俺は自分の口を押さえた。この癖だ。考えごとが声になって漏れる、この癖。日本にいたころは誰も聞いていなかったから無害だったが、こっちでは料金が発生するらしい。
しかも、答えの内容も容赦がなかった。
『移送時の同伴補助は、通常の使用によっては性能が向上しません。《手のひら倉庫》については習熟により出し入れの速度と精度が改善しますが、これは操作者側の熟練であり、能力そのものの変化ではありません』
つまり、10キロは10キロのままだ。鍛えても増えない。ただ俺が上手くなるだけ。ステータスカードが無いのも仕様なんだろうな。
与えられた枠は変わらなくて、その中で自分がうまくなるしかない——それって、ただの努力じゃないか。異世界に来てまでこれかよ、と笑いそうになって、同時に、妙に肩の力が抜けた。
俺は、残り3つを慎重に選んだ。
「2つ目。ここはどこで、日没まであとどれくらいだ」
これは2つ聞いているように見えて、実は1つだ。どちらも「今日どこへ向かって何時間動けるか」という同じ問いの部品でしかない。板は、それを分けずに答えた。
『レグナ王国西部、鐘鳴りの森、東の縁。東へ約6キロメートルの位置に、城壁町リュネがあります。日没まで、およそ5時間』
『残り2』
……町がある。
6キロで、日没まで5時間。この足なら2時間は見ておくべきだが、それでも余裕はある。運動不足の便所サンダル男でも、たぶんなんとかなる距離だ。しかも城壁町ときた。壁があるということは、守るべきものと、守る仕組みがあるということで、つまり人が組織的に住んでいる。俺の心臓が、さっきとは違う速さで動き始めた。
「3つ目。言葉は通じるのか」
『言語処理を支援します。音声の理解および発話が対象です。文字は対象外です』
『残り1』
……音声のみ。
俺は、そこで血の気が引いた。振り返って、苔むした石柱の彫り文字を見る。角ばった、線の多い形。じっと見ても、1文字も意味を結ばない。
喋れるし、聞けるようだが、読めないし、書けないが確定した。
残り1か。俺は、地面に引いた線を見た。まだ消していない項目の中に、いちばん大きいやつが残っている。
——帰り方。指が、その字の上で止まった。
……いや。
俺は、そこで首を振った。今日の日没までに人里に着けなければ、帰り方を知っていようがいまいが同じことだ。それに、帰り方というのは、たぶん一言では返ってこない。「不明です」と返ってきた瞬間に俺の残り1が消えて終わりだ。
聞くべきは、そこじゃない。
「最後だ。俺は、この世界で何をすればいい?」
『移送に伴う必須任務は設定されていません』
俺は、息を止めた。
『当面の推奨事項——日没前に人里へ到達し、身分、飲食物、寝床を確保してください。冒険者ギルドは、身分と仕事を同時に得られる選択肢の1つです。加入は必須ではありません』
『残り0』
文字が、端のほうから薄くなり始めた。インクが水に溶けるみたいに。
「あっ、待て待て待て」
俺は慌てて手を振った。触れない。当たり前だ。
板は、俺の慌てように何の反応も示さないまま、静かに空気へ溶けきった。あとには何も残らなかった。森の音が戻ってきて、葉擦れと、知らない鳥の鳴き声が、耳のほうへゆっくり降りてきた。
俺は、しばらく、何もない空間を見ていた。
……いない。
女神がいない。案内人もいない。
異世界に呼ばれた人間には、普通、説明してくれる誰かがいる。そいつが「あなたは選ばれました」「この世界を救ってください」と言う。救えと言われるのは正直しんどいが、それを言われるということは、自分がここにいる理由が用意されているということでもある。
必須任務は、設定されていませんか……。俺がここにいる理由は、俺が異世界に行きたいと言ったから。異世界に連れてこられた。それだけだ。
俺は、苔むした石に手をついて、立ち上がった。
妙なことに、絶望はしなかった。むしろ、腹の底のあたりが、じわりと熱かった。
考えてみれば、これは相当に自由な状態である。魔王を倒せとも、世界を救えとも、誰かの婚約者になれとも言われていない。行き先を決めるのが誰でもないというのは、裏を返せば、行き先を決められるのが俺だけということだ。
しかも、材料はもう手元にある。最後のおまけなのか行動指針を示してくれた。
東に6キロ、城壁町リュネ。日没まで5時間。冒険者ギルドという単語。それから——さっき東から聞こえた、あの鐘。
あれについては、AIは一言も触れなかった。聞かなかったからだ。帰り方も、鐘の正体も、この石の環が何なのかも、俺は自分で調べるしかない。誰も教えてくれない。
俺は、足元の枝を拾って、掌に載せた。すっと消える。手を開くと、戻ってくる。よし、スキルは問題なく動く。
もう一度しまって、両手を空けた。地面には、踏み固められた筋がかすかに東へ伸びている。人が通った跡か多分まちに通じているんだろう。
所持金ゼロ。身分なし。文字が読めない。武器は枝。足は便所サンダル。
それでも、今日のタスクはひとつしかない。
「……日が暮れる前に、街に着く」
声に出したら、思ったよりしっかりした声が出た。
できるじゃないか、それくらいなら。歩けばいいんだから。エントリーシートを書くより、100倍簡単だ。
俺はサンダルの底で土を踏みしめて、東へ歩き出した。




