3. 3つの特典
立ち上がろうとしたとき、目の前の空気に、文字が浮かんだ。
浮かんだ、としか言いようがない。何もない場所に、半透明の板みたいなものが3枚、ふわりと並んだ。フォントに見覚えがあった。というか、さっきまで俺のノートパソコンに表示されていたやつと、まったく同じ書体だった。
『移送を確認しました。同伴補助として、以下から1つを選択してください』
俺は、その1行を読んで、3枚の板を順に見て、もう一度1行目に戻った。
……出た。
「出たあああああ!」
叫んでいた。さっきステータスオープンで4回空振りした男が、今度は森中に響く声を出した。頭上で鳥が何羽か飛び立ったが、知ったことではない。膝が笑っているのに立ち上がって、その場で意味もなく1回転までしてしまった。
特典だ。転移特典だ。始まりの選択だ。
これを、俺は何十回読んだかわからない。主人公が異世界に落ちて、光る板か女神か声だけの何かが現れて、能力を選ばせてくれる場面。読んでいるときはページをめくる手が速くなり、掲示板では「俺ならこっちを選ぶ」で100件くらいレスがつく、あの場面だ。作者が一番気合を入れて書き、読者が一番好き勝手に語る、いわば異世界ものの一等地である。
その一等地に、いま俺が立っている。
俺は3枚の板の前で正座しかけて、地面が土だったのでやめた。かわりに、両手を膝に置いて、しゃがんだ。読むぞ、と自分に言った。読み落としをしたら一生後悔するやつだ。
『1、《見習い鑑定》——触れた対象の名称と、おおよその性質を知覚する。精度は限定的』
鑑定系。俺の中で、真っ先に評価が跳ね上がった。
鑑定は地味に見えて、実は最強と言われる部類だ。理由は単純で、この手の話で主人公が最初に死にそうな原因は魔物ではなく、毒と食中毒と誤判断だからである。知らないキノコを食う、腐った水を飲む、無害そうな草に触る。鑑定持ちはそこで死なない。装備の良し悪しもわかるから、買い物で騙されない。要するに、生き延びる確率をまるごと底上げする能力だ。
ただし、地味である。これで魔王は倒せない。
『2、《手のひら倉庫》——非生物を、亜空間へ収納・取り出しできる』
……アイテムボックスだ。
俺の口から、勝手に息が漏れた。これは、夢がある。荷物の心配が消えるというのは、旅をする物語において反則に近い。食料を大量に持ち歩ける。売り物を仕入れて別の町へ運べる。読んできた話でも、収納持ちは高確率で商人になって、気づいたら商会を作っている。
なにより、使う場面を選ばない。収納は万能だ。
『3、《もう一手》——1日に1度、直前の数秒間を自分だけがやり直せる』
……うわ。これは、格が違った。
時間の巻き戻しは、この手の能力の中でも最上位に置かれることが多い。しかも「自分だけが」というのが凶悪で、つまり周囲は巻き戻ったことに気づかない。1回失敗できる、というのは、要するに死なない権利を1日1枚配られているのと同じだ。ただ1日1回で数秒とか条件が厳しすぎる!
全部の特典が補助的な能力なことに少し不満があるが、ここから選ばなくてはいけない。
俺はしばらく、3枚を見比べていた。
これが楽しいのだ、と思った。異世界ものを読んでいて一番わくわくするのが、まさにこの数分間なのだ。しかも今回は、俺が読者ではなく、選ぶ側にいる。
問題は、選ぶ側になった瞬間に、俺の中の楽しさが急に別の感情に変わったことだった。
……材料が、なさすぎる。
俺はこの世界のことを何ひとつ知らない。物価も、危険も、鑑定士の相場も、収納袋の値段も知らない。判断基準がない状態で選べというのは、もう選択ではなくくじ引きだ。
だから俺は、判断材料を増やすことにした。
「……なあ。これ、レアリティとかってあるのか?」
声に出して聞いてみた。相手はAIだ。さっきまで会話していたんだから、まだ会話できるかもしれない。
その声に反応したのか、板の1枚の文字が書き換わった。
『正式なレアリティ区分は存在しません。当該概念は、あなたの文化的前提に依存する枠組みです』
「うわ、返ってきた」
俺は変な声を出した。通じている。会話ができる。ただAIっぽいよくわからない回答だ。
『ただし、判断材料を求めているものと解釈します。現地において同等の効果を代替入手する困難度を基準とした場合——』
『《見習い鑑定》——C。鑑定を業とする者、および対応する魔道具が各地に存在します』
『《手のひら倉庫》——B。同等の魔道具は存在しますが、流通量は少なく、高額です』
『《もう一手》——A。同等の効果を持つ手段は、現在確認されていません』
……レアリティA。
俺の視線が、3枚目に吸い寄せられた。
1日1度、数秒の巻き戻し。この世界に代替が存在しない。ゲームだったら迷う理由がない。ソシャゲで星3を引いたら喜ぶし、レア度の高いほうを取るのは人間の本能に近い。
俺は、そっちへ手を伸ばした。
伸ばして——止まった。
……これ、いつ使うんだ?
崖から落ちたとき。剣を避け損ねたとき。毒を飲んだとき。要するに、俺が死にかけたときだ。俺は、いまの自分の状態を思い出した。スウェット。便所サンダル。所持金ゼロ。武器は拾った枝1本。
……死にかける前に、普通に飢えて詰む予定がある。
その話をする段階じゃないのだ、俺は。まだ、その手前で終わる。
俺は手を引っ込めて、1枚目の板を見た。レアリティCは論外だ。同じような魔道具があるなら取る必要は無いな。
そして2枚目の板に向き直った。収納なら、今日の夕方から役に立つ。食い物を拾えば入る。拾った枝も入る。両手が空く。これはつぶしが効く——と、そう思った。
「……これにする。《手のひら倉庫》」
言った瞬間、掌がじんわりと温かくなった。熱いのでも痛いのでもなく、こたつに手を入れたときみたいな鈍い温かさが数秒続いて、すっと引いた。
見た目は何も変わらない。ただ、掌の裏側に部屋がひとつある、という感覚だけが、確かにそこにあった。
「……マジか」
俺は足元の小石を拾って、掌に載せた。
消えた。
もう一度手を開くと、石が戻ってきた。
「マジだ!」
俺はその場で2回、意味もなくガッツポーズをした。誰も見ていないので問題はない。木しかいない。
勝った、と思った。この世界で、俺は勝った。
浮かれていたのは、だいたい20秒だった。残った1枚の板が、勝手に文字を書き換えたからだ。
『《手のひら倉庫》仕様——収納可能量:10キログラム、かつ30リットル』
……ん?
『対象:あなたが触れ、収納を意図した非生物。生物は収納できません』
『内部でも時間は経過します。腐敗、融解、乾燥は防げません』
俺は板を二度見して、それから声に出した。
「10キロって、あの、10キロだよな」
『はい』
うちの母さんが買う米が、だいたい10キロだ。つまり俺の異世界チート能力は、母親が1人で持てるサイズの米袋、1個ぶんということになる。トラックどころか台車にも負ける。
「……無限じゃないのか」
『無限の収納は提示していません』
「してないな。うん。してない」
そもそも手のひら倉庫って時点で気づくべきだった! 失敗した! てか特典全部しょぼすぎないか? もっとサービスしてくれよ!




