2. 異世界転移、装備はサンダル
というわけで、いま俺は森の中にいる。
俺は自分の頬をつねった。痛い。加減を知らないので本気でつねってしまい、目の端に涙が滲んだ。夢じゃない。ということは、あれだ。
……マジで来たわ。
両手を地面についたまま、俺は数秒間、硬直した。それから、体の内側で何かが一気に沸いた。就活のことも、母さんのメモのことも、全部、脳の奥のほうへ押しやられて、かわりに10年ぶんの読書経験が前に出てきた。
異世界だ。異世界に来た。読んだことしかない場所に、いま俺の尻がついている。
俺は立ち上がろうとして膝が笑い、もう一度尻もちをついた。それでも構わず、まず両手を天に掲げた。掲げてから何をすべきか思い出した。
「ステータス、オープン!」
声が森に吸い込まれた。
何も起きなかった。半透明の板も、青い枠も、名前の横に並ぶ数字も、一切出てこない。俺はもう一度、今度は少し発音を変えて叫んだ。「ステータスオープン」「ステータス」「オープンステータス」——最後のはさすがに違うだろ、と自分で思った。
結果、俺は森の真ん中で、誰もいない空間に向かって叫んだ男になった。
ついでに、というか流れで、俺は右手を前に突き出した。掌を開いて、指先に意識を集め、腹の底に力を入れる。この動作の正しさには自信があった。何百回も読んでいる。
「……ファイアボール」
何も起きない。
俺は手を下ろして、次に自分の耳を触った。丸い。当然のように丸い。エルフでも獣人でもない、ごく普通の人間の耳が、ごく普通の位置についている。ついでに舌で口の中をなぞってみたが、牙も生えていなかった。
……据え置き、徹底してるな。
もうひとつ確認しておくことがあった。言語だ。異世界転移でいちばん最初に効いてくるのは、実はチート能力ではなく言葉が通じるかどうかで、ここが駄目だと物語は半年進まない。俺は口を開けて「あー」と声を出した。日本語だった。当たり前だ。相手がいなければ検証しようがない、というごく当たり前の事実に気づく。
……いや、待て。落ち着け。テンプレを整理しよう。
ステータスが開かないパターンには、いくつか理由がある。まず「この世界にはステータスという概念自体がない」場合。次に「鑑定持ちに見てもらわないと見えない」場合。それから「特典の付与がまだ完了していない」場合。どれもよくある。むしろ最初から全部見えるほうが、作品としては親切設計のほうだ。
じゃあ次だ。俺は周囲を見回して、いないことを確認した。女神がいない。
これは、けっこう大きい。神様転生系なら、白い空間で女神様なり自称神なりが出てきて「あなたには特別な力を授けましょう」とやってくれる。あれがあると、少なくとも「なぜ自分がここにいるのか」がわかる。俺の場合、AIのチャット欄から直接ここへ落ちてきた。説明役がいない。案内人がいない。というか、女神ポジションが対話型AIって、たぶん前例が少ない。
まあ、いい。前向き。前向きは無料だ。俺はそう自分に言って、次のチェックに移った。
装備の確認である。これはサバイバル系の鉄則で、まず持ち物、次に水、次に安全、最後に情報。俺はその順番を、少なくとも知識としては完璧に押さえていた。
服。洗いすぎてよれた紺のスウェットの上下。ポケット、空。財布なし、鞄なし、スマホは机の上に置いてきた。そして、足元。
……サンダルだった。便所サンダル。青いやつ。
「……いや、せめて靴」
異世界に来てこれか、と自分にツッコミを入れたが、切実さは伝わると思う。森だぞ、ここ。足の甲が全面的に無防備だぞ。俺の読んできた作品でも、転移時の初期装備が寝間着だの部屋着だのというのは何度も見たが、あれはたいてい2話以内に親切なNPCが服をくれる。くれなかった場合の描写を、俺は1件も知らない。
それと、もうひとつ深刻なやつがある。武器がない。
俺は周りを見回して、手ごろな枝を1本拾った。腕の長さくらいで、握ると少ししなる。これで何ができるかというと、たぶん何もできない。俺は棒を振ったことがない。竹刀もバットも、まともに持った経験がない。それでも拾ったのは、手ぶらでいるより気分がマシだったからで、要するに気休めだった。
序盤で主人公が最初に遭遇するのはたいていスライムかゴブリンで、前者は初心者向けの代名詞、後者は「油断すると死ぬ」担当として書かれることが多い。どちらにせよ共通しているのは、遭遇したら戦うか逃げるかの二択になる点である。俺の場合、選択肢は1つしかない。
全力で逃げる。便所サンダルで。
そこまで考えて、俺は自分の思考のクセに気づいた。俺はいま、この状況を「どの作品に似ているか」で処理しようとしている。石の環は古代遺跡型の転移点で、たぶんこの世界の歴史に関わる伏線で、東に歩けば都合よく村があって、そこで冒険者ギルドに登録する——というテンプレの続きを、勝手に頭の中で走らせている。
……これ、大丈夫か?
俺は、苔むした石柱に手をついた。冷たい。ざらざらして、湿っていて、どうしようもなく本物の石の手触りだった。指を離すと、手のひらに緑の粉と、土と、細かい繊維がついた。ゲームの画面には、この汚れはつかない。
その瞬間、さっきまで沸いていた感動が、すっと引いた。かわりに上がってきたのは、もっと単純で、もっと重いやつだった。
俺は押した。AIの質問に対して「はい」を、自分の指で。誰にも命じられていない。冗談だと思って、どうせ何も起きないと思って、俺が押した。 俺の選択には重さがない、と23年かけて学んだはずだった。なのに、いま俺は森にいる。
考えるための材料は、何ひとつない。ここがどこなのか、誰がいるのか、日が沈むまで何時間あるのか、水はどこにあるのか。テンプレの知識だけは山ほどあるのに、その知識は「たぶんこういう展開になる」としか言ってくれない。目の前の土と苔について、何も教えてくれない。
どうしよう、不安が押し寄せてきたそのとき、音が聞こえた。
遠い。ずっと遠い。東のほうから、木の間を縫うようにして、低い音が渡ってきた。鐘だ。いや、鐘に似た音というべきか。金属を打った音の、いちばん低いところだけが残って届いた感じの響き。
ごぉん、と空気が震えて、膝の下の地面がわずかに応えた。
その音は、2回、鳴った。それから、森はまた静かになった。
俺は、動けないまま東を見ていた。
……あっちに、何かある。
鐘があるということは、鐘を鳴らす誰かがいる。誰かがいるということは、この世界には俺以外の人間がいる。それは、街があって、飯と、水と、寝床がある可能性がある、ということだ。
俺は、便所サンダルの底で土を踏みしめて、立ち上がった。




