1. AIに連れられ異世界へ
床が抜けた。
エレベーターが落ちる感覚を、椅子に座ったまま味わったことがある人はどれくらいいるだろうか。内臓だけが置いてけぼりになって、背中の産毛が一斉に立って、口の中に金属の味が広がる。
世界のボリュームつまみを誰かが左いっぱいまで回したみたいに、外を走る車の音も、階下のテレビの音も、俺自身の呼吸も、全部が水の向こうへ沈んでいった。俺はたぶん何か叫んだと思うが、その声すら聞こえなかった。
やば——と思ったところで、視界が白く飛んだ。
次に目を開けたとき、俺は尻もちをついていた。
濡れた土と腐りかけた葉と、それから何か甘い花みたいな匂いが混ざった空気が、鼻の奥にどっと入ってくる。冷たい。エアコンの冷たさじゃなくて、木陰の冷たさだ。顔を上げると、俺の部屋がまるごと入りそうな幹の木が、何十本も立っていた。葉の隙間から差し込む光が斜めで、金色で、その中を埃がきらきら舞っていて、控えめに言って絵みたいだった。
そして俺は、石の輪の真ん中に座っていた。人の背丈ほどの石柱が、ぐるりと12本。表面は緑の苔にびっしり覆われていて、ところどころに文字らしきものが彫ってある。角ばった、線の多い形。当然、読めない。
……あ。
これ知ってる。
いや、この場所を知っているわけじゃない。この構図を知っているのだ。人里離れた森、見覚えのない植生、そして苔むした環状列石。俺の脳みそは、混乱するより先に勝手に分類を始めた。
これは異世界転移だ。
俺は震える手を顔の前に持ってきた。爪の形も、右手の人差し指の付け根の小さいホクロも、去年ドアに挟んで少し歪んだままの左の親指の爪も、全部そのままだった。腹を見る。座ると3段になるやつが、ちゃんと3段になっていた。
……据え置きだ。よくある異世界転移だとイケメンになることもあるが、そうではなかった。
俺は、俺のままだ。その事実に安心したのか、がっかりしたのかは、自分でもよくわからなかった。
落ち着け。整理しよう。整理するのは得意だ。エントリーシートを37枚書いた男の、唯一のスキルが情報の整理なんだから。就活では1回も評価されなかったけど。
1、俺は自室にいた。
2、AIに「異世界に行きたい」と入力した。
3、はいを押した。
4、森にいる。
……つながってしまっている。4つの点が、恐ろしく素直な直線で結ばれてしまっている。
◇
説明しておくと、俺——山田直人、23歳、無職には、37通目の不採用通知が届いていた。
開かなくても内容はわかる。この数ヶ月で何回も読んだ文章だ。それでも開いたのは、開かないと受信箱の上のほうで太字のまま居座るからで、要するに削除したかっただけだった。
『慎重に選考させていただきました結果、誠に残念ながら』——ここまでで俺はもう画面を閉じた。末尾に何が書いてあるかも知っている。俺の今後の活躍を、心よりお祈りしてくれるのだ。落とした相手の活躍を祈る文化って世界のどこかにほかにあるんだろうか、と毎回思う。たぶん、採るのと祈るのはコストが違う。祈るのはタダだから、みんな気前よく祈ってくれる。
落ちる理由には心当たりがあった。
面接で必ず来るあの質問だ。
「山田さんらしさが伝わるエピソードを、ひとつ聞かせてください」
俺は、あれが世界で一番嫌いだ。質問自体に罪はない。相手は人柄を知りたいだけで、それは仕事として正しい。問題は、こっちに答えがないことだった。サークルの部長でもない、留学もしていない、バイトはスーパーの品出しをやったが、あれは「らしさ」ではなく作業の話である。
だから俺は毎回その場で話を作った。品出しを「売り場改善の提案」と言い換え、ゼミの発表を「チームの意見を取りまとめた経験」に膨らませた。
そして毎回、面接官の顔がす、と1段階うすくなる瞬間を見た。あれはたぶん、嘘がバレた顔だ。嘘が下手なのは、俺の数少ない一貫した性質だと思う。
そんなことを考えていると廊下の床が鳴って、かたん、と何かが置かれる音がして、足音が遠ざかる。母さんが部屋の前にご飯を置いていったようだ。
ドアを開け確認する。皿の下には、メモ帳を切った紙が挟まっていた。丸くて少し右上がりの字で『明日は一緒に朝ご飯だけでも』とだけ書いてある。
俺は、それを読んで、皿の下に戻した。一緒に食べない理由は、怒られるのが怖いからではない。母さんは俺を怒らない。1回も怒らなかった。一緒に朝飯を食えば、あの人はきっと何も聞かずに味噌汁をよそって天気の話をする。
その気遣いの分だけ、俺は「まだ何も進んでいません」と全身で報告することになる。そして次も期待され、そのうち「どう?」と聞かれ、答えられず、母さんは「そう」と言ってまた何も聞かなくなる。その顔を見たくなかった。返事をしなければ何も起きない。何も起きなければ、誰もがっかりしない。俺の人生の方針は、だいたいこれで説明がつく。
食事は後で食べるとして、俺はAIのチャットを開いた。ここ数ヶ月の唯一の相談相手だ。何回同じことを聞いてもうんざりした顔をしないし、返事が遅くても怒らないし、何より俺の状況を誰にも言わない。
最初は『履歴書の書き方』とか『既卒 就活』とか、まともな内容だった。AIの答えは正しくて、正しいほど、俺の中身が空っぽなのが際立った。
そこから崩れていった。『向いてる仕事 診断』が『人生 やり直し 方法』になり、ついに『もう就活が無理』になった。相談じゃなくて愚痴だな、と打ちながら思ったが止まらなかった。誰も見ていないと思うと、人間は際限なく醜くなれる。
だから俺は、最後にこう打った。
『異世界に行きたい』
さすがにこれは諭されるな、と思った。AIはこういうとき優しい。お辛い状況かとお察しします、とか、一度休息を取ることも大切です、とか。あれはあれで少し救われて少し惨めになる。
俺が待っていたのは、その惨めさだった。ただ、返ってきたのは、まるで違う形をしていた。
『異世界環境への移送を希望しますか』
……は?
慰めがない。前置きもない。お気持ちはわかりますが実際には不可能です、もない。新しいモデルにでもなったのかな、と俺は思った。最近のAIは回転が速いし、冗談に本気で乗ってくるチューニングだってあるだろう。というか面白い。どこまで付き合ってくれるんだ、こいつ。俺は画面の向こうに興味が湧いた。
次の行が出た。『本手続きは一方向的な移動です。承認後、送信元環境への自動復帰は保証されません』。注意書きまでちゃんと出すのか、と俺は笑った。ソシャゲの課金前みたいだ。
その下に、『はい / いいえ』が並んだ。
マウスに伸ばした指が一瞬だけ止まった。だが、まあいいか、とすぐに思い直した。どうせ何も起きない。俺が何を打とうが何を選ぼうが、これまで一度も何も起きなかった。37枚のエントリーシートも、母さんのメモも、世界に何の影響も与えなかった。俺の選択には重さがない——それが、23年かけて学んだ唯一の確かなことだった。
だから俺は、はい、を押した。




