29. 別れのあいさつ回り
異世界最終日の朝は、初日と同じくらいよく晴れていた。
宿を引き払うのに、時間はかからなかった。持ち物がほとんどないからだ。着ているものと、鉄級の札と、たたんだ実績票。それに帰還石。掌に入れれば、荷物と呼べるものは何も残らない。
財布の中には、銀貨が数枚と、銅貨が少し。
……これ、持って帰っても使えないんだよな。つまりこの金は、今日じゅうに使い切るのが正しい。三十日と少しかけて貯めた全財産を一日で溶かすというのは、なかなか妙な気分だった。
挨拶回りの順番は、昨日の夜のうちに決めておいた。関わりの浅い人から先に、近い人を後に。
理由は二つある。ひとつは、近い人ほど時間がかかるだろうということ。もうひとつは——最初に近い人へ行くと、たぶん、そこで俺が使い物にならなくなるからだ。
◇
宿の食堂のおばさんは、俺が「今日で発ちます」と言うと、皿を拭く手を止めずに「あら」と言った。
「じゃあ、朝は多めにしとくね」
ギルドの掲示係は、俺の顔を見るなり手を振ってきて、事情を話すと「そうかい」とうなずいた。
「あんた、来た当初は掲示板の前で固まってたよな。読めもしないのに」
「……見てたんですか」
「毎朝あそこに立ってりゃ嫌でも見る。まあ、達者でな」
西通りの薬種商では、婆さんが奥から出てくるのに少し時間がかかった。
「帰るのかい」
「はい。お世話になりました。……あと、瓶、割ってすみませんでした」
「あんた、あのとき自分で言いに来たろ。あれで、うちは次もあんたに頼んだんだ。それだけの話さ」
……それだけの話。みんな、そう言う。この町の人は、誰も別れを大げさにしない。
◇
ギルドの備蓄倉庫では、主任が樽を数えている最中だった。彼は台帳を閉じて、それから、思い出したように棚のほうを顎で示した。
「見てけ」
真ん中の二列に傷薬と解毒が並んでいる。棚はだいぶ改良されたらしい。
奥からコルタが出てきて、俺の顔を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「もう行くのか」
「はい。……あの、コルタさん。ありがとうございました。俺、ここで初めて、自分がやったことに名前をつけてもらったので」
コルタは、しばらく黙っていた。それから、棚のほうへ目をやった。
「取りやすくなった。それだけだ」
◇
迷宮の隊の四人とは、ギルドの一階でまとめて会えた。ロザリアさんが「どうせ全員来る」と言って、時間を決めておいてくれたらしい。
ブラムさんは例の覗き筒を首から下げていて、会って早々に「見ろ、これ」と壁を覗かせてきた。何も見えなかった。
グレンさんは、握手を求めてきた。指の欠けた右手だった。俺が握り返すと、彼はうなずいて、それで終わりだった。
ヨエルさんは、俺の顔色を見て、「よく眠れていますね」と言った。この人は最後まで救護司祭だった。
最後に、ロザリアさんが俺の肩を軽く叩いた。
「向こうで、また誰かの下で働くんだろう」
「たぶん、そうなります」
「なら、覚えとけ。怖いと言えるやつは重宝される。……あと、見えたことは言え。あんたはそれができる」
「はい」
「よし。行け」
ずいぶんあっさりしていたが、俺はそのほうがありがたかった。
◇
ギルドのカウンターには、ノエラさんがいた。
「本日で発たれるそうですね」
「はい。……ノエラさん、いろいろ、本当にありがとうございました」
「業務です」
即答だった。俺は思わず笑って、それから頭を下げた。
「その業務に何回助けられたかわからないので」
ノエラさんは、少しのあいだ黙ってから帳面を開いた。
「ヤマダさんの登録は、休止扱いのまま残します。……先日そう申し上げましたね」
「戻る予定はないんですけど」
「予定は変わります。うちは変わったほうに合わせるだけです」
彼女はペンを置いて、まっすぐこちらを見た。
「最後に、ひとつだけ。あちらへ戻られたら、やったことのほうを数えてください。何件出したかではなく、何を書いたか。そちらは、あなたの手元に残ります」
俺は、うまく返事ができなかった。あの数字を、俺はずっと、自分の値段みたいに持ち歩いていた。この人はそれを、いま、ひっくり返そうとしている。
「帳簿につけるのはこちらの仕事です」
ノエラさんは判を押した。
「あなたの仕事は帳簿につける中身を作ることです」
◇
西門を出るとき、ガレスさんが詰所から出てきた。
「おう。帰るんだってな」
「はい。……あのときは、ありがとうございました」
「なんの話だ」
「無一文だって言ったときの話です」
ガレスさんは、記憶をたどるような顔をしてから、腹の底で笑った。
「ああ、あれか。嘘の身の上を考えてる最中に全部口から漏らしてた男な」
「忘れてくださいよ」
「無理だな。あんな面白い門番仕事はそうそうない」
彼は槍の石突きで地面を軽く突いて、それから、少しだけ真面目な顔になった。
「頑張れよ!」
◇
古環跡までは麦畑を横切って西へ歩く。
道中、隣を歩いていたのはセレネだった。彼女は地図鞄のかわりに、帳面と、あの黒い小瓶を提げていた。
「最後までお仕事なんですね」
「そうです。担当は、まれびとが帰るところまで見届けて報告書を書きます。最後の一行を書くのも私の仕事です」
しばらく歩いてから俺は足を止めた。
「セレネさん。渡したいものがあるんですけど」
俺は朝のうちに買った包みを差し出した。彼女は中身を見て、それから、俺の顔を見た。
「……靴、ですか」
革の編み上げの丈夫なやつだった。魔道具は入っていないが、底が厚くて、爪先が硬い。俺の全財産が、ちょうどきれいに消えた。
「支部回りをしたいって言ってましたよね。ほかの町のまれびとに、自分で会いに行くって。あれ、足で稼ぐ仕事だって、ブラムさんが言ってたので」
セレネは、包みを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
「俺、この世界に来ていちばん感動したの、実は靴なんです」
俺は、少し早口になった。照れくさかったからだ。
「サンダルで森から歩いてきたので。ちゃんとした靴を履いた日のこと、たぶん一生忘れません。……だから、これが、俺がいちばん価値を知ってるものです」
彼女が顔を上げた。目が少し赤くなっていた。
◇
古環跡は森の中にぽつんとある石の輪だった。
地面に円く石が並んでいて真ん中に何もない。周りの木は普通の木で、鳥も鳴いている。あまりにも普通の場所で、俺はここに立った日のことを思い出した。
あの日の俺は、サンダルで、無一文で、これからどうするかを何も考えていなかった。
「ヤマダさん」
セレネが帳面を胸に抱えたまま言った。
「帰っても、ここでできたことをゼロにしないでください。私がちゃんと覚えていますから」
「しません。……セレネさんも、頑張ってください。支部回り」
「頑張ります。ヤマダさんも、頑張ってください。やり残したこと」
「頑張ります」
俺たちは、そこで少しだけ笑った。別れの言葉としては、ずいぶん色気がなかった。だが、たぶん、俺たちにはこれがいちばん似合っている。お互いに、これから面倒なことを続けなければならない人間同士の、実務的な挨拶だ。
◇
俺は、石の輪の中央に立った。掌の中の帰還石を、両手で包む。温かかった。ずっと同じ温度のままだったそれが、そこで初めて明るくなった。
足元の石の輪が順番に光っていく。円がひとつ閉じて、地面から細い光が上がり、俺の周りをゆっくり回りはじめた。そして、目の前の空中に、文字が浮かんだ。
『こんにちは。準備が整いました』
……お前か。
『山田直人さん。最終確認をします』
光の輪の向こうで、セレネが立っているのが見えた。彼女は帳面を開いて、もう書きはじめていた。最後の一行を、自分の目で見て、自分で書くために。
……見ててくれ。
『元の世界へ帰還します。よろしいですか』
俺は、息を吸った。三十日と少し前、俺は同じ質問に、ろくに読まずに了承した。逃げるために。
今度は違う。
「はい」
俺は、はっきり答えた。




