30. AIに連れられ元の世界へ
光が消えて、目を開けると、そこは俺の部屋だった。
六畳一間のカーテンは閉め切られたままで、その隙間から夕方の橙色が細く一本だけ差し込んでいる。机の上には開きっぱなしのノートパソコンがあって、画面はまだ明るく、ベッドの上には脱ぎ捨てたタオルケットが山になっていた。
暖かくて少し埃っぽい空気が、鼻の奥にゆっくり入ってくる。
閉め切った部屋と、洗っていない布の匂いが混ざった、こっちの世界で俺がずっと嗅いでいたやつだ。あのころは何とも思っていなかったのに、いま嗅ぐと懐かしかった。
……帰ってきた。
俺はその場に突っ立ったまま、しばらく動けなかった。三十日と少しのあいだ、俺の一日は必ず誰かに呼ばれるところから始まっていて、掲示係が手を振り、ノエラさんが票を出し、「ヤマダ」と呼ばれるのが当たり前だったのだが、ここには誰もいない。
誰もいないのが当たり前の場所に俺は帰ってきたのだった。
机の上の目覚まし時計が目に入って、俺は数字をしばらく眺めてから、転移した時間の記憶を掘り返した。
あれから1時間も経ってない。
……いや、まあ、そういうものか。異世界に行って帰ってきた男が時間の流れに文句をつけたところで、たぶん誰も取り合ってくれないので、俺はそこで考えるのをやめた。
◇
自分の格好を見下ろして俺は少し笑った。
着ているのはリュネの古着屋で買った麻の上着とズボンで、足元は爪先に鉄の入った革の編み上げ靴のままだ。
懐に手を入れると、黒っぽい木に鉄の薄片を打った鉄級の札が出てきて、表面に刻まれた文字は、いまも読めた。その隣から、たたんだ紙が一枚。勤務実績票だ。
……持って帰れたのか。
机の上に並べてみると、木の板と紙が一枚、それだけだった。俺が三十日と少しかけて手に入れたものの全部が、机の隅にちんまり収まってしまうのを見て、俺は妙に納得した気持ちになった。
それから、試しに右手を開いてみる。
何も出なかった。
もう一度、掌の中に何かがある感じを思い浮かべてから開いてみたが、やっぱり何も出てこない。三度目までやってから、俺はようやく手を下ろした。
寂しくないと言えば嘘になるけれど、あの黒い板が最後に言っていたことを思い出すと、まあそうだよなという気にもなる。
◇
椅子に座ってパソコンを覗き込むと、スリープにもならないまま、AIとのチャット画面が開いたままになっていた。いちばん下に、俺の最後の発言が残っている。
『異世界へ行きたい』
……これだよ。我ながらひどい。成人男性がAI相手へ打ち込む文章ではないだろう。
スクロールしていくと、その上には履歴が積み上がっていた。
『二次面接に落ちました』
『どうすればいいですか』
『向いてないと思いますか』
『もう無理です』
……うわ。
思わず目を逸らしそうになって、俺はそこで踏みとどまり、最後まで読んだ。自分でも意外だったのは、それを他人の記録みたいに読めてしまったことで、ずいぶん困っている人だなと思いながら、同時に、困っているのに困っている中身を具体的に書いていない人だな、とも思った。正しいアドバイスをされているのに言い訳してまた愚痴を書く。自分でもなんだかなと思ってしまう。
◇
履歴のいちばん上に未読の文章がひとつ残っていた。
『自己分析レポートが作成されました』
……あー。覚えている。俺が自分からAIに頼んだやつで、回答が来たのに開かずに放置したのだ。開いたら何か言われるとわかっていたからだった。
俺は、それを開いた。
『分析結果をお伝えします』
『相談回数:214回』
『そのうち、具体的な行動を含む相談:3回』
『残りは、状況の共有と、感想の記述でした』
俺の相談は感想だったらしい。
『所見:あなたは情報の収集を得意としています。一方で、収集した情報を行動へ接続する頻度が低い傾向が見られます』
『また、ご自身に関する記述のうち、事実にあたるものは全体の一割未満でした。残りは推測です。「たぶん向いていない」「きっと落ちる」などの表現が繰り返し使用されています』
……手厳しいな、おい。俺は椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げた。
前の俺なら、ここで画面を閉じていた。というより、実際に閉じたのだ。開かずに放置して、その状態のまま異世界へ行った。
なのに、いまは笑えていた。だって、これ、全部合ってる。
……なんだ。言われてたんじゃないか、最初から。
◇
レポートの下には、もうひとつ項目が続いていた。
『推奨される次の行動』
『1. 求人情報を1件、条件欄まで読む』
『2. 応募済み企業からの連絡を確認する』
『3. 同居されているご家族に、今日中に一度声をかける』
……三番が、いちばん重い。
俺は素直に一番から取りかかることにして、求人情報の画面を開いた。仕事内容、勤務地、雇用形態、給与、休日、応募条件と、募集要項が上から順に並んでいる。
……読める。
いや、日本語なんだから当たり前だ。当たり前なのだが、条件欄を最後の一行まで読み通したのは、たぶん人生で初めてだった。前の俺は給与のところだけ見て、そのあと「自分には無理そうだ」で閉じていたのだから。
次にメールを開くと、新着が三件あって、そのうち二件は見慣れた書き出しをしていた。慎重に選考を進めた結果、今回はご期待に沿えない結果となりました。
……あ、平気だ。
自分で少し驚いた。腹の底に石が落ちるあの感じが、来ない。
たぶん、数え方が変わったからだと思う。断られた回数を数えるな、数えるならやったことのほうを数えろ、と、あの人はカウンターの向こうから言っていた。
残りの一件は、まだ結果の出ていない会社からの、面接日程の再調整の連絡だった。
……あるじゃん。まだ終わってなかった。
◇
俺は立ち上がって、古着を脱いだ。石の粉のついた麻の上着をたたんでベッドの端に置き、靴を脱いで部屋着に着替える。体が急に軽くなって、軽いというよりは頼りなくなった。革の胴当ても鉄の入った靴も、迷宮では重くてしかたがなかったのに、こうして脱いでみると、あれは全部、俺を守っていたものだったのだと今さらわかる。
机の上の札を、指で一度なぞる。
……よし。
俺は、扉の前に立った。
心臓が、ダンジョンの第三層にいたときより速い。
……いや、比べるところじゃないだろ。
自分に突っ込んで、それで少しだけ息が楽になった。
俺はノブに手をかけ、そして扉を開けた。




