26. 第三層
朝の湯を飲んで、荷を負い直して、俺たちは降り口の前に立った。
第二層から第三層へ続く階段は、ここまでの螺旋とは違って、まっすぐで、幅が広くて、両側に手すりのような彫りが入っていた。降りるにつれて水の音が遠ざかり、かわりに乾いた空気が下から上がってくる。
最後の段を降りきったところで俺は思わず足を止めた。通路の幅はこれまでとたいして変わらない。変わったのは高さだった。
壁が上へ行くほど暗くなって、天井が見えない。灯石を掲げても光が届かず、頭の上には黒がそのまま続いている。まるで切り立った石の谷底に立っているみたいだった。下った階段より高くないか?
「……高すぎませんか、これ」
「上は気にするな。関係ない」
ロザリアさんは、あっさりそう言った。
通路は少し進むと直角に折れ、その先でまた分かれた。左右どちらも同じ形、同じ幅、同じ壁。目印になるものが、本当に何もない。
……あ、これ。子どものころ、新聞の隅に載っていた迷路を思い出した。入口から出口まで線を引くやつだ。あれの、天井が見えないほど巨大なバージョンの中に、俺はいま立っている。
「言っておくが」
ロザリアさんが振り返らずに言った。
「ここで一度でも勝手に曲がったら、二度と合流できないと思え。壁を叩いても音は届かん。叫んでも聞こえん」
◇
「ヤマダさん。板を」
セレネに言われて、俺は懐から布の包みを出した。開いた瞬間、黒い板が、うっすらと光った。
表面に、白く細い線が浮かんでいた。小さな点がひとつ、その少し上に、別の点がもうひとつ。そして、二つの点を結ぶまっすぐな線が引かれている。
……いや、これ。完全に、地図アプリだった。現在地と目的地。それを結ぶ矢印。しかも点は、俺が動くと、律儀に動いた。
「出ましたか」
「出ました。……えっと、あそこに目的地があるみたいです。この方向で、この距離」
俺が板の向きを合わせて示すと、ロザリアさんが眉を寄せた。
「そっちは壁だぞ」
「……そうなんですよね」
線は壁を無視して引かれていた。手前の分岐も、その先の折れ曲がりも、全部なかったことにして、目的地までを一直線で結んでいる。
「使えんな、それ」
俺は板を持ち直した。
「道はわからないけど、いま自分がどこにいて、目的地がどっちにあるかはわかります。……逆に言うと、道を知ってる人がいれば、それで足ります」
「地図はあります」
セレネが、地図鞄から新しい板を出した。
「私が引きます。ヤマダさんは、分岐ごとに方角と距離を読み上げてください」
◇
そこからは、妙に事務的な作業になった。
分岐に着くたび、俺が板を見て「目的地、右斜め前。距離、さっきより近い」と読み上げる。セレネがそれを書き取って、通路の形と一緒に線を引く。ロザリアさんが「じゃあ右だ」と決めて、ブラムさんが先に進む。
魔物は、何度か出た。
第二層のやつらより明らかに大きくて、動きも速い。石の粉を吹き上げながら壁から剥がれてくるやつがいて、あれは「湧いた」というより「壁が起き上がった」という感じだった。
「三層は倒しても湧く」
ブラムさんが小声で教えてくれた。
「掃除しても意味がねえ。だから、通る道だけ空けて、さっさと抜けるのが正しい」
ロザリアさんとグレンさんは、そのとおりに動いていた。倒すのではなく、押しのける。通れる幅を作って、俺たちを通して、追ってこないところまで来たら止める。効率がよすぎて、戦闘というより除雪作業に見えた。
◇
鐘が鳴ったのは、三つ目の広い分岐に差しかかったときだった。
最初に来たのは、音ではなく、床だった。足の裏が、ぞわ、と震えた。次いで壁が鳴り、空気が押されて、それから、腹の底を撫でるあの音が来た。
「止まれ!」
ロザリアさんの声が飛んだ。
「その場から動くな! 手も足も出すな!」
俺は言われたとおり、その場で固まった。
そして、目の前で通路が動いた。
軋む音も、崩れる音もしなかった。壁の一枚が、絵を差し替えるみたいに滑って、いままで右へ折れていた道が、まっすぐな廊下に変わっていく。少し先で、床の一部が音もなく沈み、かわりに別の床が上がってきて、そこに新しい段差が生まれた。
俺の右手のすぐ横を、壁の縁が通り過ぎていった。手を伸ばしていたら、と考えて、俺は考えるのをやめた。
やがて音が引いて、床の震えが止まった。
目の前には、さっきまでなかった道が開いていた。左右の壁は同じ石で、継ぎ目のひとつも見えない。何十年も前からそこにありました、という顔をして、その通路は静かに伸びていた。
……きれいだな。場違いだとわかっていたが、そう思ってしまった。
天井の見えない石の谷が、音もなく形を変える。灯石の光が届かない上のほうで、たぶんもっと大きなものが動いている。人間の都合とはまったく関係のない規模で、この場所は勝手に組み替わっている。
そして同時に、俺はもうひとつのことを理解した。
……これ、大人数で入ったら、絶対に誰か千切れるな。
隊が長ければ、必ず誰かが動く瞬間に鳴る。走っている最中に鳴れば止まれない。ハルヴェンさんが「大勢で行って、大勢で戻れなかった例がある」と言った意味が、いま実物として目の前にあった。
「セレネさん」
ロザリアさんが振り返った。
「はい。……いま、直します」
セレネは膝をついて、板の上の線を消しはじめた。手が少し震えていたが、線を引く速度は落ちなかった。
「柱の並びと、大きい部屋の位置は同じままなので、ここから先を引き直せば足ります」
「よし。ヤマダ、板は」
「目的地は動いてません」
俺の声も少し裏返っていた。
「なるほど。……構造そのものは変わらないんですね」
セレネが、書きながらつぶやいた。
「入れ替わるのは道だけで、部屋は動いていません。それに、一度変わった道は次の鐘まで変わらない。……これなら、地図を作る意味があります」
「あるから連れてきたんだ」
ロザリアさんが言った。
◇
目的地が「もうすぐそこ」という距離になったのは、それから間もなくだった。
通路の先が少し広くなっている。天井は相変わらず見えないが、左右の壁が離れて、部屋らしい空間になっていた。
その真ん中に、なにかが座っていた。最初、俺はそれを石の彫刻だと思った。黒っぽい岩の塊が、うずくまるような形で置かれている。ただ、その表面がゆっくり上下していて、それが呼吸だと気づいた瞬間、俺の膝が勝手に笑いはじめた。
塊が、頭を上げた。牛だった。
いや、正確には牛の頭に似た形だ。左右に太い角が伸びていて、目のあるべき場所には、灯石よりずっと暗い橙の光が二つ埋まっている。肩から先は岩で、腕の内側だけが肉の色をしていた。
「石喰いだ」
ブラムさんが低く言った。
「三層の居着きだな。倒しても湧くが、こいつは湧き直すのに時間がかかる」
……いやいや、それ、ミノタウロスじゃないですか。
迷路の奥に牛の頭が座っているというのは、俺の知っている話の中でも相当に古い型のやつだ。この世界がその型を知っているはずはないのに、なぜか同じものがここにいる。
「ヤマダ、セレネさん。壁際まで下がれ」
ロザリアさんが盾を構えた。
「ヨエル、二人につけ。ブラムは灯りを高く。グレン」
「おう」
◇
結論から言うと勝った。
ただ、これまでのように一瞬では終わらなかった。
グレンさんの槍は届いたが、岩の肩で滑って、まともに刺さらなかった。ロザリアさんが正面から受けた一撃は、盾ごと彼女を後ろへ滑らせて、床に長い擦り傷を残した。あの人が押し込まれるところを、俺は初めて見た。
二人は、そこから正面での押し合いをやめた。
グレンさんが左へ大きく回って穂先を見せ、石喰いがそちらへ体を向けた瞬間に、ロザリアさんが反対側から膝の裏を叩く。よろけたところへグレンさんがまた逆へ回る。倒すというより、向きを変えさせ続けている感じだった。
……交互だ。
あの巨体は、一度こっちを向いたら、次に反対を向くまでに間がある。二人はその間だけを狙って、少しずつ削っている。
だが、その循環が一度だけ乱れた。
石喰いが上体を沈めて、ロザリアさんのいる方向へ突っ込もうとした。彼女はそれを見て盾を上げたが、俺の位置からは、その角が思っていたより低い軌道を通ることが見えていた。あれは盾の上ではなく、下から膝を掬いにいく動きだ。
言うか迷った。
迷ったのは一瞬で、そのあいだに、講習の裏庭の声が頭の中で再生された。
——恥ずかしいから黙る。迷惑をかけたくないから黙る。
「下です! 角、低い!」
喉が裂けるかと思うくらいの声が出た。
ロザリアさんは、振り返りもしなかった。ただ、盾の角度が変わった。上へ構えていたものが下へ落ちて、角の先が盾の縁を擦り、火花のような石の粉が散る。
彼女の体は、後ろへ吹き飛ばなかった。
その一瞬、石喰いの首が完全に伸びきっていた。
グレンさんの槍が、そこに入った。
今度は滑らなかった。岩ではなく、肉の色をしたところへ、深々と。
◇
石喰いが崩れたあと、部屋には石の粉だけが残った。ロザリアさんが盾を下ろして、肩で息をしながらこっちを見た。
「ヤマダ」
「……はい」
「よく言った」
それだけだった。それだけだったが、俺の足はまだ震えていたし、心臓は勝手に走っていた。
「今のは、俺の位置からしか見えなかったので」
「そうだ。だから言え。見えたやつが言うんだ」
ヨエルさんがロザリアさんの肩と膝を確かめているあいだに、ブラムさんが灯りを持って部屋の奥へ進んだ。
そして、止まった。
「おい。ここだ」
俺たちが追いつくと、部屋の奥の壁が途切れて、その向こうに空間が広がっていた。
石の谷が終わっていた。
天井が、ある。低くはないが、ちゃんと見える高さに、平らな天井が架かっている。床は磨かれた石で、左右に柱が並び、その柱の一本一本に、俺の読めない文字が彫ってあった。迷路の乱暴な石組みとは、明らかに作りが違う。
ここだけ、誰かが丁寧に建てた場所だった。
「……セレネさん、これ、読めますか」
「単語は読めます。ですが、意味の取れない並びです。……たぶん、私たちの言葉より古いものです」
俺は手の中の黒い板を見た。二つの点は、もう、ほとんど重なっていた。




