20. 帰還方法
「君は——元の世界に帰りたいですか?」
「……帰れるんですか」
声が、みっともなく裏返った。
「帰れます」
ハルヴェンは、そう答えた。それだけだった。付け足しも、前置きもない。事実を1つ置いて、こちらの出方を待っている。
混乱したまま、俺は横を見た。
セレネが、口を半分開けて、ハルヴェンを見ていた。
……あ。この人、知らなかったんだ。その顔は、驚いた人の顔だった。俺と同じ側の顔をしていた。それが、なぜか、俺をいちばん落ち着かせた。
「ハルヴェンさん、帰る方法について教えてもらってもいいですか」
俺は、膝の上で手を握り直した。
「順にお話しします。まず、まれびとが古環跡に現れると鐘が鳴ります。そして、このダンジョンに黒い板が現れます。無地で、何も書いていない、手のひらより少し大きい板です。誰が置いていくのかは、わかりません」
彼は、聖職服の内側から布の包みを取り出して、机の上で開いた。
……は?
俺は、たぶん、かなり間抜けな顔をしたと思う。
黒い板だった。手のひらより少し大きい、角の丸い長方形。縁に継ぎ目がない。表面につやがあって、埃ひとつ乗っていない。斜めから覗くと、俺の情けない顔がうっすら映った。
……スマホじゃん。
厚みはもう少しある。金属とも石ともつかない材質で、ボタンも、穴も、模様もない。だが、形と、机に置かれたときの座りの良さは、俺が2か月間ベッドの上で握りしめていたあれと、ほとんど同じだった。
「触っても構いません。あなたに応えた板ですので」
俺は、恐る恐る指を伸ばした。
冷たい。ガラスの冷たさではなく、石の冷たさだった。
……そういえば。
俺をこっちへ送り込んだあいつも、これくらいの板の中にいた。その符合が偶然なのかどうか、聞いても答えは返ってこない気がしたので、俺は聞かなかった。
「その板は、まれびとが30日の仮就労を終えたとき、その人が読める文字で応答します。今朝、応答しました」
今朝、俺が薬草を配っていた頃だ。
「なんて書いてあったんですか」
端末をいじっていたら、端末が発光して画面が表示された。
『ユーザー照合:山田直人、帰還資格:成立、中継点:白鐘迷宮第三層、帰還石:未取得、起動地点:古環跡……以上』
「そこに書いてある通り、帰る資格が成立したこと。白鐘迷宮の第三層に《帰還石》があること。それを古環跡で使うこと。……以上です」
そうハルヴェンが補足すると、端末の表示は消え、うんともすんとも言わなくなった。……以上じゃないんだよ。聞きたいことが、いっぺんに10個くらい浮かんだ。浮かんだ順に口から出しかけて、俺はそこで踏みとどまった。一度に聞くと、絶対に覚えられない。1つずつだ。
「その、なんで30日なんですか」
「決まっているからです」
「誰が決めたんですか」
「迷宮です。大昔の取り決めだと伝わっています。迷宮には、人とは違う形の意思があります。言葉は通じません。ただ、まれびとを迎えて、30日この土地で暮らさせて、望むなら帰す——その形だけが、ずっと続いています」
ハルヴェンは、真顔だった。
「教団が決めたんじゃなくて、ですか?」
「教団は決めていません。迷宮が決められていない部分だけを私たちが埋めています。住まいをどうするか。仕事をどう用意するか。誰が担当につくか。そのあたりは、全部こちらの都合です」
……なるほど。制度じゃなくて慣習だ。上位の何かが枠だけ決めて、細部は現場が回している。それは、まあ、どこの世界でもそうなんだろう。
「その仕事っていうのは、なんでもいいんですか」
「本人が選びます。断ることもできます。ただ、依頼を受けて、相手の要望を確かめて、働いて、結果を出して、報酬を受け取る。この一周を、決められた日数ぶん回してもらいます」
……俺は、この30日を思い返した。
「……あの、もう1つ聞いていいですか」
俺は、少しだけ声を落とした。聞きたくない質問だった。ただ、この30日で覚えたことが、聞かないほうが後で高くつくと言っていた。
「もし、その作業をやらなかった人はどうなるんですか」
ハルヴェンは、答える前に、一度だけ目を伏せた。
「状況により指導が入ります。厳密に言うと、この世界に馴染むことが大事ですので。馴染めない場合は、その方とは何度か話をします。到着した時点で、こちらへ刃を向けてくる方もいます。町の人が死んだ例もあります。その場合は話し合い以前の問題ですね」
部屋の温度が、下がった気がした。俺の中で、昨日からずっと引っかかっていたものが、音を立てて噛み合った。
「……報告書って、それのためですか」
「そうです。あなたが町にとって危ういかどうかを、私たちは見ています」
俺は、自分の膝を見た。
あの帳面には、俺が字を覚えた日のことも、ダンジョンできつくなって座り込んだことも、揚げ菓子を食べたことも書いてあったのかもしれない。それは、俺を知るためじゃなくて、俺を測るためだった。
「俺、危なかったですか」
「いいえ」
即答だった。
「あなたは初日に無一文であることを自分から申告しました。薬瓶を割ったことを自分から言いに行きました。……その2件で、こちらの心配はほぼ終わっています」
「なんで最初に教えてくれなかったんですか」
俺は、たぶん、この質問をいちばん聞きたかった。
「教えられないからです」
「……教えたくない、じゃなくて」
「教えられません。こちらが縛られています」
ハルヴェンは、机の上の板に目をやった。
「帰り道を見つけるところまでが、迷宮の出した課題です。本来、まれびとは自分で気づいて、自分で第三層へ向かいます。実際、30日を待たずに辿り着いた方も何人かいらっしゃいます」
「……自力で、ですか」
「ええ。いろんな人に話を聞いて回った方もいました。迷宮のおとぎ話から気づいた人もいました。……そういう方々に、私たちは何もしていません。見ていただけです」
……見ていただけ。つまり、この人たちは本来、答えを知っていても口に出せない立場なんだ。試験監督が、解けない受験生の横で、答案を眺めているようなものだ。
「では、気づかなかった者はどうなるか」
彼は、そこで一度、間を置いた。
「昔は、そのまま何年も暮らして、そういうものだと思って一生を終える方がいました」
……うわ。
「それを見かねたのか、最初からそう決まっていたのかは、わかりません。ただ、30日を過ぎたまれびとについては、こちらから教えてよいことになっています」
彼は、板の縁を布ごしに撫でた。
「私たちが差し上げているのは、答えではありません。30日この土地で暮らした方に配られる救済措置です」
……救済措置。
要するに、俺は自力で解けなかったほうだ。30日かけて気づかないまま、樽を運んで、字を覚えて、揚げ菓子を食っていた。
……落第かよ。
そう思いかけて、俺は少しだけ引っかかった。
「他の人は、知ってるんですか。ノエラさんとか、門番のガレスさんとか」
「具体的には知りません。ただ、長く関わっている方は、薄々気づいています。ガレスは、たぶん気づいているほうです」
「言わないんですか」
「言えないようになっています。仕組みのほうで」
「最後に、選択肢を申し上げます」
ハルヴェンは、そこで初めて、少しだけ前に身を乗り出した。
「帰る場合。帰還石は第三層にあります。第三層は、一人で行ける場所ではありません。ですので、こちらで白鐘迷宮への正式な調査隊を編成します。人手も装備も、こちらが出します。ただし、迷宮は危険なところですので死ぬ場合もあります」
「あの、それ、誰かに取ってきてもらうのは」
「できません。石は本人にしか触れません。あなたが自分で行って、自分で持って帰る必要があります。これもダンジョンの試練です」
……自分で行くのか。第一層で足が止まった男が、第三層に。
「残る場合」
彼は続けた。
「教団が後見人になります。定期的に面談があります。仕事は斡旋できますし、この町でなくても構いません。……いま声をかけられている仕事を受けても、もちろん結構です」
……なんで知ってるんだ。
「同じ町ですので」
声に出してないのに。
「どちらを選んでも、こちらは全力で支えます。強制はしません。残ると決めた方を送り返したことは、一度もありません」
「期限はあるんですか?」
「あります。黒い板は、応答してから30日で沈黙します。それまでに決めてください。過ぎた場合は、残ることを選んだものとして扱います」
ハルヴェンは、それだけ言うと、机の上の黒い板を布に包み直して、椅子を引いた。
「板は、それまでこちらで預かっておきます」
「……持っていかなくていいんですか」
「迷宮へ入る日にお渡しします。石のある場所を示すのは、その板ですので」
……えっ、地図なのか、これ。
「無くされると、こちらも困ります。ですので、その日まで預かります」
「……信用ないですね、俺」
「あなたではなく、宿の部屋を信用していないだけです」
彼は包みを袖の内へ収めて、立ち上がった。
「今日は、これで終わりにします。一度に決めるものではありません」
彼は扉のところで一度止まって、こちらを見ずに付け足した。
「……黙っていて、すみませんでした。恨まれる覚悟はしています」
そして、出ていった。
部屋に、俺とセレネが残った。セレネは、まだ座ったまま、机の一点を見ていた。指先のインクが、いつもより濃く見えた。
「……知らなかったんですか」
俺が聞くと、彼女は小さくうなずいた。
「知りませんでした。私は、担当なのに」
声が、ずいぶん薄かった。
「……30日で帰れることも、端末のことも、いま初めて聞きました。たぶん、余計な感情が入らないようにするためなのでしょうけど」
彼女は、そこで何か言おうとして、口を開いて、そのまま閉じた。言葉が出てこなかったんだと思う。
俺は、窓の外を見た。
……帰るか、残るか。
あと30日で、俺は自分の人生を、自分で決めないといけないらしい。




