19. 正式身分
30日目の依頼は、拍子抜けするほど軽いものだった。
北通りの薬種商から、乾かした薬草の束を配って回るだけ。半日もかからない。掲示係が俺の顔を見るなり「今日はこれな」と押しつけてきたので、たぶん向こうも今日が何の日か知っていたんだと思う。
……最終日に軽い荷って。妙な気配りだが、正直、ありがたかった。
昼過ぎにギルドへ戻って、完了証をカウンターに出す。ノエラさんは帳面と突き合わせて、銅貨を並べて、それから、いつもより丁寧に判を押した。
「精算は以上です。……それと、ヤマダさん」
彼女は帳面に何か書き込んでから、顔を上げ、カウンターの下から小さな箱を出した。
箱の中には札が1枚入っていた。黒っぽい木の板に、鉄の薄片が嵌め込まれている。表面に文字が刻んであった。
「鉄級、正式登録。ヤマダ・ナオトさん」
ノエラさんが言った。
「おめでとうございます」
俺は、その札を両手で受け取った。軽かった。手のひらに乗るくらいの、木と鉄の板だ。値段をつけるなら、たぶん銅貨で足りる。なのに、指が少し震えた。
……身分証だ。俺がこの世界で持っている、初めての「自分がここにいていい」という証拠。
「正式登録により変わることを、いくつか申し上げておきます」
ノエラさんは、いつもの調子に戻った。
「受けられる依頼の幅が広がります。仮登録では回せなかった責任のある仕事が来ます。報酬も少し上がります。同じ荷運びでも、鉄級と仮登録では単価が違いますので」
「ありがとうございます」
報酬が上がるのは正直なところ嬉しい。
「そのかわり、失敗したときの扱いも変わります。仮登録は『慣れていないので』が通りましたが、これからは通りません」
……いきなり現実的だ。
「それと、3階の個室ですが、あれは、仮登録期間中の措置です。明日から使えません。今日は泊まっても構いませんが、明日からは別の宿を使ってください」
「……ですよね」
「ただ、正式会員は提携の宿を紹介できます」
この30日で貯まったのは、銀貨2枚と、銅貨が少し。働かない日が続けば、あっという間になくなる金額だ。
「ヤマダさん。ひとつだけ、帳面に書けないことを申し上げてもいいですか」
「……なんですか」
「感想です。ですので、口で言います」
ノエラさんは、眼鏡の縁に指をかけた。
「出身不明の仮登録でいらした方のうち、30日を最後まで通される方は半分もいません。ヤマダさんは、1日も飛ばさずにやりました。……よく続けられましたね」
……よく続けられましたね。俺は、その言葉を、うまく受け取れなかった。受け取れないまま、喉の奥のあたりが妙な具合になった。
「これは、うちが差し上げたものではありません。あなたが続けた結果です」
彼女は、箱の蓋を閉めて、俺のほうへ押した。
「今日は、それを持って帰って、ゆっくり休んでください。宿の紹介は、明日でも間に合います」
◇
ギルドを出て、俺は北通りをまっすぐ歩いた。空はよく晴れていた。突き当たりに白い建物が見える。この道を歩くのは、ずいぶん久しぶりだった。
……何を言われるんだろう。
昨日、セレネは「ちゃんと、全部お話しできるようにしておきます」と言った。全部。その言葉が、ずっと引っかかっている。
そんなことを考えていたら、聖堂についた。階段を上がる足が、3階に近づくにつれて重くなった。心臓が変な位置で鳴っている。就活の面接の前も、たしかこんな感じだった。
文書室の扉は、開いていた。中に2人いた。1人はセレネ、もう1人は知らない男だった。背が高くて、細い。銀白色の髪を後ろへ流している。濃い緑の聖職服。顔は六十くらいに見えるのに、耳が長かった。
……エルフだ。初めて見た。感動する場面じゃないのはわかっていたが、俺の中の何かが小さく騒いだ。
「ヤマダ・ナオトさん」
男が言った。低くて、静かな声だった。
「ハルヴェンといいます。この聖堂の責任者です。……座ってください」
俺が座るより先に、セレネが立ち上がった。そして、頭を下げた。
「ごめんなさい」
深い角度だった。
「私は、ヤマダさんが別の世界から来た方だと知ったうえで、あなたに近づきました。知らないふりをして、字をお教えして、街を案内しました」
——え。
いま、なんて言った?
俺は、別の世界から来たと誰にも言っていない。門でガレスさんに素性を聞かれたときも言わなかった。ギルドの登録票も「出身不明」で押し通した。丸テーブルでも、文書室でも、坂の上でも、一度だって口にしていない。
……背中に、いやな汗が出た。膝の上で指が勝手に握り込まれていた。息が浅い。喉の奥が張りついて声が出ない。
「そのうえで、あなたの様子を書いて、上に出していました。あの帳面です。ヤマダさんがご覧になったとおりです」
セレネは、頭を下げたまま続けた。俺は、何も言えなかった。
……落ち着け。
……いや、そりゃ、バレるだろ。俺は森から歩いてきて、この世界の常識を何ひとつ知らなくて、字も読めなくて、掌から物を出した。あれで気づかれないと思っていたほうが、どうかしている。
「ヤマダさん」
ハルヴェンが静かに口を挟んだ。
「もし不快であれば、今後、彼女をあなたの前に出しません。担当を替えます。それでも顔を合わせるのが苦痛であれば、彼女を別の町の聖堂へ移すこともできます。手配はこちらでします」
セレネの肩が、跳ねた。
……は? その瞬間、俺は自分でも驚くくらい、はっきり声が出た。
「待ってください」
2人が、こっちを見た。
「……それ、いま決める話ですか」
「決めていただく必要があります。あなたには、その権利があります」
「ないです」
俺は言った。
「いや、権利がないって意味じゃなくて。……順番が違うでしょう。俺、まだ理由を聞いてないです」
ハルヴェンが、わずかに目を細めた。怒っている顔ではなかった。どちらかというと、予想と違うものを見た顔だった。
「先に、理由を聞かせてください。話はそれからです」
「……いいでしょう」
ハルヴェンは、そう言って、椅子に深く座り直した。
「まず、事実からお話しします。あなたのような方を、私たちは『まれびと』と呼びます。別の世界から、こちらへ迷い込んでくる方のことです」
「……俺だけじゃないんですか」
「ええ」
彼は、あっさりうなずいた。
「珍しくはあります。ですが、伝説ではありません。レグナ王国全体でいえば、毎年、何人かが各地の古い転移遺構に現れます。このリュネの古環跡には、2年か3年に1人ほど」
……2、3年に1人。珍しいことは珍しいがそこまでじゃない。
「出身の世界も、種族も、文明の程度もばらばらです。あなたのように言葉が通じる方もいれば、通じない方もいる。座って動かない方もいれば、剣を抜く方もいました」
「……剣」
「怯えれば、人は剣を抜きます。責めるつもりはありません」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「そのうえで、報告書の話をします」
来た。
「私たちは、まれびとが町で問題を起こさないかを見ています。何を考えている方なのか。何に怒り、何を怖がるのか。どういう場面で嘘をつくのか。……体調と、機嫌と、金の使い方まで書かせています」
……全部だ。
「疑っているのか、と聞かれれば、そのとおりです、と答えます」
……はっきり言うな、この人。
「あなたは何も持たずに現れました。身元を確かめる手段がありません。私たちにできるのは、見ることだけです。見ないという選択もありますが、それをして町の人が傷ついた例が、遠い昔にあります」
前例があるのか。
「以来、こちらの決まりになっています。まれびとには担当をつけ、生活を支え、そして記録を取る」
彼は、机の上で指を組んだ。
「不快でしょう。当然です」
……当然です、と言われた。俺は、口の中で言葉を探した。腹は立っている。立っているが、思っていたほどではない。
……いや、そりゃそうだろ。
もし逆の立場だったら。ある日、名前も出身も何もわからない男が街に来る。俺が街の側なら、絶対に見る。誰かに見張らせて、報告させる。それをしない街のほうが、たぶん怖い。
「セレネさん」
俺は、顔を上げた。
「はい」
「あなた、俺のこと、報告しろって言われたから書いてたんですよね」
俺は、そこで少しだけ息を吸った。
「読み書きを教えてくれたのも、街を案内してくれたのも、あれも、書くためですか」
セレネの目が、少し揺れた。
「……最初は、そうです」
正直だった。
「担当として、生活に馴染んでいただくのが仕事でしたので。最初の日に丸テーブルで声をかけたのは、完全に仕事でした」
彼女は、そこで一度、唇を結んだ。
「ですが、坂を上って迷宮を見に行ったのは、報告書の項目にありません。品書きを読ませたのも、揚げ菓子を2本食べたのも、自分の意思です」
彼女は、まっすぐこっちを見た。
「言い訳ですね。すみません」
……言い訳。俺は、その言い方に、なんというか、力が抜けた。この人は本当にそういう人だ。都合のいいことを言ってから、自分でそれを「言い訳」と名指しする。嘘をつくなら、もっと上手くやればいいのに。
部屋が、少し静かになった。
ハルヴェンが、その静けさをしばらく置いてから、口を開いた。
「ヤマダ・ナオトさん」
「はい」
「あなたは今日、30日の仮就労を終えました。正式な登録も済ませたと聞いています」
「……もう伝わってるんですね」
「同じ町ですので」
彼は、組んだ指をほどいた。そして、これまでで一番ゆっくり言った。
「そのうえで、ひとつだけ確かめさせてください」
窓の外で、荷車が石畳を鳴らして通り過ぎた。
「君は——元の世界に帰りたいですか?」




