18. 29日目
そのあとの俺は、自分でも驚くくらい、普通に働いた。あれから文書室には行ってない。自分の考えがまとまらない。
そのかわりに、朝から夕方まで依頼を受けて、夜は宿の食堂の隅で、拾った木炭で板に文字を書いた。独学は効率が悪い。わかっていたが、あの部屋には行けなかった。
行けない理由を、俺は自分でうまく言葉にできなかった。怒っているのか、傷ついているのか、それとも単に気まずいのか。たぶん全部だ。
だから俺は、手を動かした。手を動かしていると、考えなくて済む。これは引きこもり生活で身につけた唯一の技術だった。あのときは動画やSNSを見ていた。いまは荷物を運んでいる。ずいぶんマシになったと思う。
それでも、荷を担いで階段を上っているときや、寝る前に灯りを消したときに、あの一行が勝手に浮かんでくる。
山田直人 観察報告書。
……この街の親切って、本物だったのか? 一度そう考えると、止まらなかった。
門で名乗ったときのガレスさん。読み書きを教えると言って現れたセレネ。個室を用意したノエラさん。あれは全部、俺が来る前から決まっていた手順だったんじゃないのか。誰かが台本を書いていて、みんなその通りに動いていて、俺だけが「いい街だ」と感動していたんじゃないのか。
……いや。俺は、そこで毎回引っかかる。
この街の人は、親切の理由を必ず先に並べる。施療院が混むから。疑いの生まれる場所を潰しておきたいから。数が合わないとうちが疑われるから。あれを全部演技でやれる人間が、こんなに揃うだろうか。
疑い切れないし、信じ切れない。俺はその中途半端な場所に、3日間座り込んでいた。
◇
29日目の朝、俺はギルドの倉庫で酒樽の入れ替えをやっていた。休憩中に、倉庫の主任が寄ってきた。
「なあ、ヤマダ。お前、明日でギルドの仮登録が終わりなんだって?」
「そうですね。明日で30日目です」
「そのあとのことは何か考えてるか?」
「……考えてないです」
本当に考えていなかった。いや、正確には、考えないようにしていた。30日という目盛りだけを見て歩いてきたので、その先を見ると足がすくむ。
「うちで続けねえか」
俺は、顔を上げた。
「え」
「ギルド倉庫の常傭だ。正式採用じゃねえぞ。1か月ごとの更新だ」
主任は、指を折った。
「日当は銅貨8枚。月の半分は確実に仕事がある。宿は相部屋になるが、斡旋がある。そのぶん安い。あと、月に一度は迷宮の補給にも出せる。あれは実入りがいいぞ」
俺は、その数字を頭の中に並べた。
いまは保証が銅貨4枚で、宿代が3枚引かれて、手元に残るのが銅貨1枚。それが最低銅貨7枚になる。半分の日数しか働かなくても、たぶん、いまよりずっと楽になる。
「なんで、俺なんですか」
「お前は真面目に働くし、ミスしたら言うだろ。収納持ちは他にもいる。だが、黙っている奴も多い。物品の数が合わなくなると、こっちが疑われる。それが一番高くつく」
主任は、あっさり言った。
「……少し、考えさせてもらっていいですか」
「おう。もしその気があったらギルドに言付けてくれ」
彼は俺の肩を叩いて、行ってしまった。俺は、樽のあいだに座り込んだまま、しばらく動けなかった。
……ちゃんと働けるから、雇う。
それだけの理由だ。特別な才能でも、選ばれた血筋でもない。毎日来て、数を数えて、割ったら言う。それだけのことに、日当がついた。
……これ、俺がやってきたことだよな。
◇
夕方、完了証を出しにギルドへ戻った。ノエラさんは帳面と突き合わせて、それから口を開いた。
「ヤマダさん。明日で、在籍30日です」
「……もう、そんなにですか」
「そんなにです。規定の依頼数は完了。重大な違反はなし。明日の依頼を終わらせて手続きを取れば、その日のうちに正式登録の審査が下るでしょう」
彼女は判を押して、書類の角を揃えた。
「あと一日です。頑張ってくださいね」
……あと一日。妙な感じだった。この30日、俺はずっと明日のことしか考えてこなかった。明日の依頼、明日の飯、明日の銅貨。その明日が目の前に来ている。
明日を越えたら、その先はどうなるんだろうか。仕事の誘いの話もある。それだけでも食える。でも——
考えかけたところで、入口の扉が開いた。
◇
「あっ。ヤマダさん」
紺色の聖職服だった。セレネは、いつもより少し息が上がっていて、抱えた紙束を持ち直しながら近づいてきた。指先のインクは相変わらずだ。
「最近、いらっしゃいませんが……お元気ですか」
俺は、答えられなかった。
……元気です、と言えば済む。
言えば済むし、それで今日は終わる。明日には正式登録が下りて、倉庫の話を受けて、俺はこの街で働きはじめる。あの部屋には行かない。それで、たぶん全部丸く収まる。
……いや。丸く収まるんじゃない。俺が黙るだけだ。
薬瓶を割った日、俺は言いに行った。ダンジョンできつくなった日も、言った。言えば楽になるとは限らないと知りながら、それでも言うほうを選んできた。この30日、俺がやってきたのはそれだ。
いま黙ったら、その全部が「都合のいいときだけ」になる。
俺は、息を吸った。
「……この前、文書室に行きました。セレネさんがいなくて、机の上に帳面が開いてました。……見るつもりはなかったんですけど、読めてしまって」
セレネの動きが、止まった。
「山田直人、観察報告書、って書いてありました。あれはなんですか?」
しばらく、セレネは何も言わなかった。
「……どこまで、読まれましたか」
「題だけです。下は、単語がわからなくて全部は読めませんでした」
彼女は、そこで、ほっとした顔をしなかった。むしろ、もっと困った顔をした。
……あ。その反応が、俺にはいちばんこたえた。読まれていなくてよかった、ではないのだ。読まれてしまったこと自体が、彼女にとっては問題らしい。
「……ヤマダさん。ごめんなさい」
彼女は、紙束を胸に抱え直した。
「いま、ここでは言えません。……嘘をつくこともできます。『あれは違います』と言ってしまえば、たぶんヤマダさんは信じてくれます。でも、しません」
彼女は、まっすぐこっちを見た。否定されると思っていた。誤解ですと言われるか、笑って流されるか、どちらかだと思っていた。この人はそのどちらも取らなかった。
「じゃあ、なんで書いてるのかは」
「それを、私の口から説明していいのかどうか、まだ私には判断がつきません」
彼女は、そこで少しだけ声を落とした。
「私は、判断していい立場ではないんです。ですから、今日のうちに確認します。……明日、正式登録が終わったら、文書室に来てください。ちゃんと、全部お話しできるようにしておきます」
彼女は、そこで一度言葉を切って、それから、いつもより小さな声で付け足した。
「……来てくれますか」
俺は、すぐには答えられなかった。少し経って、口が動いた。
「……行きます」
セレネは、うなずいた。うなずいて、礼をしてそのまま出ていった。いつもみたいに喋れなかった。それがかえって、いろんなことを言われるより効いた。
◇
その夜。俺は、個室の板張りの上で、天井を見ていた。
こちらには仕事の誘いがある。ちゃんと働けば最低限稼げる。
……俺の居場所が日本にあるか? 俺は、天井に向かって、正直に考えた。
ない。
日本の俺には、お祈りメールと、返事をしなかったメモと、伏せたままの印刷物がある。求人票の読み方も、面接での話し方も、あのときから何ひとつ上手くなっていない。
こっちには仕事がある。あっちには何もない。
……帰らなくても、いいんじゃないか?
その考えは、思ったよりするりと入ってきた。あんまり抵抗がなかったので、逆に少し怖くなったくらいだ。
ただ、そこにもう1つ、別の問いが並んでいた。明日、あの人は何を言うんだろう。
この2つは、たぶん、別々には決められない。
俺は寝返りを打って、目を閉じた。壁の向こうで、誰かが階段を上がっていく音がした。
……明日か。
30日目が、そこまで来ていた。




