17. 初めてのダンジョン2
それからしばらく歩いたところで、ロザリアが足を止めた。
「鎧鼠の群れだ」
俺には何も見えなかった。
「音がする。前方の突き当たりの右」
言われてから耳を澄ますと、かりかり、という音がかすかに聞こえた。何かを引っ掻く音。それが、いくつも重なっている。鎧鼠。猫くらいの大きさで、背中に甲羅を背負ったやつが、通路の向こうに何匹もいる。
「戦うんですか」
俺は、たぶんかなり間抜けな声で聞いた。
「勝てはする」
ロザリアは、あっさり言った。
「私とブラムで前を止めて、ヨエルが後ろを見る。それで勝てる。……勝てるが、そのあいだ、あんたら3人はどこに立ってる?」
……あ。
輸送係は3人。俺と、テオさんと、無口な女性。全員、荷物を持っている。荷物を持ったまま逃げられないし、置いて逃げたら仕事にならない。
「戦うってのは、守る対象が動けなくなるってことだ」
ロザリアは、俺のほうを見ずに手を出した。
「ヤマダ。忌避粉」
俺は、掌を開いた。朝の荷確認で預かった小袋が、すぐに出てきた。ロザリアは袋を受け取ると、通路の分岐の手前に一掴み撒いた。
それだけだった。俺たちは反対側の通路を歩いた。かりかり、という音は、ついてこなかった。
「これで銅貨1枚ぶんだ。1層の魔物にしか効かんが安上がりだ」
ロザリアが言った。
「群れと戦うより安い。あいつらの素材は、1匹で銅貨1枚に届かん。倒しても足が出る。おまけに誰か引っ掻かれたら、薬代のほうが高くつく」
……あ、そうか。
倒しても儲からない。倒すと怪我をするかもしれない。怪我をすると薬がいる。薬は高い。だから、避ける。金と、命と、消耗品。この3つの天秤が、この仕事の本質なんだと、俺はそのとき理解した。
◇
問題は、そのあとに起きた。いや、問題というほどのことでもない。俺が、ちょっと格好をつけた、というだけの話だ。
「ヤマダさん。一度、休憩を入れますか」
ヨエルが、後ろから声をかけてきた。
「まだ大丈夫です」
即答した。……即答した理由は、はっきりしていた。
俺だけのために隊が止まる。俺だけが遅れる。それに、まだまだ大丈夫だと思っていた。
なのに、そこから通路をいくつか曲がったあたりで、太腿が変な震え方を始めた。
……あれ。息も上がっている。革の胴当ては見た目より重いし、爪先に鉄の入った靴は歩き慣れていない。それに、暗いところをずっと緊張したまま歩くのは、思っていたよりずっと体力を食う。
……いや、まだいける。いける。歩けている。転んでいない。
そう思った瞬間、講習の裏庭でヨエルが言ったことが、耳の奥で再生された。
——恥ずかしいから黙る。迷惑をかけたくないから黙る。そうして、動けなくなってから言うんです。
……あー。俺は、いま完全にそれをやっている。
しかも性質が悪いことに、俺は「まだ大丈夫です」と自分で宣言してしまっている。あれを撤回するのは、なかなか格好が悪い。
……格好が悪いのと、死ぬのと。並べてみると、答えは1つしかなかった。
「……すみません」
俺は、前を向いたまま言った。
「思ったよりきついです。少し休ませてください」
隊が、止まった。ロザリアが振り返って、俺を見て、それから壁際を顎で示した。
「そこ座れ」
……怒られなかった。ヨエルが俺の横にしゃがんで、手首と、首の後ろに順番に触れた。
「水を飲んでください。……よく言えました」
「……すみません」
「謝るところではありません。ただ」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「次は、もう少し早く言ってください」
「早く、ですか」
「ええ。報告できたのは立派です。ですが、いま報告したのは『きつくなってから』でした。理想は『きつくなりそうだと思ったとき』です」
……そんなに早く?
「早いほうが、こちらの選択肢が多いんです。いまなら休憩で済みます。もう少し遅ければ、荷を分けることになった。さらに遅ければ、担いで戻ることになりました。同じ申告でも、早いほど安く済みます」
彼は、水袋の口を締めながら続けた。
「よくある勘違いなんですが、限界まで働ける人が優秀なのではありません。明日も同じ仕事ができる人が優秀なんです。寝ずに働いて翌日倒れる人より、きちんと寝て毎日同じだけ動ける人のほうが、隊としてはずっとありがたい」
……明日も同じ仕事ができる人。俺は、就活の面接で「体力には自信があります」と言ったことを思い出した。何の根拠もなかった。ただ、そう言うものだと思っていた。
ヨエルが言っているのは、たぶん、その反対だ。
◇
鐘観測所は、第一層のいちばん奥にあった。第二層への降り口のすぐ手前で、通路が広間になっている。石の台の上に、水を張った浅い皿と、砂時計と、目盛りのついた棒が置いてあった。
台の向こうに、老人が1人いた。ダンジョン教の観測係だそうだ。俺たちは灯石と食料などの荷物を下ろし、代わりに木箱を受け取った。
「ここは補給所も兼ねている」
ブラムが教えてくれた。
「地上から要るもんを運んで、帰りに下で採れたもんを持って上がる。俺らみたいなのが往復して、ようやく回る」
降ろして、積んで、また歩く。冒険というより、運び役だ。その間、俺は壁を見ていた。
紙が貼ってある。線と点が、びっしり並んでいた。
「これ、なんですか」
「鐘の記録だ」
老人は、灯石を数えながら答えた。
「鳴ると、そこの皿の水が揺れる。揺れ方で、だいたいの深さが読める。時刻と、揺れと、その日どれだけ人が入ったかを書いて、上に送る」
……上に送る。坂の途中で見た、あの屋根つきの掲示を思い出した。あそこで数えているのと、同じものを、こんな地面の下でも数えている。
荷物を整理していると、降り口のほうが急に騒がしくなった。人が上がってきたのだ。別の隊だった。先頭の男が、後ろの男に肩を貸している。貸されているほうの右腕が、肘から先まで赤かった。
ヨエルが荷を置いて、走った。ヨエルは膝をついて、傷の上に手をかざした。掌の下が、淡く光った。赤い筋が引いていった。血が止まって、傷の縁が寄って、盛り上がって、閉じた。
……治った。治癒魔法かな。そういうスキルも当然あるんだ。俺は感心しながらその様子を見ていた。
治療を終えたヨエルは、しかし、立ち上がらなかった。彼は男の肩を掴んで、何かを短く聞いていた。それから、上がってきた隊の隊長らしい人と、低い声で話し込んだ。戻ってきた彼の顔は、いつもより硬かった。
「すごいですね、あれ。なんでも治せるんですか?」
「いえいえ、あれは傷が浅かったからです。私の力でできるのは、放っておいても塞がる傷を、その場で塞ぐことだけです。血が止まる。膿まない。それだけでも十分価値はありますが、それだけです」
「……骨とかは」
「無理です。折れた骨も、潰れた内臓も、なくなった指も、戻りません」
彼は、水袋を腰に戻した。
「重い怪我をした人は、迷宮の中では助かりません。街まで運んで、寝かせて、時間をかけて治すしかない。そして、迷宮から街までは遠い」
……遠い。俺は、さっき歩いてきた通路の長さを思い出した。あれを、動けない人間を担いで戻る。第二層からなら、もっとだ。
「ですから」
ヨエルは、俺を見た。
「迷宮で大事なのは、危険が起きたときにどう対処するかではありません。危険をどれだけ起こさずに済ませるか、です。撒いた粉が銅貨1枚。折れた足は、たぶん一生ぶんです」
◇
地上に戻ったのは、まだ外が明るいうちだった。外の光が目に刺さって、俺はしばらく瞬きを繰り返した。半日ぶんの明るさが、ずいぶん贅沢なものに感じられた。
ギルドに戻って、ノエラさんに報告した。
「受領品も確認しました。どうでした、迷宮は」
「……広かったです」
言ってから、それだけでは何も伝えていないなと思って、俺は続けた。
「あそこ、道が全部同じ形なんですよ。壁も、天井も、苔の明るさも。分かれ道でどっちから来たか、俺、途中でわからなくなりました。ブラムさんは壁の何かを見て平然と曲がってましたけど、その何かが、最後まで見えませんでした」
「一人だったら、どうでしたか」
「帰ってこられなかったと思います」
自分で言って、少し情けなくなった。ついでなので、全部言ってしまうことにした。
「あと、俺、あんまり役に立ってないです。荷物を持って、言われたとおりに歩いて、途中で休ませてもらっただけなので。……戦闘も、無理でした。魔物が見えた時点で足が止まったので、たぶん向いてないです」
ノエラさんは、帳面をめくった。
「灯石は、欠けが1つもなく届いています。それと、監督の報告に一行あります。『忌避粉、要求から受け渡しまで間が無かった』と」
「それ、袋を出しただけですけど」
「その袋がすぐ出てこなければ、監督は隊を組み直します。組み直しているあいだ、6人が全員、あの通路に立っていることになります」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「それと、ヤマダさん。最初から向いている人は、いません。皆さん最初は、広い、暗い、怖い、と言って帰ってきます。そこから、自分が何なら耐えられるかを探すんです。剣に耐えられた人は剣に行きますし、道を覚えるのが得意だった人は案内に行きます。向き不向きというのは、行ってみないと出てきません」
彼女は、判を押した。
「ですので、今日の『無理でした』は、こちらにとっては立派な収穫です。次にお勧めする依頼を、少し寄せておきますね」
「寄せる、というのは」
「戦わないほうへ、です」
……無理でしたが、収穫。変な言い方だ。変な言い方だが、そう言われると、不思議と息がしやすかった。
◇
その後、俺は文書室へ行った。いつもの授業の日だ。扉は開いていた。
「セレネさん」
返事がなかった。
中を覗くと、机に誰もいない。珍しい。インク壺の蓋は開いたままで、ペンが紙の上に置いてある。ちょっと席を外しただけ、という置き方だった。
……待ってるか。俺は、椅子に座ろうとして——机の上の帳面が、目に入った。別に、覗こうとしたわけじゃない。開いていたのだ。開いていて、そこに字が書いてあった。
そして俺は、もう、字が読める。いちばん上の行が、勝手に頭に入ってきた。
『山田直人 観察報告書』
……え。
俺は、その一行を、もう一度読んだ。
観察。報告。
背中のあたりが、すっと冷たくなった。
……観察されてたのか。……いや。
落ち着け。ちゃんと理由があるはずだ。この街の人は、聞けば必ず理由を並べる。門番も、受付も、倉庫番も、全員そうだった。
そう思った。思ったのに、足のほうが先に動いていた。俺は、椅子に座らずに、そのまま廊下へ出た。
階段を下りて、聖堂を出て、北通りを歩いて、宿まで戻った。
誰にも会わなかったのが、少しありがたかった。




