15. セレネの街案内
倉庫の棚は、少しずつ形を変えていった。
コルタが上へ進言したら、返事は思ったより早く来た。棚を組み直す予算は出ない。ただし、いまある材料でできる範囲なら好きにやっていい——要するに、金は出さないが口も出さない、というやつだ。
コルタは鼻を鳴らしていたが、俺はそれで十分だと思った。真ん中の2列を空けて、傷薬と解毒をそこへ移す。棚板の奥に板を噛ませて、手前に桟を打つ。俺は木箱に色紐を巻いた。今月は赤だ。
9日目の終わりに、コルタは棚の前に立って、しばらく黙っていた。
「取りやすいな」
それだけだった。それだけだったが、俺はその日、宿までの道をやたらと軽い足で歩いた。
字のほうも進んだ。板の記号は、もう全部読めるようになった。ただし、読めるだけだ。看板を見ても、口から出るのは音だけで、それが何の店なのかはわからない。
でも、少しずつ出来ることが増えているのが、なんとなく分かった。
◇
10日目。依頼が昼過ぎに終わったので、俺は聖堂へ向かった。
文書室の扉を開けると、セレネは机に向かっていた。顔を上げて、窓の外を見て、それからもう一度こっちを見る。
「今日は早いですね」
「依頼が昼で終わったので」
「……なるほど」
彼女はペンを置いて、開けっぱなしだったインク壺に蓋をした。そのまま立ち上がる。
「では、今日は外にしましょう」
「外?」
「単語というのは、紙の上で何度書いても頭に残らないんです。『パン』と書き取りするより、パン屋の前でパンを見ながら『パン』と読んだほうが、たぶん忘れません」
◇
北通りへ出た。昼を過ぎた通りは、朝より人が多く、荷車も多い。俺はこの道をもう何度も歩いているがこうやって見て回るのは初めてかもしれない。
セレネは看板を指差し、あれが何を意味しているかを教えながら歩く。それを俺は復唱して単語を覚えていく。
脇道を抜けると、広場に出た。真ん中に噴水がある。石を積んだ丸い水盤に、細い水が何本か立っていて、その周りで子供が走り回っていた。
「この噴水は、リュネの有名な場所です」
彼女はそう言って、水盤の縁を指でなぞりながら、由来をひととおり喋った。誰が掘って、どの戦のあとに壊れて、どの世代が直したか。正直、半分も頭に入らなかった。俺たちは、そのまま縁に腰かけて、しばらく水を見ていた。
……変な感じだ。
用がないのに、人と並んで座っている。
大学では、こういう時間の作り方がわからなかった。誰かと一緒にいるには理由が要ると思っていたからだ。同じ講義、同じ班、同じバイト。理由が切れれば関係も切れたし、切れても困らないように、最初から深くしなかった。困らないというのは、要するに、何も残らないということだった。こういうのを、遊びに行く、というんだと思う。生きてきて、俺は初めてそれをやっていた。
◇
「ヤマダさん。あれは食べたことがありますか」
彼女が指したのは、広場の端に出ている屋台だった。油の匂いがする。
「ないです。……何なんですか、あれ」
「品書きが下がっていますよ」
……出題だ。
屋台の脇に、細長い板が吊るしてあった。短い行が三つ並んでいる。俺は上から順に声に出した。
「……みつあげ。こなあげ。しおあげ」
「読めましたね」
「読めましたけど、意味がさっぱりです。『あげ』が三回出てくるのだけはわかりました」
「そこがわかれば十分です」
彼女は嬉しそうに、板の一行目を指した。
「『あげ』は、油で揚げる、の揚げです。三つとも揚げ物ですね。違うのは頭のほうで、『みつ』が蜜。『こな』は粉ですが、この場合は甘い粉のことです。『しお』は塩です」
「蜜あげ、粉あげ、塩あげ。……本当にそのままなんですね」
「屋台の品書きは、だいたいそのままです。凝った名前をつけると、何の店かわからなくなって売れませんので」
彼女は板から目を離さずに続けた。
「ヤマダさんは、どれにしますか」
「じゃあ、蜜で」
「よい判断です」
妙に力のこもった返事だった。串に刺した生地を油で揚げて、上から蜜をかけたやつが出てきた。銅貨2枚。
「これ、経費で落ちるんですか?」
「落ちません」
即答だった。
「教育に必要な出費だと思うんですけど」
「思っても落ちません。うちの会計は、私が泣いても落としません。……ここは私が出します」
「いや、俺が出しますよ。お世話になってますし」
「いえいえ、こちらが出しますよ」
言っているあいだに、彼女はもう銅貨を屋台に置いていた。
揚げ菓子は、外が硬くて中が甘かった。ドーナツを固くして蜜を足したような味だ。うまい。日本の味とは違うが、油と砂糖は世界を越えて正しい。
顔を上げると、セレネは2本目を買っていた。当然のように、また蜜のほうだ。
「……早くないですか」
「1本目は味を見ました。2本目が本番です」
……この人、甘いもの好きなんだな。
言われてみれば、文書室で出される茶にも、彼女は毎回きっちり蜜を足していた。俺はそれを、ただの手癖だと思って見ていた。癖ではなく好みだったらしい。
人の好き嫌いを一つ覚える、というのを、俺はずいぶん久しぶりにやった気がする。
◇
広場を抜けて、北へ少し上った。
道が坂になって、途中で建物が途切れる。そこで、視界が一気に開けた。
城壁の向こうに麦畑が広がっていて、そのさらに向こうに、低い丘がある。丘の中腹に、黒い口が開いていた。遠いのに、そこだけ光を吸っているように見える。
「白鐘迷宮です」
……あれか。思っていたより、大きかった。
「白鐘って、白い鐘ですか」
「中から鐘の音がするからです。それで白鐘と呼ばれています」
彼女は丘を指したまま続けた。
「ただ、決まった時刻に鳴るわけではないんです。日に何度も鳴る日もあれば、丸一日鳴らない日もあります。かといって全く分かっていないというわけでもありません。なんとなく規則性があることが分かっています。あそこを見てください」
彼女が指したのは、坂の途中に立っている屋根つきの掲示だった。石を積んだ台の上に、木札が何枚も掛かっている。
「読めますか」
俺は、いちばん大きい札の字を、上から順に声に出した。
「……読み方はわかるけど、意味がわからないです」
「白鐘迷宮観察所です。最初の単語が名前。あとの単語が見て、書きとめる、という意味の言葉ですね」
彼女は札の下の段を指した。
「ダンジョン教の係が、ここで作業をしています。鐘が鳴った時刻、潜った人数、出てきた人数、天気。それを見て、書いて、聖堂へ持って帰ります。見るのが観察、書くのが記録、持って帰って上に出すのが報告です。観察、記録、報告。この3つは、うちの仕事の背骨みたいなものです。どの部署でも同じ言葉を使いますので、覚えておくと便利ですよ」
そう言って、セレネは地面に単語を書き始めた。
……観察、記録、報告。覚えておけと言われたので、俺は素直に何度か頭の中で繰り返した。
と、そのときだった。
腹の底から突き上げるような音が、丘のほうから来た。俺は、みっともないくらい肩が跳ねた。
低くて、長い。鐘に似ているが、鐘ではない。教会の鐘みたいな澄んだ響きではなく、もっと重くて、鈍い。音が来たというより、先に地面のほうが震えて、あとから耳が追いついた感じだった。
「……い、いまの」
「はい、これが鐘の音です」
あれは俺がこっちに来たばかりの頃に聞いた音だ。ここから鳴っていたのか。
「セレネさん。あれ、誰が鳴らしてるんですか」
彼女は、少し困ったように笑った。
「わかりません」
「……わからないんですか」
「中に鐘があるのかどうかも、わかっていません。音の来る方向から、たぶんかなり深いところだろう、とは言われています。わかっているのは、そこまでです。うちの教えでは、ダンジョンは神々が人に与えた恵みであり、同時に試練だということになっています。ですが、鐘のことは何も書いていません。それも試練なのでしょう」
セレネは、それきり黙って丘のほうを見ていた。
風が麦畑を渡っていって、彼女の袖が少し膨らんだ。目の色が、さっきまでと少し違う。仕事の話をしているときの顔ではなかった。
「……セレネさんは、入ったことあるんですか」
「一度だけ。研修で、入口の広間までです」
彼女は、そこで小さく笑った。
「私は文書係ですので。行くのはいつも、記録のほうです。誰かが見てきたものを、私が書き写します」
……ああ。
インクの染みた指と、天井まで届く棚を思い出した。この人は、あの黒い口の中で起きたことを、たぶん何百枚も書いている。書いているのに、見たことはない。
何か言おうと思ったが、うまい言葉が出てこなかった。出てこないまま、俺も一緒に丘を見ていた。
「そろそろ帰りますか」
振り返ると、セレネはいつもの顔に戻っていた。
「暗くなると、この坂は危ないので。それと、宿の夕食に間に合わなくなります」
「そっちが本題ですよね」
「両方本題です」
坂を下りながら、俺は一度だけ後ろを振り返った。黒い口は、傾いた光の中で、さっきより輪郭がぼやけて見えた。誰が鳴らしているのかわからない音が、いまもあの奥にある。
……いつか、あそこに行くことがあるんだろうか。




