13. セレネの読み書き教室
北通りをまっすぐいった突き当たりに、白い石の建物があった。両隣の家より頭ふたつ分は高くて、正面に階段があって、その上に細長い窓が並んでいる。教会のような形をしている。
……でかいな。
階段を上がり中に入る。中は、外から見たより静かで、明るかった。受付の女性に「セレネさんという方は」と聞くと、彼女は手元の帳面に何か書き込みながら答えた。
「3階の文書室です。階段を上がってもらって右側の突き当たりにあります……ヤマダさん、ですね」
「なんで、わかるんですか」
「聞いてますので。『たぶん来ます』と」
◇
3階の廊下は短くて、突き当たりの扉が半分開いていた。そこから紙の匂いがしている。図書館の匂いだ。新品の本ではなく、長いこと置かれた紙が少しずつ乾いていく、あの匂い。
覗くと、部屋いっぱいに棚があった。天井まである棚に、高さも色もばらばらの本と帳面が詰まっている。入りきらないぶんは床に積まれていて、山と山のあいだに細い道が通っていた。人ひとりがやっと通れるほどの幅だ。
その道の突き当たりに机があって、セレネはそこにいた。左手で本のページを押さえ、右手でペンを動かしている。机の端には蓋の開いたインク壺と、書き終えたらしい紙の束。
「あの」
ペン先が、紙の上で止まった。
「来てくださったんですね」
彼女は本を閉じて脇へ寄せた。表紙に金の押し模様が入っている。俺には模様にしか見えないが、たぶん題名だ。
「それ、何をやってたんですか」
「写本です。施療院の手引きを、支部へ配る分だけ書き写しています。あとは届いた記録の綴じ直しと、年代順の並べ替えと、目録の書き足しですね」
セレネはパパっと机を片付けて、どこからか紙とペンを出してきて俺に渡してきた。
「では、宿題です。名前は覚えられましたか?」
俺は見本を伏せて、記憶だけで書いてみることにした。二文字目までは、いけた。三文字目で線が跳ねて、ペン先にインクが溜まり、紙に丸い染みができた。
……あー。
気づけば俺は、紙を手で隠していた。これも癖だ。面接で言葉に詰まった瞬間、まず表情を作りにいく癖と、たぶん根は同じところにある。
「見せてください」
彼女は俺の手の下から紙を抜き取って、灯りに近づけた。そのまま、何も言わない。……怒られはしないと思う。思うが、無言は無言で、けっこう効く。
「昨日の今日で、形になっています。頑張りましたね」
その言葉を、俺は今日、2回もらったことになる。就職活動で1回も言われなかったやつを。
セレネは棚の下段から、薄い冊子と木の板を出してきた。
「これが、初心者用の読み書きセットです。孤児院とか、学校の教室で使っているものと同じものです」
板には記号が並んで彫ってある。冊子のほうは、ページごとに大きな文字が数個ずつ並んでいるだけ。どう見ても子供向けだ。これをやるのか、と一瞬だけ思って、思った自分を殴りたくなった。使えるものを恥ずかしがって使わないのは、いちばん高くつく。就活の相談窓口に一度も行かなかった男が言うんだから、間違いない。
「方針を先に言います」
彼女は板を俺のほうへ滑らせた。
「まず、読めるようにします。単語は、おいおいです」
「……逆じゃないですか。単語を覚えないと、読めても意味が」
「この文字は、記号ひとつに音がひとつです。ですから、記号さえ分かれば、意味がわからなくても声には出せます」
彼女は冊子を開いて、そこの一行を指した。
「読まなくていいです。音にしてください」
彼女は記号をひとつずつ、指でなぞった。そして一つずつ発音する。喉から、意味のない音が並んで出てくる。自分も復唱する。
「エヌクフェル、ですか」
「『鍵』です」
彼女は、少し身を乗り出した。
「意味は、いま覚えなくていいです。音さえ出れば、人に聞けますので。『これは何と読みますか』ではなく、『エヌクフェルとは何ですか』と聞ける。……これは、大きな違いです」
◇
セレネと一緒に文字と読み方を覚える。板の記号は、半分くらいが見た瞬間に音になるようになっていた。
俺は、大学の3年から4年にかけての自分を思い出した。就活対策の本を買って、線を引いたのは最初の章だけだった。業界研究のノートを作って、1社ぶんで力尽きた。
それを何回も続けては、俺は「自分は勉強ができない人間だ」という結論を出した。結論を出してからは、楽だった。できない人間には、やらない権利がある。
なのに今日の俺は、記号の半分を覚えている。……もしかしたら、追い込まれないと、やらないだけだったのかもしれない。
その考えは、あんまり気分のいいものではなかった。才能の問題にしておけば、俺は悪くなかったのに。追い込まれれば動くというのは、要するに、追い込まれるまでは動かなかったという話だ。情けない。
情けない話だが、と俺は思い直した。
裏を返せば、追い込まれた俺は、ちゃんとやれるということでもある。今日は逃げ場がなかった。読めなければ契約書も、依頼票も、明日の飯の値段もわからない。だから覚えた。それだけの話だ。
それだけの話だが、覚えたのは事実だ。事実は動かない。昨日、そう教わった。
……意外と、やれるのかもしれない。
◇
セレネは板の記号をもう一度なぞろうとして、途中で手を止めた。目の縁を指で押さえて、その手をゆっくり下ろす。灯りが暗いせいかと思ったが、そうではなかった。目の下に、薄い影がある。
初めて会ったときにも、同じものがあった。あのときは、そういう顔の人なんだろうと思っていた。気になったことを聞いてみることにした。
「セレネさん、……寝てます?」
彼女は少し困ったように紙束の角を揃えた。
「ヤマダさんの担当をいただいてから、少しだけ夜が短くなりました」
「え、俺のせいですか」
「いいえ。私の段取りのせいです」
そこだけは、きっぱりしていた。
「私は、この聖堂に来てからずっと文書係です。こうやって誰かに教えるのは、ヤマダさんが最初です」
……初めて。嬉しい、と思った。思ってから、その嬉しさが、座りの悪いところに引っかかった。
俺は、この街の人間じゃない。身元を証明するものを何ひとつ持っていない、3日前に森から歩いてきた男だ。門でも受付でも、そう申告した。それでも飯が出て、寝床が出て、いまは無料で字まで教わっている。
……なんでだ。
悪意を疑っているわけじゃない。この街の人は、みんな親切にする理由をこっちが聞く前に並べてくる。この人だって、昨日は「施療院が混むから」と言った。理由のある親切だ。それはわかる。
わかるが、施療院の混雑を減らすために、目の下に影を作ってまで夜を削る人間がいるか?
理屈が、割に合っていない。俺は、割に合わない親切のほうが怖い。返せないからだ。
「身元がわかんない人にそんなに頑張るんですね。なんで、そんなに頑張れるんですか?」
口に出してから、失礼だったかと思った。彼女は怒らなかった。ペンを置いて、机の端の写本の束を、指の背で軽く叩いただけだった。ちょっと考えてから口を開いた。
「写本は、誰が書いても同じです。私が写しても、前の人が写しても、中身は変わりません。変わってはいけないものですから」
「……まあ、そうですね」
「ですので私は、自分の仕事が誰かの役に立ったところを、見たことがありません」
……あ。
「私の写した手引きは、どこかの支部に届いて、たぶん誰かが読んでいます。届いたという記録も返ってきます。でも、それだけです。読んだ人がどんな顔をしたのかも、それで何が助かったのかも、私は知りません。記録というのは、そういうものです」
彼女は、俺の書いた紙を見た。
「ヤマダさんは、昨日、名前が書けませんでした。今日は書けます。私の仕事の結果が、その日のうちに、目の前で動くんです。それって素晴らしいことではありませんか?」
……ああ。
俺は、机の上の紙を見た。染みのついた、俺の名前を。
この人は、俺を助けたいんじゃない。俺の中で何かが動くところを、見たいんだ。だから夜を削る。割に合わないんじゃなくて、この人の中では、ちゃんと合っている。
それなら、俺にも返せるものがある。
明日、今日より少し読めるようになること。たったそれだけでいい。変な話だが、俺はそのとき、少しだけ背筋が伸びた。37社ぶんの不採用通知は、俺の結果を誰も待っていなかったという記録だ。でもこの部屋には、俺の明日を楽しみにしている人間が一人いる。
誰かが結果を待っている。それだけで、こんなに違うのか。
「セレネさん。あと少しだけ、やりませんか」
「いけません。今日は、このくらいにしましょう。あまり詰め込むと、明日抜けます。……これは教本に書いてありました」
彼女は板を裏返して、新しい紙を一枚引き寄せた。
「では、締めます。今日できたことを、事実だけで3つ」
……また、これか。だが今日は、昨日ほど時間がかからなかった。
「依頼をこなしました。ギルドと契約しました。……あと、記号を半分覚えました」
ペンが走った。彼女は書き終えた紙を、俺のほうへ向けた。読めない字が並んでいる。読めないが、3行あることだけはわかる。
「では、宿題です。この板を貸しますので、全部音にできるようにしてきてください。私は、たいてい3階のここにいます。夜も、だいたいいますので。依頼が早く終わった日でも、終わらなかった日でも、来てくださいね」
「来ます」
俺はそう言って、板を抱えて聖堂を出た。
外はもう夜で、北通りには人が少なかった。歩きながら、覚えた記号を頭の中で順番に発音してみる。半分までは、ちゃんと出た。
……悪くない。解釈ではなく、事実として、悪くない1日だった。




