12. 異世界生活3日目
3日目は、荷下ろしの依頼から始まった。
西通りの外れの平屋で、荷車から袋と樽をひたすら下ろす。袋は灰、樽は油。休憩の合間、俺は日陰にしゃがんで、地面に指で線を引いた。昨日、教えてもらった、俺の名前だ。
何回か書いて、ようやく見本と同じ形になった。
……いける気がする。
こっちの文字は、ひとつの記号にひとつの音がついている。要するにアルファベットだ。漢字みたいな世界だったら、詰んでいた。
◇
作業を終え完了印をもらった後、ギルドのカウンターに完了証を出すと、ノエラさんはそれを帳面と突き合わせて、それから顔を上げた。
「ヤマダさん。これで、依頼の完了が3件になりました」
彼女は、眼鏡を押し上げた。
「30日の在籍、依頼の完了が3件以上、重大な違反なし。この3つが揃うと正式登録の審査を受けられます。あなたは今日、2つ目を満たしました。残りは日数だけです。あと27日、この街にいて、問題を起こさなければいいです」
「ありがとうございます」
俺はこの3日、必死に今日を生き延びていた。あと27日同じことをやる必要があるのか。
「それで、ご提案があります」
ノエラさんが、書類を1枚カウンターに出した。そして、こちらが何か言う前に、指を紙の頭に置いた。
「まず、ギルドが残りの27日ぶん、あなたの依頼枠を確保します。危険度の低いものを中心に、1日に1件から2件依頼を受けられるようにします」
「枠を確保する、というのは」
ノエラさんは、指で行を押さえた。
「その日に適当な依頼がなかった場合でも、こちらが最低限の報酬を用意する、という意味です。掃除でも、荷運びでも、何かは出します。報酬が、1日あたり銅貨4枚を下回ることはありません」
……最低保証だ。
この3日、俺がいちばん怖かったのは稼ぎの少なさじゃない。「明日、仕事があるかどうかわからない」ことだった。今日依頼があっても、明日に依頼が無ければ詰む。だから昨日の夜、俺は丸テーブルに突っ伏していた。
「それと、宿です。3階の東端に、物置に使っていた部屋が3つあります。うち1つを、契約期間中お貸しします。個室です」
……個室。
「狭いです。寝台と木箱が1つ入ると、もう床がありません。窓も、手のひらほどしかありません。朝と夜の食事が付きます」
俺は、カウンターに手をついた。
……個室。飯付き。
「宿代は、1日あたり銅貨3枚。報酬から引きます」
俺は、指を折って数えた。
保証が4枚、天引きが3枚。手元に残るのが1枚。
……1枚か。
少ない。だが、昨日までの俺は0だった。0と1のあいだには、4と5のあいだよりずっと大きい差がある。しかも扉のある部屋で、朝と夜に飯が出る。喜びが胸のあたりまで上がってきて、そこで、ぴたりと止まった。
……うますぎる。
条件のいい話には裏がある。読めない契約書、格安の個室、確保された仕事。並べてみると、俺の知っている「そこから抜けられなくなる話」の並びと、見事に同じだ。囲い込まれて、断れなくなって、気づいたら鉱山にいる。
……いや、待て。
俺は、その考えを頭の端に寄せた。
この3日、俺に良くしてくれた人は何人かいた。門番も、倉庫番も、古着屋も。あの人たちは全員、親切にする理由をこっちが聞く前に並べてきた。誰ひとり「あなたのためです」とは言わなかった。
なら、この人にも理由があるはずだ。あるなら、聞けばいい。
昨日までの俺なら、たぶん黙って押していた。理由を聞いて嫌われるほうが、損をするより怖かったからだ。
「……あの。なんで、そんなことしてくれるんですか」
俺は聞いた。聞かずにはいられなかった。
「制度だからです」
ノエラさんは、あっさり言った。
「出身不明者向けの、標準的な枠組みです。あなたのために作ったものではありません。『自分は出身不明ということにしよう』と考える方が出ますので、条件を満たした方に、こちらから声をかけます」
「……それだけ、ですか」
「もう1つ、うちの都合を申し上げておきます」
彼女は、眼鏡の縁に指をかけた。
「相部屋で物がなくなると、いちばん後から入った人間が疑われます。ヤマダさんは、3日前に来た人です」
……あ。
昨日、俺は鍵のない木箱を見て「盗られようがない」と思った。逆は考えていなかった。
「疑いは、あなたが実際に盗ったかどうかは関係ありません。疑われた記録が残った時点で、次の依頼人が渋ります。……あなたを個室へ移すのは、親切ではありません。疑いの生まれる場所を、先に潰しているだけです」
……ああ。
やっぱり、この人もそうだ。その事務的な態度が、俺にはいちばん信用できた。
ノエラさんは、罰則の条項も最後まで読み上げた。途中でやめるなら7日前に申し出ること。無断で3日空けたら枠が消えること。正当な理由がなく、受けた依頼に行かなければ、その日の保証は出ないこと。
「……やめられるんですね」
「やめられます。やめられない契約を、うちは結びません」
彼女は、当たり前のことのように言った。
俺は、ペンを取った。
「お願いします」
拇印を押して、それから隣の欄を見た。名前を書く欄だ。少し迷ってから、ポケットの紙切れを出して机に広げる。それを見ながら、震える手で同じ形をなぞった。
ノエラさんは、その欄をじっと見ていた。
「……書けてますね。昨日の登録票では、ご自分の名前も書けないと伺っていました」
ノエラさんの声が、少しだけ変わった。彼女は、指で欄をなぞった。それから、少しだけ間を置いた。
「頑張りましたね」
俺は、そのひとことに、変なところを突かれた。「頑張ってください」なら、何回も言われている。説明会でも、面接の最後でも、お祈りメールの文面にも入っていた。「頑張りましたね」は、初めてだった。
「……教えてもらったんです」
俺は言った。
「昨日の夜、ダンジョン教の人が来て。紙に書いて渡してくれたので、それを見ながら」
「……セレネさんですね」
「知ってるんですか」
「うちにも来られますので」
ノエラさんは、書類を引き取って、判を押した。
「これは、控えです。読めるようになったら、読んでください」
「ノエラさん。もう1つだけ、教えてください。あの、ダンジョン教の聖堂って、どこにありますか」
「北通りをまっすぐ、突き当たりに、白い石の建物があります」
彼女は、地図を出して、丸のところを指した。俺は礼を言って、契約書の控えと地図を懐に入れ、ギルドを出た。




