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第7話「もう一度、あの場所で――夫とファンの境界線」


「今度、イベントあるんだけど」


夕食の後。


何気ない会話の中で、みのりがそう言った。


「イベント……ですか?」


「うん、握手会」


その一言で、心臓が跳ねる。


――あの場所。


すべてが始まった場所。


「……行く?」


少しだけ試すような視線。


迷う理由なんてなかった。


「行きます」


即答だった。


みのりは小さく笑う。


「そっか」


でも、その後すぐに表情を少しだけ引き締める。


「ただし」


その一言で、空気が変わる。


「その時は、完全に“ファン”としてね」


――外では他人。


そのルール。


「……はい」


分かっている。


それでも、少しだけ複雑だった。


――そして当日。


イベント会場。


あの日と同じように、人で溢れていた。


列に並ぶ。


周りは、純粋なファンたち。


当たり前だ。


ここにいるのは、“声優・みのり”を応援する人たち。


(……俺も、その一人だ)


ただ一つ違うのは――


(家では、夫だってこと)


その事実が、妙に現実感を狂わせる。


やがて、順番が近づく。


ステージの上にいる、みのり。


仕事モードの彼女。


完璧な笑顔。


柔らかい声。


――“みんなの憧れ”。


その姿を見て、改めて実感する。


(やっぱり、すごい人だ)


自分とは違う世界の人。


本来なら、こうして話すことすら特別なはずなのに。


(俺は……)


考えそうになるのを、止める。


今は、ただのファン。


それだけでいい。


「次の方どうぞー」


スタッフの声。


ついに、順番が来る。


一歩、前へ。


みのりと目が合う。


――でも、その表情はいつも通り。


何も知らないかのような、完璧な対応。


「こんにちは」


仕事としての声。


けれど、その奥にほんの少しだけ見慣れた気配を感じる。


手を差し出される。


握る。


あの時と同じ感触。


「……好きです」


小さく、呟く。


周りには聞こえないくらいの声。


みのりの目が、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。


でも、すぐに戻る。


「ありがとうございます」


完全な営業トーク。


なのに――


その一言が、ちゃんと“自分に向けられている”と分かる。


「あなたの声に……惹かれました」


続ける。


あの頃と同じ言葉。


ほんのわずかに、彼女の指が強く握り返してきた気がした。


「……嬉しいです」


それもまた、仕事の言葉。


でも違う。


ほんの少しだけ、特別な温度があった。


そして。


ほんの一瞬だけ、視線が重なる。


誰にも気づかれない、ほんの刹那。


「……また来てくださいね」


いつもの締めの言葉。


でも。


(……帰る場所は、同じなんだよな)


その事実が、不思議で仕方なかった。


手が離れる。


そのまま列から外れる。


振り返ることはできない。


ただ前へ進む。


でも、胸の奥はずっと温かかった。


――夜。


玄関のドアを開ける。


「ただいま」


「おかえり」


いつもの声。


いつもの空間。


さっきまでの“仕事の顔”とは違う、みのりがそこにいる。


思わず、少し笑ってしまう。


「……変な感じですね」


「でしょ?」


彼女も同じように笑う。


「ちゃんとできてた?」


「……多分」


少しだけ不安になる。


すると、みのりは一歩近づいてきて。


「完璧だったよ」


そう言って、優しく微笑んだ。


そのまま。


そっと距離が縮まる。


「ご褒美」


軽く、触れるだけのキス。


「……っ」


さっきまでの緊張が、一気にほどける。


「今日は“ファン”として頑張ったからね」


少しだけいたずらっぽい声。


「家ではちゃんと“夫”に戻らないと」


その言葉に、胸が熱くなる。


「……はい」


強く頷く。


外では他人。


でも、確かに繋がっている。


誰にも知られない関係。


それでも――


この距離は、どこよりも近かった。 



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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