第8話「心の距離、ゼロ――湯気の向こうで」
夜。
「お風呂、どうする?」
みのりが何気なく聞いてくる。
「先にどうぞ」
そう答えた瞬間。
「……一緒に入る?」
あまりにも自然な一言に、思考が止まる。
「……え?」
聞き返すことしかできない。
「夫婦なんだし、別におかしくないでしょ?」
確かにそうだ。
そうだけど。
「いや、その……心の準備が……」
完全に動揺しているのが自分でも分かる。
そんな様子を見て、みのりはくすっと笑った。
「冗談じゃないよ?」
逃げ場はなかった。
――数分後。
浴室。
湯気が立ちこめる中、妙に落ち着かない空気。
視線のやり場に困る。
(無理だろこれ……)
意識するなと言う方が無理だった。
みのりは、少し照れた様子でバスローブの紐に手をかける。
「……あんまり見ないでよ?」
そう言いながらも。
ゆっくりと、それを外した。
「……っ」
思わず息を呑む。
一瞬で視線を逸らそうとして――でも、できなかった。
(見ちゃダメだ……でも……)
理性と本能がぶつかる。
「……やっぱり見てる」
少しだけ頬を赤くして、みのりが言う。
「す、すみません……!」
慌てて顔を背ける。
すると、くすっと笑われた。
「まあ、いいけど」
その一言で、さらに動揺する。
「夫婦だし」
さらっと言われて、何も言い返せない。
「潤一郎くんも」
そう言って、今度は逆にこちらを見る。
「……鍛えてる?」
視線が腹筋のあたりで止まる。
「え、あ……少しだけ……」
急に意識されて、落ち着かなくなる。
「へぇ」
興味深そうに見つめてくる。
「ちゃんとしてるんだね」
少しだけ距離が近づく。
(近い……)
湯気の中で、距離感が曖昧になる。
「……こういうのも、ちゃんと見ておかないとね」
「え?」
「夫婦なんだし」
またその言葉。
でも、さっきよりも少しだけ意味が重い気がした。
「……恥ずかしいです」
正直な本音だった。
すると、みのりも少しだけ視線を逸らす。
「……私も」
小さく呟く。
その一言で、空気が少し柔らかくなる。
お互い、慣れていない。
でも――
「少しずつ、でいいよね」
そう言って、優しく微笑む。
「……はい」
頷く。
無理に距離を詰めるわけじゃない。
でも確実に、近づいている。
湯船に浸かる。
隣同士。
肩が触れるか触れないかの距離。
「……近いですね」
「うん」
静かな返事。
でも、その声はどこか落ち着いていた。
「でも、嫌じゃない」
その言葉に、胸が温かくなる。
「……俺もです」
素直に答える。
湯気の向こう。
ぼんやりとした視界の中で、みのりの表情が少しだけ近くなる。
「ほんと、変な関係だよね」
「……そうですね」
「でも」
少しだけ、間を置いて。
「嫌いじゃないでしょ?」
その問いに、迷いはなかった。
「……はい」
むしろ――
「すごく、好きです」
その言葉に、みのりは少しだけ驚いた顔をして。
それから、優しく笑った。
「……そっか」
静かな空間。
水の音だけが響く。
身体の距離だけじゃない。
心の距離も――
ほとんど“ゼロ”になっていた。
――湯気の向こうで、二人の距離は確かに縮まっていた。
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