第18話 深紅の反旗
アネットが倒れた翌日、ヴィクトリアからの伝書が届いた。
『法案の議会採決は五日後。阻止するには、宰相の不正の証拠を議会に提出するしかない。証拠は私が用意する。あなたたちは議会の日に王都に戻ってきて。——V』
「五日後……間に合うのか?」
ルシアンが眉をひそめた。北方から王都まで馬車で三日。準備を含めれば猶予はほとんどない。
「行きます」
寝台の上でアネットが言った。まだ顔色は優れないが、目には決意が宿っている。
「アネット。お前はまだ——」
「休んでいる場合じゃありません。ここで何もしなければ、私の力は宰相に奪われます。そうなったら、この集落の人たちも——」
「わかっている。だが、体が——」
「大丈夫です。一日休めば動けます。ルシアン様こそ、昨夜から一睡もしていないでしょう」
図星だった。ルシアンはアネットの容態が心配で、一晩中テントの外で起きていた。クラウスから聞いたのだろう。
「……関係ない」
「関係あります。倒れるなと言うなら、ルシアン様も無理しないでください」
ルシアンは長い沈黙の後、寝台の縁に腰を下ろした。
「……一時間だけ、寝る」
「はい。起こしませんから」
「一時間だと言っている」
「はいはい」
ルシアンは壁に背を預けて目を閉じた。数分後には、かすかな寝息が聞こえてきた。
アネットはルシアンの寝顔を見つめた。起きているときは見せない、穏やかな表情。
「……守りますからね。あなたのことも、この場所も」
三日後、一行は王都に到着した。
議会の開かれる貴族院の前で、ヴィクトリアが待っていた。
「遅かったわね。もう少しで始まるところよ」
「証拠は?」
「ここに」
ヴィクトリアが差し出した書類の束は、宰相ヴァルトシュタインの不正の全貌を暴くものだった。十年前の大旱魃における土地の不正取得、北方難民への救済金の横領、復興利権の私物化——すべてが、証拠とともに記されている。
「これを集めるのに三年かかったわ」
ヴィクトリアの声は静かだが、その奥に燃えるものがあった。
「母が死んでから、ずっと準備していたの。父の書斎に忍び込み、帳簿を写し、証人を探し——でも一人では議会に持ち込む力がなかった」
「だからラヴロック公爵に協力を求めたのか」
「正確には、あなたたちが王宮に来たのが好機だったの。緑命の力が注目を集めている今なら、議会も耳を傾ける」
ルシアンは書類を受け取り、素早く目を通した。
「……十分だ。これなら法案を潰せるだけでなく、宰相の罷免も可能だ」
「お願い、ラヴロック公爵。議場で証拠を提出して。私が直接やれば、父に察知される」
「引き受けよう。——だが、お前も覚悟しておけ。父親が失脚すれば、ヴァルトシュタイン家も無傷ではすまない」
「わかっているわ。母の故郷を踏みにじった男を、娘だからという理由で許すつもりはない」
議場。
貴族院の大広間は、諸侯と大臣たちで埋め尽くされていた。
壇上では宰相ヴァルトシュタインが、北方復興事業の管轄移管について滔々と演説をしている。
「——緑命の力は王国の至宝。これを一介の令嬢と、たかが一公爵家に委ねておくわけにはまいりません。国家として管理し、効率的に運用すべきです」
議場に賛同の声が上がりかけた、その時。
「異議あり」
ルシアンが立ち上がった。氷のように冷たい声が、議場を静寂で満たす。
「ラヴロック公爵。異議の根拠は」
「宰相閣下が北方復興の管轄を求める真の理由は、国益のためではない。私利私欲のためだ」
ざわめきが走った。宰相の顔が強張る。
「その証拠を、ここに提出する」
ルシアンは書類の束を議長に手渡した。議長が読み上げるにつれ、議場の空気が一変していく。
「十年前の土地不正取得——」
「救済金の横領——」
「復興利権の私物化計画——」
宰相の顔が、蒼白から土気色に変わっていく。
「で、でたらめだ! そのような証拠は捏造に——」
「証拠の出所について、宰相閣下のご令嬢が証言を申し出ています」
議場の扉が開き、ヴィクトリアが入ってきた。深紅の髪が、決意の炎のように揺れている。
「ヴィクトリア……! お前、何を——」
「議長。証人として発言の許可をお願いいたします」
議場は騒然となった。
宰相の娘が、父親の不正を告発する。前代未聞の事態に、議員たちは固唾を飲んで見守った。
ヴィクトリアは壇上に立ち、まっすぐ前を向いた。
「私の母は、北方の出身です。父の不正によって故郷を奪われ、道具のように扱われ、故郷に帰ることなく亡くなりました」
その声は、震えながらも——折れなかった。
「二度と、同じことを繰り返させてはなりません」
採決の結果、管轄移管法案は否決。
宰相ヴァルトシュタインは不正の疑いにより、職務停止処分が言い渡された。
議場を出たルシアンの元に、アネットが駆け寄った。
「ルシアン様……!」
「終わった。法案は潰した」
「ありがとうございます。ヴィクトリア様にも——」
回廊の柱の陰で、ヴィクトリアが一人で壁にもたれていた。肩が、小さく震えている。
アネットは迷わず駆け寄り、ヴィクトリアの手を握った。
「……何よ。同情?」
「違います。——ありがとう」
ヴィクトリアは目を見開いた。そして、深紅の睫毛を伏せた。
「……馬鹿ね。お礼を言われるようなことじゃないわ」
その頬を、一筋の涙が伝った。




