第17話 牙を剥く宰相
北方での活動が一週間を過ぎた頃、目に見える成果が出始めていた。
井戸からは安定して水が汲めるようになり、集落の周囲には若草が芽吹き始めている。アネットが力を注いだ場所を中心に、緑が同心円状に広がっていく様は、まるで命の波紋のようだった。
だが——その成果が、敵の動きを加速させた。
ある朝、野営地に王都からの早馬が到着した。
「ラヴロック公爵閣下に、宰相閣下よりの書状です」
ルシアンが受け取った書状を読む表情が、見る間に険しくなった。
「……何と書いてあるのですか」
「宰相が動いた。北方領土の復興事業を、王室直轄から宰相府の管轄に移管する法案を議会に提出したらしい」
「それは——」
「管轄が宰相府に移れば、お前の活動も宰相の指揮下に入る。事実上、お前の力を宰相が自由に使えるようになるということだ」
ヴィクトリアの警告通りだった。宰相は、アネットの成果を見て動き出したのだ。
「さらに」ルシアンの声が低くなる。「法案には付帯条項がある。『復興に従事する特殊能力者は、事業完了まで王都への帰還を禁じる』」
「帰れなくなる……?」
「事実上の軟禁だ。お前をこの荒野に縛りつけ、公爵邸にも王都にも戻さない。そうすれば婚約も有名無実化する」
アネットの顔から血の気が引いた。アルベルトに利用されたときと同じだ。自分の意志を無視して、都合よく使われる——
「させない」
ルシアンが立ち上がった。銀灰色の瞳に、氷のような怒りが宿っている。
「クラウス。王都に急使を出せ。貴族院の同志に連絡を取る」
「かしこまりました」
「それと、ヴァルトシュタイン嬢に伝書を」
「ヴィクトリア様にですか?」
「宰相の娘なら、法案の詳細を知っているはずだ。——あの女が本当に味方なら、今が証明する時だ」
ルシアンは矢継ぎ早に指示を出していった。法的な対抗策、政治的な根回し、情報収集。氷の公爵の本領が発揮される。
だが、宰相も黙ってはいなかった。
翌日、集落に宰相府の役人が現れた。
「王室の命により、北方復興事業の管理体制を見直すことになりました。つきましては、アネット・レイヴンクロフト殿の活動記録を提出していただきたい」
「活動記録?」
「緑命の力の効果範囲、持続時間、使用回数、すべて記録していただきます。今後は宰相府の監督官の立ち合いのもとで——」
「断る」
ルシアンが冷たく遮った。
「管轄移管の法案はまだ議会を通過していない。現時点で宰相府に彼女の活動を管理する権限はない」
「し、しかし宰相閣下の指示で——」
「法的根拠のない指示に従う義務はない。帰れ」
役人は震えながら退散した。だが、これは序の口に過ぎなかった。
三日後、集落への物資の補給が止まった。
「食料の輸送隊が来ません」
クラウスの報告に、ルシアンの眉が跳ねた。
「理由は」
「『北方街道の治安悪化により一時的に輸送を見合わせる』とのことですが——街道に問題があるとは聞いていません」
「宰相の嫌がらせか」
兵糧攻めだ。物資を止めて、アネットたちを追い詰める。
集落の住人たちが不安がった。ようやく希望が見えてきたのに、また見捨てられるのか、と。
「大丈夫です」
アネットが皆の前に立った。
「食料は——この土地が育ててくれます」
アネットは集落の畑に向かった。一週間かけて蘇らせた土地に、住人たちが蒔いた種。まだ芽が出たばかりだが——
両手を大地に押し当てた。緑の光が、今までにない強さで溢れ出す。
「アネット! 無理をするな!」
ルシアンが叫んだ。だが、アネットは止まらなかった。
畑の芽が、みるみるうちに伸びていく。一日分の成長が、数秒で起こる。蕪の葉が広がり、麦の穂が首をもたげ、豆の蔓が支柱を這い上がる。
「す、すげえ……」
住人たちが息を呑んだ。
だが——代償は大きかった。
光が消えた瞬間、アネットの膝が崩れた。
「アネットっ!」
ルシアンが駆け寄り、倒れるアネットを抱きとめた。その顔は蒼白で、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「だい、じょうぶ……ちょっと、使いすぎ、ただけ……」
「馬鹿が。だから無理をするなと——」
「でも、みんなの食べるものが……」
「お前が倒れて何になる」
ルシアンの声が震えていた。怒りではない。恐怖だ。
アネットはルシアンの腕の中で、薄く笑った。
「……ごめんなさい。約束、破っちゃいましたね。辛くなったら言うって」
「……ああ。破った。——だから、罰として」
ルシアンはアネットを抱き上げた。軽すぎる体。
「明日は一日休め。命令だ」
「命令は嫌だって言ったのに……」
「お前を守るための命令は、例外だ」
テントに運ばれるアネットを、集落の人々は心配そうに見送った。
だが、畑には確かに——青々とした作物が実り始めていた。
宰相の兵糧攻めは、失敗に終わった。
しかし、本当の戦いはこれからだった。




