第16話 故郷を待つ人々
北方視察の三日目、一行は荒野の外れにある難民集落を訪れた。
粗末なテントと掘っ立て小屋が寄り集まった集落には、約二百人の元住民が暮らしていた。十年前に故郷を追われ、それでもなお北方の地を離れられずにいる人々。
「お偉い方々が来たところで、何も変わりゃしないさ」
集落の長である白髪の老人、ハインツは一行を冷たい目で迎えた。
「十年だ。十年間、王都の連中は口先だけで何もしなかった。今さら視察だなんだと言われてもな」
「お気持ちはわかります」
アネットが前に出ると、ハインツは怪訝な顔をした。
「あんたは? 公爵の連れかい」
「アネット・レイヴンクロフトです。植物を育てるのが得意で——少しだけ、お手伝いができるかもしれないと思って来ました」
「植物だと? こんな枯れた土地で何ができるってんだ」
「見ていただけますか」
アネットは集落の端にある枯れ井戸に向かった。井戸の周りの地面は完全に乾ききっている。だが、井戸の石組みの隙間に——昨日と同じように——わずかな苔が残っていた。
アネットは苔に手を触れた。緑の光が灯る。
「なっ——」
ハインツが目を見開いた。集落の住人たちも集まってくる。
苔が広がっていく。井戸の石組みに沿って緑が這い、やがて地面にまで達した。乾いた土に、微かな湿り気が戻る。
「……水の、匂いがする」
住人の一人が呟いた。
井戸の底から、かすかな水音がした。緑の力が地中に染み込み、枯れかけていた地下水脈を刺激したのだ。
「水だ——水が出た!」
歓声が上がった。ハインツが井戸を覗き込むと、底にうっすらと水が溜まり始めている。まだ飲めるほどの量ではないが、十年ぶりの水だ。
「こんなことが……」
ハインツの目に涙が浮かんだ。皺だらけの手で目元を拭う。
「すまなかった、嬢ちゃん。疑って悪かった」
「いいえ。まだほんの少しですけど、毎日続ければ、きっと——」
「毎日? あんた、ここに残るつもりかい」
アネットはルシアンに目を向けた。ルシアンは腕を組んだまま、小さく頷いた。
「しばらく、ここで活動させてください。井戸の水を戻して、少しずつ緑を増やしていきます」
集落にどよめきが広がった。十年間見捨てられてきた人々の目に、初めて希望の光が宿る。
その日から、アネットは毎日集落に通った。
井戸の周りの緑を広げ、わずかに生き残った根を見つけては力を注ぐ。気の遠くなるような作業だが、着実に緑は広がっていった。
集落の人々も手伝い始めた。アネットが蘇らせた土に、保存していた種を蒔く老婆。水路を掘り直す若者たち。子供たちは競うように小さな芽を探してきては、アネットのもとに届けた。
「嬢ちゃん、これ見つけた!」
「まあ、タンポポの根ね! よく見つけたわ」
アネットが根に触れると、緑の光とともに小さな芽が顔を出した。子供たちは目を輝かせて歓声を上げる。
ルシアンはその光景を少し離れたところから見ていた。
「旦那様、行かれないので?」
同行していたクラウスが訊ねる。出発前に「私も参ります」と言って聞かなかった老執事だ。
「俺が行っても邪魔になるだけだ」
「そうでしょうか。アネット様はたびたびこちらを見ていらっしゃいますが」
確かに、アネットは作業の合間にちらちらとルシアンのほうを見ている。目が合うと、ふわりと笑う。
「……水を持っていく」
「はい、水ですね。かしこまりました」
クラウスの含み笑いを無視して、ルシアンは水筒を手に歩き出した。
「アネット。水を飲め」
「あ、ありがとうございます。ルシアン様も一緒に——」
「おう、公爵様! あんたも手伝ってくれるのかい」
ハインツが人懐こい笑顔で近づいてきた。
「嬢ちゃんの旦那なら大歓迎だ。そこの水路、力持ちの若いのが足りなくてな」
「……旦那ではない。まだ婚約者だ」
「同じようなもんだろ。ほら、シャベル」
有無を言わさず手渡されたシャベルを、ルシアンは無表情のまま受け取った。
氷の公爵が、難民集落で水路を掘る。社交界の誰が見ても信じないだろう光景だが、アネットにとっては——何よりも頼もしかった。
日が暮れる頃、ルシアンの手はまめだらけになっていた。
「ルシアン様、手——」
「なんでもない」
「なんでもなくないです。見せてください」
アネットはルシアンの手を取り、まめの上にそっと指を置いた。緑の光がかすかに灯る。
「……お前の力は植物だけではないのか」
「どうでしょう。でも、大切な人の痛みを少しでも和らげられるなら」
ルシアンはアネットの手を見つめていた。泥だらけで、日焼けして、荒れた手。だけど、この手が枯れた大地に命を吹き込んでいる。
「……綺麗な手だ」
「え? こんなに汚れているのに」
「汚れてなどいない」
ルシアンはアネットの手をそっと握り直した。
「お前の手は、いつだって——綺麗だ」
夕焼けに照らされた荒野で、小さな緑の芽がそよ風に揺れていた。




